35.一番大切なもの
(一番大切なもの)
「こんばんは……」
玄関から、聞きなれた声が聞こえる。
「あれっ、正美だ!」と麗子。
「え、本当っ! モデルでもやりに来たのかしら」と愛実の笑顔。
「まさか―っ、アミが心配で来たのよ!」と麗子は立ち上がった。
「レイ、先に出て、私、手をふいてから行くから……」
「わかった―っ!」
愛美は、絵の具で汚れた手をウエスでふきながら、麗子を迎えに急がせた。
麗子は、大急ぎで階段を駆け降り、その音が家中にこだました。
「あれ、レイっ! 何でレイが出てくるのよ?」と正美。
「あれ、良子先生!」
麗子は、正美の存在よりも、良子先生がいたことに驚いた。
「担任なんか、当てにならないから、良子先生に口説いてもらおうと思って連れて来たのよ!」
「口説くなんて、ちょっと顔を見に来たのよ……」
良子先生は、少し緊張気味だった。
そのうちに、愛美もやってきた。
「あれ、良子先生! 正美ちゃん。にぎやかねー」
愛美の笑顔が一段と明るくなった。
「なにいってんのよ! 心配して見に来たんだからー!」と正美。
「正美―それ、私の口癖……」と麗子も、いつもの調子だ。
「ありがとう。さ―あ、あがって……」
愛美は、良子先生と正美を広間に招いた。
「あがっても、いいの?」と良子先生は戸惑い気味。
「良子先生、じっくりとお説教してやってよー!」
正美も良子先生を押し上げた。
そして、居間のソファーに二人を座らせると、麗子は愛美よりも先に、お茶とお菓子を取りに台所に消えた。
それを見て、愛美は落ち着かないようすで、居間においてあるピアノに向かった。
「良子先生、ピアノ好きですか?」
「好きよ! 凄いグランドピアノね―」
それを聞くと愛美は、ゆっくりと柔らかな曲を弾き始めた。
間もなく、麗子がお茶とクッキィーを持って現れた。
「レイちゃんって、よく気がつくのね―」
まだ緊張している良子先生だったが、麗子の持って来た、お茶とお菓子を一緒になって配りだした。
「私、ここの家の子みたいなものですから……」
麗子は照れながら給仕をした。
「それよりもアミっ! ピアノはいいから、ここに座りなさいよっ!」と正美が愛実を呼んだ。
「はいはい、……!」
愛美はピアノから離れて、麗子の横に座った。
良子先生は、愛美のようすを気にしながら、担当直入に話し始めた。
「アミちゃん、担任が悪いというのは聞いたわ。でも、それは本心じゃないと思うの。生徒のやる気を出させるための演出だったのよ。たぶん担任の先生も困っていると思うわ……」
「良子先生、私、担任が悪いなんて思っていません。怨んでもいません!」
愛実の答えは明瞭だった。
「それなら、学校に来てよ?」と正美は、簡単に切り返した。
「私、もともと学校が嫌いなんです。朝八時に起きて、学校に行くことがいやなんです。これは、今に始まったことではないんだけどね。私、絵やピアノをやっていると、時間で区切りがつかないんです。それを、途中で止めたりすると、さ―大変。前の調子に戻るまでに、また一苦労でしょう。もしかすると戻らないかもしれないでしょう。それに絵の場合だと、休んだ前と後では、ぜんぜん違ったものになっちゃったりするの。そうなると今までの苦労は、何だったんだって泣いちゃうもの。だから、学校よりも絵やピアノを優先にしちゃうわけ。これって先生には失礼よね。だから、先生が怒るのもわかるし。だから、担任は悪くないんです……」
「でも、そんなことをしてたら高校にも大学にも行けないわよ?」と正美は正論をぶつけた。
しかし、それには麗子が反論した。
「アミは、大丈夫です。高校や大学にいかなくても、ちゃんと学ぶことを知っています。かえって学校という枠が、アミにとって学習意欲を妨げるものなんです!」
「困ったわね―え、……」
良子先生は、それ以上言葉がなかった。
しかし良子先生は、少し考えてから続けた。
「アミちゃんの言ってることは、今、学校が抱えている問題ね。個性化教育、ゆとり教育というけれど、レイちゃんの言う学校という枠は、なにも変わっていないし、不登校の生徒は、ますます増えて、自殺、いじめ、暴力、子供たちは息苦しさを感じているんでしょうねー」
それに対して正美は、反論した。
「でも学校って、勉学だけを教えてくれるところじゃ―ないわよ。友達を作ったり、回りの人と協調したり、協力したりする人間性や社会性を養うところでもあるのよ。だから、八時半には学校に来ないとだめなのよっ!」
しかし、正美に対して、麗子が反発した。
「でも、正美ちゃん、アミが人間性や社会性に欠けているところがある? 私、うちの担任よりも、新聞やニュースに出てくる大人たちよりも、よっぽど人間らしいと思うわ。ただ、アミの場合、八時半に学校に行くのが、いやなだけじゃない。も―、それだけで、だめな人間に見えるのなら、そう見える人の方がおかしいのよっ!」
麗子は、愛美をかばいながら、だんだんむきになって言い返していた。
正美も麗子の迫力に押されて返す言葉に詰まった。
「あ―っ、私のことはいいのよ!」と、愛美は自分のことが引きあいに出されているので、照れながら、みんなの顔を見回した。
「なにいってんのよ! アミのために、みんな来てくれているんでしょう―」と麗子は勢いあまって愛実にもまくし立てた。
「はい、どうもすみません……」と愛美は肩を落としてうつむいた。
みんな、どっと笑って、深刻な話の中で笑顔が戻った。
「結局、アミは、特別な子なのよ―」と正美がしみじみと愛実をみながら言った。
「え―っ、どうして?」と愛美は特別あつかいされたことが不満だった。
「だって、こんな明るい不登校児、見たことないもの!」
「そ―ね、……」と良子先生まで、笑いながらうなずいた。
「なにか私、変みたい?」と愛美。
「当たり前でしょう!」と麗子までも正美の言葉に共感して言った。
一同、もう一度どっと笑った。
その笑いの中、良子先生は話し出した。
「なんか、ここにいると楽しいわね。私、一つ思い出しちゃった。私が、初めて三年生を受け持ったときにね。受験に失敗した子がいたの。希望校が駄目だったのよ。でも、他に受かっていた高校があったから、私は安心していたんだけど、それが、急に大工になるっていい出したの。それも、しっかりした動機があったわけでもなく、たまたま親戚が大工だったということみたいなの。だから、受験に失敗したショックでやけになっているんじゃないかと思ってね。もともと、コンピューターゲームを作りたいと言っていたから。もちろん大学まで考えていたと思うのよ。それで、何度も説得してみたんだけど、やはり高校には行かずに大工になったわ。それから気になって、たまたま元気でやっているのか見に行くんだけど、彼は今も立派に大工をやっているわ。それも、うちのクラスにいたときとは別人みたいに明るくなっているの。その時思ったの。この子にとって学校は、ただ受験受験の楽しくないところだったのかも知れないって。だから私、今は少しでもクラスの中が楽しくなるように、心がけているわ。もちろん授業も含めてねっ!」
「良子先生、いい話ね。きっとその子、自分の道を見つけたのよ。高校にいくだけの人生でない。自分の道を……」
愛美は、自分を見つめるように大きくうなずいて言った。
「でも、良子先生。それじゃ―アミの解決にはならないっ!」
正美は、不満そうに良子先生の肩をゆすった。
「そうね―。アミちゃんは、きっと学校よりも大切なものを見つけたのね―」
愛美は、良子先生の言葉に元気よく答えた。
「そうなんです。私、この家が大好き。それに、おじいちゃんやおばあちゃんも大好き。ピアノもあるし、絵も描ける。私、それだけで幸せなんですっ!」
愛実の顔は、幸せがこぼれ落ちそうなほど、嬉しさであふれていた。
「良子先生、そこんところがアミの問題なんです。自分が学校に行くと、おじいちゃんとおばあちゃんが寂しがると思って、家から出ようとしないんですー」と、麗子が愛実の言葉に反して良子先生に訴えた。
「やっぱり、アミは特別なのよ。普通、親のことを考えている中学生なんていないわよ!」と正美は自分のことを思い浮かべていた。
しかし、良子先生は……
「そうかしら、私は考えていたわよ。ぎりぎり高校生ぐらいまでかな。私の母も教師やってたから、家事なんかも気を遣って色々手伝ったわ。でも、大学に入って、バイトやサークル、友達なんかで、家のことは、ほとんど考えなくなちゃった。家にもいなかったしね。またそれで、小言もいっぱい言われた。親に反発して、一人暮らしも考えたぐらいだから。でも今になって、また少し親のことを考えるようになたわ。それだけ年を取ったのかも知れないけど……」
「そんな―っ、良子先生。まだ若いじゃん!」と正美が話の調子をとるように言った。
「えーでも、ありがとう。だから、小学生とか中学生のころは、ちゃんと親のことを考えていられる時期なのよ。正美ちゃんは考えていなかった。お母さんの誕生日とか、母の日とか、毎日家事の仕事をやっている姿に感謝しなかった。そこに、お母さんがいるだけで嬉しくならなかった?」
「う―ん、ちっちゃいころ、あった!誕生日とか、母の日にプレゼントした」
正美は、恥ずかしそうに遠くを見て言った。
「今は、……?」と良子先生。
「いわれれば感謝するけど。でも、お母さんだって、早く塾に行きなさいとか、勉強しなさいとか。やっぱり小言ばっかりよ!」
「そ―っ、でも正美ちゃんのことを思っているのよー」
良子先生は、一息つくようにお茶を口にしてから話を続けた。
「小さい頃といっても、小学生にはなっていたと思うわよ。そのころって、無条件で親の気持ちがわかったり、自分のことよりも、親の気持ちを大切にしたり、きっとお母さんと、お父さんが大好きだったんでしょうね。でも、いつのまにか自分のことしか考えなくなる。自分のことで頭がいっぱいになって、親のことなんて忘れちゃう。そのうち口うるさいとか、煙たいとか、避けるようになる。でも、それが自立というか、自己確立の時期なんだけど。でも、私は忘れないで欲しいの。心の片すみでもいいから。お父さんやお母さんを大好きだったころの自分を―」
良子先生の顔も優しい笑顔だった。
「それじゃ―、アミはまだ子供なのね!」と正美は大人ぶって愛実を見た。
でも、麗子はいち早くその答えを否定した。
「でも、良子先生違うんです。アミの場合、本当の両親は、飛行機事故で亡くなったんです。だから今は祖父母が親代わりなんです。それで、アミは育ててくれた恩返しのつもりなんですっ!」
しかし愛美は、その言葉を打ち消すように……
「だから、そうじゃなくって。私が一緒にいたいんだって―」
良子先生は、愛美の複雑な心境を察したようすで、少し重い口調で話し始めた。
「そ―なの……、それで、おじちゃんとおばあちゃんなのね。でも、アミちゃん立派よ。親離れした子供はね、もう一度、親のことを是が非でも考えさせられる時がくるの。それは、親が病気になったりして、子供の力が必要なとき。それとも、親が年を取って動けなくなり、子供の介護が必要とされたとき。私は、その時に、本当の人間性が出ると思うの。もしその時に、まだ自分のことしか考えられなかったら、人間じゃ―ないわね。ただの動物。でも、それじゃ動物に失礼かもしれないけど。少なくても人間なら、動けなくなった親の面倒くらい看るのは、当たり前の話よね。それが、動物から一歩進化した人間らしさだと思うわ。もちろん、懸命に親の面倒を看ている息子や娘もたくさんいるわ。でも、現実は、高齢化社会になって、親の面倒は国が介護という形で面倒を看ようとしている。じゃ―、面倒を看なければならない息子や娘は何をしているかと言えば、仕事という隠れみのの中で、妻や子供のためとか言って一番面倒なことから逃げている。結局、親から自立した子供は、社会の中で親を忘れて大人になって、自分のことしか考えない冷たい動物になっちゃうのね。それが、近代教育ならば、学校なんて要らないかもしれない。アミちゃんの場合。だれよりも早く、その時が来ちゃったのね!」
いつも考えていたことかもしれない……
いつも疑問に思っていたことかもしれない……
社会という生き物は、どこへ行きたいのか?
何をしたいのか?
それで、幸せなのか?
お前は……




