ラピス少年の生い立ち
ラピス・カーレウムは、端的に言うなら「良いとこのお坊ちゃま」である。
しかしその家庭事情は、なかなかに複雑だった。
ラピスの母ルビアは、その美貌から、「麗しき花々の女王」と今も謳われる女性だ。
父ジョゼフによるとルビアは、「ある日、運命のごとく」、このブルフェルト街に現れた。そしてそのときすでに、二歳のラピス坊やを抱いていた。
バツイチだろうと子連れだろうと絶世の美女。たちまち求婚者が列をなしたのだが……
その中から、「地味で冴えなくて、両親が遺した雑貨屋を細々と営むだけ」のジョゼフが選ばれた理由。
それはルビアが、病床でこっそりラピスに教えた話がすべてだろう。
「一番に手を差し伸べてくれた人だったの。不器用にぎこちなく。でも心から心配してくれているのが、伝わってきた」
かくして、生涯最高の奇跡を手にしたジョゼフ。
彼は奮起して、傾きかけた店を、この街一番の貿易商へと大発展させた。
それも「すべては我が幸運の花である、妻のおかげ」と言って、ルビアへの熱愛が冷めることはなかったのだけれど。
病弱で床につきがちだったルビアは、ラピス十歳の年、とうとう流行り病で亡くなった。
花が散りゆくように。
ジョゼフの悲嘆は大きかった。
ラピスとて、母を喪った幼児。毎日、枕元に貼りつくようにして一緒にいた母と切り離されて、呆然としていた。
しかし先に父が、泣くわ叫ぶわ、母の棺めがけて墓穴に飛び込むわの大騒ぎで。
そんなことをされたら、息子が泣く隙がない。
「父様、泣かないで……」
抱きついて願ったけれど、たぶんその声は届いていなかったろう。
実の父親を知らぬラピスにとっては、ジョゼフだけが「父」だった。
ジョゼフも、ラピスを実子として大事にしてくれた。
それはルビアの死後も変わらないにせよ、ジョゼフの最愛の相手がルビアであることも、動かしようがなく。
ゆえに。
ラピスの「ルビアそっくり」と言われる容姿すら、ジョゼフには何のなぐさめにもならないのだった。
ジョゼフは悲哀を振り切るごとく仕事に没頭し、家を空ける期間が長くなった。
今は「お屋敷」と呼ばれるようになった広い家に、小さなラピスはぽつんと取り残された。
「ラピス坊ちゃまだって、お寂しいのに」
「こんな可愛らしいお子様を、よく放っておけること!」
「本当に、旦那様にはいいかげん、立ち直っていただきたいですよ」
優しい使用人たちはラピスに同情し、主人の振る舞いに呆れ返っていた。
けれどラピスは、大好きな父を責めてほしくはないものだから……
「僕、大丈夫だよ! それに父様も立ち直ってきたと思うの。だって二階の窓から飛び降りたり、水風呂に浸かって病気になろうとしたりは、しなくなったものね!」
父の前向きな変化を褒めたつもりが、かえって皆の涙を誘ってしまった。
そんなふうにして、いつ戻るか知れぬ父の帰りを待っていたのだが。
ラピスにとって本当の試練は、その年の暮れにやって来た。
文字通りやって来た。
父の後妻と、その連れ子というかたちで。
突然の父の再婚。
あれほど亡き母ひとすじであった父に、どんな心境の変化があったのか、ラピスは知らない。
継母グウェンは初対面のとき、ゴードン準男爵家のひとり娘だと名乗った。
この国では、準男爵の位に世襲はないと、ラピスは家庭教師から教わっていた。
継母には、十四歳の長女ディアナと、十一歳の長男イーライという連れ子がいて、彼らも共に、カーレウム家の一員となった。
使用人たちが、「旦那様はお酒が弱いのに」とか、「ゴードン家は爵位を買うために、借金までしていたとか。絶対に旦那様の財産狙いよ、計画的だったのよ」などと噂していたが、ラピスには意味がわからず。
「なにやら……家族がいっぺんに三人も増えたぞ……」
確かなのはそれだけ。まさに青天の霹靂。
いつもおっとりかまえているラピスも、さすがに混乱した。
けれど肝心の父は……
「お前はまだ母親が必要な年頃なのに、私は留守ばかりだから。家族が増えれば、賑やかで寂しくないだろう?」
そんな言葉だけ残して、自身はまた仕事仕事で、留守ばかりなのだった。
「父様がいれば、寂しくないよ」
そう言えばよかったのか! と気づいたときには、すでに遅し。父は旅の空。
おっとりもほどほどにしないと、タイミングを逃すのだ。
それでもラピスは元来、人見知りしない子で、愛されて育った者特有の懐っこさもある。だから、継母とも義姉とも義兄とも、仲良くしようと努めた。
継母グウェンが、母ルビアの想い出が詰まった部屋を、自分の部屋にすると主張したときも、反対はしなかった。
義兄のイーライがラピスの部屋を、「この部屋は長男にこそ相応しいだろう」と要求してきたときも、快く譲った。
義姉ディアナと継母が、母の形見の宝石やドレスを全部自分たちのものにしてしまったり、サイズがきつくて売り払ったりしてしまったときには、さすがに寂しくて、胸がきゅうっと苦しくなったけれど……。それでも。
「継母上たちが幸せに過ごしてくれるなら、それでいいよね」
そう考え直した。
ただ、彼らは父が留守の屋敷で、連日客を招いて宴を催したり、あれやこれやと買い物をしているようでもあって……
「このままでは、カーレウム家の財産が――ラピス様が受け継ぐはずのものが、すべてグウェン様たちの手に渡ってしまいかねません。ラピス様、すぐにお父上に戻っていただくよう、連絡いたしましょう」
老齢の執事ばかりか料理長や召し使いたちまでもが心配し、何度もラピスに助言をしてくれた。
けれどラピスという子は、良くも悪くも鷹揚で。
「でも父様を旅先で心配させたら、お仕事の邪魔になるでしょう? それに僕には継母上たちが本当に、父様に黙って悪いことをしているのか、わからないし……」
所詮、十を過ぎたばかりの子供。執事たちの危機感について行けぬまま。
まさか、その一年後には父まで亡くなるなんて。
ラピスでなくとも予想できなかったろう。
ジョゼフは、遠い国で事故に巻き込まれたのだった。
かくして、ラピス少年は現在、十二歳。
真綿でくるむように大切に育てられた、裕福な貿易商の愛らしいひとり息子は、今。
実にわかりやすく、継母たちに虐げられている。
自室は屋根裏部屋。夏は暑くて冬は寒い。
粗末な寝台に粗末な机が家具のすべてで、優秀な家庭教師も取り上げられ、学ぶことすらままならない。
みすぼらしい服を着せられて、使用人のような仕事も課されている。
継母によると、ラピスももう「大人として」働く年頃であるためらしい。
さすがのラピスも、自分より年上の義姉と義兄が、「大人として」自分のように働いてはいないということには、気づいていたが。
「いろんな仕事をデキる男になっておけば、将来の職探しに役立つよね」
おっとりしているわりに、人生設計も考える。柔軟性のある十二歳である。
そしてこんな境遇でもマイペースな性格は健在で……
「『森の東側の胡桃の木が狙い目』って……どういうことかな。実を採って食べろってことかな、自分が食べたいのかな」
よくひとりで、そうして呟いている。
傍からは、ただの『独り言の多い子』に見えるだろう。
しかしそれは、ある者たちに教わった言葉を思い出しているときの、ラピスの癖なのだ。
それは彼にとって大変有効な時間なのだが、周囲の者たちから
「ラピス様ったら、また独り言。お可哀想に、ご家族に話し合える相手がいないから」
などと同情されていることには気づいていない。
本人の自覚はともかく、ラピスはとても目立つ存在だ。
お日さまのような金髪に、明るい水色の瞳。
母譲りの愛らしさと育ちのよさは、継母から与えられたゴワゴワとした灰色の衣服も隠せない。
誰がどう見ても『良いとこのお坊ちゃま』であり、そんな少年を粗末に扱う継母らの悪評は広く知れ渡っている。
当然、カーレウム家の執事や使用人たちも……
「こんなにも愛らしく心根のよい坊ちゃまなのに、このままではお先真っ暗だ。おっとりさん過ぎて危機感が薄いし。本当に心配だよ」
どうにかせねばと話し合うも、雇われの身。
今や女主人である継母グウェンを怒らせれば、彼らは失職しかねない。
そんなわけで周囲から見れば八方塞がり、ラピスの明るい前途は断たれたようだったけれど。
彼らの心配とは裏腹に、ラピス自身は『あること』に夢中で、ことさら将来を悲観することもなかった。
なぜなら彼には、絶大な心の支えがあったから。
それこそが例の『独り言』の原因でもあるのだが……
まさかそれが、世界の命運を左右するほどの大事に発展していくなんて。
今はまだ誰も――もちろんラピス自身も、知る由もないのだった。