56.香奈のソナタ月光
(香奈のソナタ月光)
その夜……
愛実は、なかなか寝つけなかった。
午前二時二十分、時計ばかりが気にかかる。
こんなとき、麗子がそばにいてくれたらと思い電話を取った。
(三回呼んで、でなかったら止めよう)
しかし、麗子は一度ですぐに出た。
「レイ、……」
「な―んだっ、アミ……、また、正美ちゃんからの電話かと思って、心臓が止まりそうになったじゃないっ!」
「あっ、そうか! 気がつかなかった。そういう電話もあるよね……」
「……どうしたの? 眠れないの? めずらしいわねー、アミが夜中に電話くれるの―」
「う―んっ……」
「アミの部屋、行くわ。電話、開けときたいから、ちょっと着替えてから行くから、待ってなさいよー!」
「本当……、待ってる!」と愛実はすぐに電話を切った。
麗子も、やっぱり眠れないのだと愛実は思った。
その時、ボンとかすかな振動と空気の動き……
しかし、いつもの階段を登ってくる音がしない。
愛実は、様子を見に階段を降りた。
そして、縁側の廊下に出たとき、窓が開いて、カ―テンをまくる影……
「香奈ちゃん!」
愛実は、思わず大きな声を出してしまった。
「どうしたの? 元気そうじゃない!」
「……、……」
「早く、入って! もうじき、レイも来るから!」
愛実は、パジャマ姿の香奈を廊下にあげた。
「よく、わかったわね? そうか、病院からタクシ―に乗れば、連れてきてくれるわよね―」
「……、……」
「でも、よかった。元気になって! 待ちきれなかったんでしょうー! あ―っ、悪い子だっ! でも、いいよね。香奈ちゃん、本当に頑張ったんだから。夏休みの冒険ねー!」
愛実は、おじいちゃんたちが起きてこないうちに、急いで練習室に香奈を入れた。
「もう、大丈夫よ。ここは、いくら大きな音を立てても、外には聞こえないように作られているからー」
愛実がそう言うと……
「お姉―ちゃ―ん!」
香奈は、大きな声をだして愛実に抱きついた。
「香奈ちゃん。よく来たね。さ―あ早く、明るくならないうちに。これが、コンサ―トピアノよ。グランドピアノより、もうちょっと大きいの。そのぶん大きな音が出るし、よく響くの。値段も桁はずれに高いけどね。私のお母さんの形見になっちゃった。香奈ちゃん、弾いてみて?」
愛実は、香奈を椅子に座らせた。
香奈はおそるおそるピアノのふたを開けた。
「きれ―いな、鍵盤ね……」
香奈は、なでながら呟いた。
「そうね。値段が値段だから。さ―あっ、弾いてご覧なさい!」
香奈は、愛実の得意なソナタ『月光』をゆっくり弾き出した。
愛美は、いつもの香奈の演奏に、一安心したように聴き入っていた。
しばらくして、香奈の演奏が止まった。
「お姉―ちゃん。このごろピアノとお話し出来なくなっちゃった……」
香奈は、愛実を見ずに寂しそうに呟いた。
「お姉ちゃんだって、時々ピアノが見えなくなるわよ!」
「え―っ、お姉ちゃんでも……?」
「そうよ。それはねー、心が乱れていたり、体の調子が悪かったりすれば、ピアノの心どころではないでしょう。それに、知らないうちに腕や肩に力が入っていたりもするしね。お姉ちゃんだって悩むことあるのよ。それに、香奈ちゃん病気だったから、尚のことよー。心を落ち着かせて、腕や肩の力にも気をつけて、もう一度やってご覧なさい!」
「お姉―ちゃん、わかった。夢中で弾いているうちに腕や肩に力が入っていたのかもしれない?」
「そうよ、だから常に腕や肩、首なんかもリラックスよ。じゃもう一度、さっきのソナタ聴かせて?」
「は―いっ!」
香奈は、もう一度ピアノに向かうと、深呼吸して、心と体を沈めているようだった。
そして、最初はゆっくりと、指の動きを感じるように弾き始めた。
愛実は、しばらく聴いてから、演奏の邪魔にならないように小さな声で囁いた。
「そうよー! 香奈ちゃん、よくなったわー。も―、大丈夫ね……」
愛実は、ピアノから離れて、ソファ―に座った。
そして、この演奏が終わったら病院に一緒についていこうと思っていた。
「アミ、ここにいたの?」
麗子が、練習室の扉をゆっくり開けながら、ソファ―に座っていた愛実を呼んだ。
「レイ、ごめん。香奈ちゃんが来ちゃったの?」
「なにいってんのよ!香奈ちゃんは、病院でしょうー?」
「違うのよ、抜け出してきちゃったのよ!」と愛実は振り返ってピアノの方を見た。
「あれっ、香奈ちゃん?」
愛実は、驚いて麗子を跳ね除けて練習室を出た。
「香奈ちゃん!」
愛実は、家中を叫んで回った。
その顔は、だんだん険しくなり不安と焦りが愛実の心を押しつぶしていった。
「アミ、アミ、落ち着きなさいよ!」
麗子は、愛実の後を追いながら、落ち着かせようと腕を掴んだ。
「でも、本当に来たんだって!」
「アミ、夢を見ていたのよ!」
麗子は愛実の肩を掴んで揺すりながら、もう一度、落ち着かせるように叫んだ。
しかし愛実は、それを払いのけて縁側の窓から裸足で外に出た。
「アミ、アミ、待ちなさいっ!」
麗子も裸足で、愛実を追った。
「香奈ちゃん―、香奈ちゃん―」
愛実は叫びながら道路まで出ていって、あたりを見回した。
「アミ、いないわよ!」
麗子は放心した愛実をなだめながら、家に引き返した。
縁側には、騒ぎを聞きつけて、起きてきた栄二郎と文枝がいた。
「アミ、どうしたんだい?」
栄二郎は、やさしく問いただす。
「おじ様、大丈夫っ! 悪い夢を見たみたいなんです。今日は、私が一緒に寝ますから……」
「レイちゃんには、いつも世話を掛けるね―」
栄二郎も、文枝も安心したようすで愛実を見ながら、麗子に言った。
「気にしないで下さい。私、アミのこと、好きだから!」
麗子は、微笑みながら愛実を引っ張るように家の中に入れた。
麗子が、愛実を連れて部屋に戻ってからも、まだ納得が行かないのか、目をきょろきょろさせて香奈を探している様子だった。
「アミ、心配だったら、朝にでも病院に行ってみましょう?」
「そうね……」
愛実の返事には、力が無かった。
二人はベットの中に入っても、結局眠れず、それでも朝方、うとうとっとしてきたとき、午前六時、電話が鳴った。
「レイ!なんでレイがいるの?」
「正美ちゃん、何かあったの? こんなに朝早く……?」
「ちょっとね……。アミなら、この時間でも絵を描いて、起きているかと思って?」
「それがね―え、変なことしていたんじゃ―ないわよ。勘違いしないでねー。昨日の夜中大変だったんだから。アミがね、悪い夢を見たみたいで、香奈ちゃんが病院を抜け出して来たって、大騒ぎだったのよ。それで心配して一緒にいたわけ……」
「香奈、そっちに行ったの?」
「え―っ、やっぱり香奈ちゃん、病院を抜け出しちゃったのー?」
「そうじゃ―ないけど……。香奈、明け方、伊豆に帰って来たから。きっと、どんなにか、アミの家に、行きたかったと……、思うよ……」
「正美、どうしたのよ? 香奈ちゃん大丈夫っ!」
「う―うんっ、大丈夫。本当、良かったわ。香奈がアミの家に行けて……」
「正美、香奈ちゃんどうかしたの……?」
麗子は、正美の言葉の向こうがわが、ようやく見えてきて、息の詰まる思いが込み上げてきた。
「うんっ、大丈夫……。 今朝、お母さんにずっと抱かれて、伊豆まで帰ってきたのよ。でも、そんなに行きたかったなら、少しは遠回りでも行ってあげれば良かった……」
「……、正美、そんなことないよ。香奈ちゃん、ちゃんとアミの家に来たから。それで、ピアノ弾いて、帰ったから……、でも、香奈ちゃん、水臭いな―あ、私に逢わずに帰っちゃうんだもの。レイ子が怒っていたって、言っといて……」
「うんっ、わかった。それで、アミとレイにも伊豆に来て欲しいの? 香奈、喜ぶと思うから……」
「……、行っていいの?」
「もちろん、来て欲しいのよ。何回も来てるから、大丈夫よね。なんだったら、タクシ―で来てもいいわよ。お金は、うちのお母さんが出してくれると思うから……」
「多分、大丈夫だと思う……」
「出来たら、早く来て。私が辛いの……」
「正美、しっかりしなさいよっ!」
「わかってるって……、じゃ―あ、お願いね……」
麗子は、静かに電話を置いた。
愛実は、ずっとそばで、麗子の話を聞いていた。
「アミの言ったことは、本当だったのね……。 今朝、香奈ちゃん、ここに来たのよ。アミに逢いに……」
「……、……」
愛実は、まばたきもせず床を見つめていた。
「アミ、急いで仕度して! すぐ出るわよ。早い方がいいでしょう。香奈ちゃん、淋しがるから……」
愛実は、何も答えず動かなかった。




