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13.母の思い出

(母の思い出)


 そして八月になって、陸上部の練習は八月二十日までお休みになる。

 いよいよ、伊豆の冒険旅行の始まりだ。

 出発の朝、愛実は信じられないくらい早起きだった。

 まだ、夜も明けてない午前四時……

 つまり、旅行の日とあって、興奮して眠れなかった。

 愛実は仕方なく、ピアノの練習室へ降りていった。

 ピアノを弾き始めて、しばらくたったとき、栄二郎が入ってきた。

「眠れないのか……?」

 愛実は、ピアノの音を少し弱く弾きながら……

「う―んー、起こしちゃった?」

「……、いや、気持ちのいい夜明けだからねー。今日も、暑くなるな―。天気は良さそうじゃないか……」

 栄二郎はピアノの後ろにあるソファーに腰を掛けて、背中の愛実に話しかけた。

「私がいなくなると、寂しくなっちゃうよ……」

 愛実はピアノを弾きながら、背中の栄二郎に話した。

「……、そうだなー、バ―さんが、心配するから電話ぐらいしてやってくれ……」

「うん、わかった。……、私がこんなに家を空けるの、初めてねー」

 愛実は自分の声がピアノの音に消されないように、さらに弱く弾いた。

「な―に、子供はいつか、巣立つものだよ。アミのお父さんなんかは、ひどかったぞ……。初めて家を出て、東京の大学に行って、家に帰ってきたのは、たった三度……。三度目のときには、もうー、アミのお母さんを連れて帰ってきたよ……。それでいきなり、この人と結婚します。もう、お腹の中には子供がいます! だろ―。そのあとは、もうおろおろするばかりで、めちゃくちゃだっよ。すぐに、山の手のバ―さんが、怒鳴り込んできて、どうしてくれるんだ、てねー。なにしろ、音楽祭のコンクールがせまっていたからね―」

 栄二郎は、壁に掛けられている息子と、その愛した娘の写真を眺めながあら、寂しそうに話した。

 いつの間にか、愛実はピアノを弾くのを忘れて、ピアノに向かったまま、栄二郎の話に聞き入っていた。

「それからどうしたの……?」

「でも、アミのお母さんは、強かったぞー。私はもう、この家の嫁です。家には帰りません。ピアノもやめます、と言って頑固として、この家から出ようとしなかったんだ。おいおい、わしはまだ何も許した覚えはないぞ、と言った感じで、参ったよ……」

「つまり、お父さんとお母さんは、おじいちゃんのところに逃げてきたのね……」

 愛実は、父と母の経緯については、少しは恵美から聞いていたが栄二郎から、じかに聞くのは初めてだった。

「押し掛け女房じゃなくて、押し掛けお嫁さんだねー」

 愛実は、話の調子を取るように、ちゃかしてみせた。

「なにしろ、アミのお父さんは大学四年、まだ就職も決まっておらず、お母さんは大学三年の学生だったからなー。収入も貯金もないし、山の手の家には帰れない、お腹の子はどんどん大きくなるとあっては、この家に来るしかなかったんだろう。そのおかげで、わしは山の手のバ―さんから、どう責任を取ってくれるのかと攻められるし、責任を取れと言っても出来ちゃったものは、どうすることも出来ないし、わしは、ただただ、頭を下げて嵐の過ぎるのを待っていたよ……」

「赤ちゃん、降ろすことは考えなかったの……?」

 愛実は、自分で言いながら、言った言葉に怖さを覚えた。

「いや……、ここへ来たときは、何が何でも、子供を産む、と言っていたから迷いはなかったと思うよ。それに、アミのお母さんは、天使のように優しい人だったから、授かった命を粗末にはできなかったんだろう。それから一週間くらい、この家に立てこもったかな―。ようやく山の手のバ―さんも落ち着いて考えられるようになったのか、ついに二人を許したんじゃ。結婚してからも、ピアノを続けると言う条件でなー。最後にこう言っていたよ。子供が望むことがあれば、親はどんなことがあっても叶えてやりたいと願うものです、とな……。娘をお願いします、と深々と頭を下げたよ……」

「それで、私が生まれたのね。お母さんは、やはり私をピアニストにしたかったかな―?」

「たぶん、アミの望むことをやらせてくれたと思うよ。でも、山の手のバ―さんは、アミを世界一のピアニストにするつもりじゃよ……」

 愛実は、大きくため息をついてから、また静かにピアノを弾きだした。

「おじいちゃん、ありがとう。……、お母さんの話をしてくれて……」

「いや、……」

 栄二郎は、言葉を詰まらせながら、一言だけいって、静かに部屋を出ていった。

 栄二郎に取って、息子と嫁の話をすることは、今も身を切られるように辛かった。

 そして、愛実のありがとうには、無条件で十四日間の長い旅行を許してくれた感謝の気持ちが込められていた。


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