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37.一生に一度の素晴らしい世界

(一生に一度の素晴らしい世界)


 あれから、またたくまに一週間が過ぎた。

 やはり愛美は学校には出てこなかった。

 クラスでも、愛美の存在を忘れ始めていた。

 しかし麗子は、今日も愛美に見せる授業のノートの製作に余念がない。

 正美も時より、麗子のようすを見に来るが、今は愛実のことよりも、見る影もなくしょんぼりと、ただ一人机に向かっている麗子の方が心配になってきた。

 良子先生も、心のどこかに重苦しいものが、時より揺らぐのが不快だった。

 しかし、今日は何やら、職員室が騒がしい。

「何かあったんですか?」

 良子先生は、隣の席の同僚に訊ねた。

「二年の方で担任が生徒を教室から追い出したとか、しないとかで、その担任と校長と教頭が応接室で話し合っているんですよ」

「えっ、誰が言ってきたんですか?」

 良子先生は、正美かもしれないと思った。

「小笠原先生ですよ。音楽課の!」

 良子先生は、その名前にぴんーとこなかった。

 しばらくして、応接室から二人が出てきた。

「あの後ろにいる若い先生よ。ちょっとかっこいいでしょう!」

 良子先生は、その言葉には答えず、こちらに歩いてくる小笠原先生を捕まえた。

「ちょっと、先生いいですか?」

 良子先生は、小笠原氏の腕を取ると、進路指導室に連れ込んだ。

「先生、誰から聞いたんですか。愛実さんのことを?」

「どうしてご存知なんですか?」

 反対に小笠原氏から訊ねられたことに、良子先生は驚いた。

「古賀愛実さんは、陸上部なんです。私、陸上部の顧問をしています」

「それなら、どうしてもっと早く言って下さらなかったんですか。もう、一ヶ月になると言うではないですか!」

 小笠原氏は、突然強い口調で叫んだ。

 良子先生は、背筋を伸ばしてたじろいだ。

「いえっ、すみません。どうしていいのかわからなくて……」

 それを見て、小笠原氏は強く言いすぎたと思い、今度はやさしく話し始めた。

「そうですね。担任でもないあなたが、あの上杉に何か言えるわけがないですね。僕は、野球部の星野から聞いたんです。愛実君と同じクラスだそうです。野球部の顧問は相手にしてもらえなかったそうです。星野とは、うちのオーケストラ部でブラスバンドを組んで、試合の応援に行きますから。その時、知り合ったんです!」

 良子先生は、小笠原氏のやんわりとした態度に肩の力が抜けた。

「そうでしたか。クラスでも心配していたんですね……」

「それはそうでしょう。目の前でクラスの女子が担任に不当に追い出されれば―」

 良子先生は、小笠原氏がまだ、担任のせいだと思っていることを知り……

「いえっ、そうではないのです。上杉先生には責任がないと愛実さんも言っていました」

「彼女にあったんですか?」

 小笠原氏は、急に体を起こして良子先生に飛びかかる勢いで迫った。

 良子先生は、少し身の危険を感じながら……

「はいっ、あって話しました。愛実さんは、学校に行くよりも、家にいて、絵を描いたりピアノを弾いたりして、親代わりの祖父母と一緒にいたいと言っていました」

「何ですか、それは……?」

 小笠原氏は、ぽかーんと口の空いた表情を見せた。

「彼女は、やさしい子なんです。おじいさんとおばあさんを寂しがらせたくないと……」

 良子先生は、自分で話しながら、その幼稚さを考え直していた。

「そんな子供じみたことで、学校に行かないと言っているんでか?」

 再び語気強く、小笠原氏は言い返した。

「は―あっ、……」

 良子先生は返す言葉が見つからず、俯いて床を見た。

「あなたは、そんなことを納得して帰ってきたんですか?」

 小笠原氏は、あきれた口調で良子先生を睨んだ。

「いえっ、ま―あっ、は―、……」

 改めて考えなおせば、変な話だと良子先生も思った。

 小笠原氏は、尚もあきれながら……

「信じがたい人だ。彼女は普通の子とは違うんですよっ!」

「は―あっ、私も、おかしな子とは思ったんですけど……」

 良子先生は、恐縮して小さな声で囁いた。

「いえっ、私の言いたいのは、彼女は中学生にして、ほとんど天才的なピアニストと言っていい存在だということです!」

 良子先生は、天才と言われても、陸上をやっていた愛実からは想像できなかった。

「またまた先生、そんな、ご冗談を……」

 小笠原氏は、反対に驚いて言い返した。

「私が冗談を言ってどうするんですか。私が言うのですから間違いないですよ。彼女は、どの世界的コンクールに出ても、優勝まちがいないでしょう。それだけ完成されたピアノを弾く子なんです!」

 そう言われて、良子先生は一週間前の会話を思い出していた。

「そう言えば、子供たちが、世界の舞台とか、特別とか話していましたが。まさかね―えー」

 それでも、信じられない良子先生だった。

 そして、小笠原氏は続けて……

「彼女は今、子供から大人へと変わる、大切時期なんです。彼女はまだ延びます。今は、まだ子供の力です。その子供の力ですら大人は太刀打ちできない。それが、大人になったとき、大人と言っても彼女の場合三年はかからないでしょう。その時、どれだけの成長になるか、私にも見当がつきません。だから、今が一番大切な時と言っているんです。彼女に今必要なのは大人になるための経験です。だから、少しでも外に出て、あらゆる物を吸収しなければならない時期なんです。つまらない教師のエゴで、家に閉じこもらせていては、彼女の可能性をつぶすようなものですっ!」

と一気に捲くし立てた。

「先生、お言葉ですが、私は生徒は誰でも無限の可能性を待っていると思っていますっ!」

 小笠原氏のあまりにも一方的な言い方が、良子先生は気に入らなかった。

「別に私も生徒を区別しようとは、思いませんが。とにかく学校の不備で彼女の才能と将来をつぶしてはいけないということです」

 良子先生は、小笠原氏の言うことも、わからないではないが、でも愛実の気持ちを多く知らないと思った。

「でも、それなら尚のこと、学校と言う枠にとらわれずに、愛実さんの望むように、家でピアノを一日中弾いていたほうが、彼女のためなのではないですか?」

 小笠原氏は再び、あきれた顔で良子先生を睨みながら、少し大きな声で……

「先生、何を言っているんですか。絵やピアノは、いつでも出来ることなんですよ。もう一つ言えば勉強だって、いつでも出来る。今、彼女がしなければならない事は、今しか出来ない事を、今することなんです。今しか経験できない事を今、少しでも多く経験することなんです。それは何かと言えば、この中学校です。そして、中学校生活なんです。この時期、この時にしか経験できない、貴重な時間なんですよ。後でもう一度、中学生をやりたいと言っても、もう出来ないんですよ、永遠に……。こんな大切な時期を、家で過ごしてどうするんですか。学校教育、そんなものは生徒たちには関係ない。生徒たちに必要なものは、この学校という時間と空間、これだけです。後は生徒たちが自分たちで見つけていくでしょう。そして自分たちで見つけたもの、感じたこと、その経験が何よりも尊い宝になるんです。何しろそれが、生涯で一度っきりの経験なんですから。私たち教師が出来ることは、その貴重な中学校生活を円滑に送れるように見守る事だけなんですよ。私は愛実君に、この中学校の時間と空間を存分に味わらせてあげたい。そして、彼女たちにとって一番感受性の鋭いこの時期の経験が、彼女の感性をより大きく伸ばすと信じています。だから、今が大切だと言っているんです!」

 良子先生は、小笠原氏の話に、今までの胸の痞えが落ちていくような思いで聞いていた。

「つまり、先生は、学習も受験も中学校生活を色取る刺し身のつまのよなもの。大切なのは、クラスメートと過ごす、この時間だけ?」

「そうです。あなたにも中学生時代があったでしょう」

 小笠原氏は、いつのまにか、やわらかな口調にもどっていた。

「先生、私忘れてました。私が中学生だったころのこと、受験受験で一生懸命勉強したことも覚えていますけど、でも、教師から教わったと言うよりも自分で勉強したと言う記憶の方が強いです。結局、先生の話なんて覚えていない。でも、友達と過ごしたこと、話したこと、部活で汗したこと、みんなはっきり覚えています。これが私の財産なんですね!」

「そうです、その通りです。人生の中で同じ年齢どうしで、地位も名誉も関係ない、人と人との上下関係もない、みんな平等で、みんな同じ仲間で、みんな友達。こんな世界どこにもないですよ。だから、学校は大切なんです。そして、こんな素晴らしい所は、私が経験してきた世界には、どこにもありませんでした……」

 良子先生は、自分でも気づかないうちに、学校は学習の場、受験の場という教師の立場でしか考えられなくなっていた。

 そして、この時点から良子先生は、小笠原氏を見る目が変わった。

「先生、彼女の家を知っているんですね?」

 小笠原氏は、前に良子先生が愛実の家に行ったことを思い出した。

「はいっ、学校から、すぐ近くです」

「私を連れて行ってもらえませんか?」

「はいっ、もちろん喜んで!」

 良子先生は、明瞭に答えた。

「今日は、校長と教頭と担任と、あと学年副主任とで、彼女の家に謝罪に行くと言っていましたから。もし、それでも出てこないようでしたら、明日の放課後でもどうですか?」

「もちろん、構いません!」

 そして良子先生は、挨拶して別れた。

 別れながら、さっき同僚が投げかけた言葉を思い出していた。


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