part1~再会~
男はかつて天才として崇められていた。又、数学にしか興味がなく感情を持たないと揶揄されたこともあった。そして彼自身も自らが数学以外の何かに興じるなど思ってもいなかったし、ましてや色恋に身を任せて人生を破滅させるなど思ったこともなかっただろう。だが皮肉なことに彼は誰よりも人を愛することができ、そんな愛による論理の逸脱を予測することは出来なかったのである。
花岡靖子の裁判では、情状酌量の余地があるとして懲役14年との判決が下った。しかし石神は罪なきホームレスを殺害したことの凶悪性などを踏まえて向こう30年は外へは出れないだろうとのことだった。
「石神。面会の時間だ。」看守がぶっきらぼうにそう言って戸を開ける。彼はすっかり白くなったその頭を無造作に掻きむしりながら面会室へと向かった。
「‥‥‥‥」彼女は沈黙を貫きながら深々と頭を下げている。
「16年,ですか‥」石神がおもむろに口を開く。
「うぁっ‥うぅっ‥」これじゃあどっちの面会なのか分からないななどと思いながらしばらく沈黙が続いた。
「16年前、私があなた達へ送った最後の手紙。あそこに書いてあることに一切の嘘偽りはありません。そして、あの時私が貴方達を守るために企てた思考にも一切の隙は無かった。当時の私はそう思っていました。」
花岡靖子が顔を上げる。16年前と比べシワが増え、さらにやつれた様な印象を受けるがその美しさは変わっていない。
「ですが、16年前の私には大切なものが欠落していた、今ではそう感じています。」
「欠落、ですか‥?」
靖子の声を16年ぶりに聞いて少しの驚きを感じたのだろうか、一瞬間が生まれたが、石神は目を深く閉じて再び話し出す。
「数学では仮説を立証する為に道具を使います。それは公式であり、定理、事実です。そしてそれらはそれが定められた通りに動く。そこに一切のイレギュラーはありません。ですが16年前の私の論理を実行するしなければならなかったのは靖子さんであり美里ちゃんでした。あなた達は駒ではなく感情を持つ人間です。当時の私は私1人の犠牲を払えば貴女達は幸せになると思っていた。しかしもしあのまま私の論理が完成していたとしても貴女達2人は今後一生誰にも言えない罪を背負って生きていくことになる。それがどれほど残酷な結果であるか、当時の私には理解できなかった。」
石神は石でできた不恰好な天井を見上げる。ここ16年ずっと見続けて来た光景だ。
「でもね‥今なら理解出来るんです。だからこそ私が犯した罪の重さもそれに対する償いも、今になってその非道さと残酷さを私は理解したんです‥」
石神は声を出さずに泣き始めた。涙などもう10年近く流していない。とうに枯渇していたと思っていたので彼が一番その事実に驚いていた。
「石神さん。」靖子が口を開く。その口調は16年前から変わっていない。
「16年前に私が言ったこと、覚えてますか?」
「いえ‥すみません。」
本当は覚えている。それを唯一の拠り所としてこの16年生きて来たのだから。
「一緒に罪を背負おうって。貴方1人に背負わせないって。」
あぁ恥ずかしい、大の男が声を上げて泣いてしまっている。
「石神さん。私待ってます。たとえ何10年かかろうとも貴方をずっと待ってます。」
「ありがとう‥ございます、、」
「時間だ。」刑務官の無常な声が響き渡る。
「石神さん。また来ますね。」靖子も涙を拭きながらそう告げる。
あぁ、また、生きる希望が出来てしまったなぁ。石神はそんなことを感じている自分に驚きつつも少しの希望を感じていた