拳撃士の最期
例えば役者の子供が役者になるように、フルピアスという拳撃士は生まれた。
スラムで誰もが覚える人の骨を砕く感触を、例えば人よりも三年早く覚えたなら、三年分人よりも強くなれるだろう。その女性は覚えていない程小さなころからその感触を知っていた。だから、覚え知れぬほどに強かった。
相手を破壊することだけが正義である闘技場で、彼女は君臨した。
齢十六の女が生意気顔を悠々と晒し仰がせて、殴りかかる者を殴り返した。
大柄な男たちが次々に命や未来を失っていく様は、人々を熱狂させた。フルピアスは虎や魔物たちでさえその拳で沈めていった。
だから『魔王』に誘われたとき、逡巡はなかった。
拳は自らの腕の先にあり続けているのだから、迷うことはなにも無い。
「遺言は考えたか?」
緋衣のフレアワンピースを纏った女が、フルピアスへと問う。
フルピアスはなにも答えない。十五メートルという至近距離の先で決して女から目を離さないまま、拳へテーピングを施していく。
「つれねえな、サクッと殺して終わりでいいならそうするぞ?」
「…………」
「俺の気が長いと思ってるなら改めろよ。カウントダウンはゼロからスタートだ」
フルピアスはテーピングを続ける。白い首筋から、胸から背から手足から、冷汗がフルピアスの筋肉の上を伝う。
瓦礫の転がる場所で、フルピアスは赤い女から目を離さない。
赤い女は面倒臭さを隠そうともせずに大きな溜息を吐く。大振りな動きにポニーテールが揺れてフルピアスの気を誘う。フルピアスには目を離されると隙があるように見えてしまう自身の本能が、今この時だけは憎かった。
赤い女に隙があると思ってはいけない。
隙は自ら作らなければ、クリスマスプレゼントのように置いて用意されていたりはしないのだ。
赤い女がしびれを切らして手に持っていたステッキを掲げ、ステッキを変形させる。現れる姿は短剣だ。魔法少女だけが持つ世界最強の兵装、魔法少女ステッキそのものだ。フルピアスの身体から、汗が止まる。
代謝活動の放棄。
肉体が死を覚悟している。
フルピアスは重心を落として拳を構える。その正眼には常に赤い女が捉えられ続けている。赤い女が口の端を釣り上げて笑う。
「ようやくか、待ちくたびれたぜ」
「…………」
「こっちは仕事だ。悪いが、巻きで行く」
赤い女が構えを取る。
両足を肩幅一・五倍に広げ、バリスタを構えるように重たく重心を下げる。引き絞られた弓の弦を思わせる、完全な構えだ。
赤い女の脳内ではすでに戦いが始まっている。
そして、僅か三百分の一秒の中に完結する。
現実になしえる戦いだ。超音速で跳躍した赤い女がフルピアスの小脇へと潜り込むと、フルピアスは反応できない。赤い女が余裕をもってフルピアスの左手に立つと、遅れてやって来た音速波にフルピアスは体勢を崩され、一撃で首を断たれる。
赤い女はそれを実行に移そうとした瞬間、フルピアスが小さく口を開く。
赤い女は構えを変える。脚を弓なりの形から僅かに動かして硬い砲脚に変える。
フルピアスの鋭く強い息から、言葉が漏れ出てくる。
「……知っているのね、地獄闘技場の礼儀のこと」
「ゼロカウントのことだな……悪いが、俺は行ったことねえぞ。噂に聞いた程度だ」
「そう……なら私のことは知らない、かな」
そう言ってフルピアスは赤い女を鋭く睨む。
知らしめてやると言わないばかりの気迫だ。赤い女はそよ風に吹かれている程度の態度でフルピアスを眺めて、首を横に振る。
常人がやれば隙でしかない行動に、フルピアスがもどかしさを覚える。隙はないのになぜ隙が無いのか分からない。
「拳撃王フルピアス、地獄闘技場伝説の覇者であり……同時に地獄闘技場最後の覇者。だろ?」
「……それしか知らないなら、そろそろ殺し合いましょ」
フルピアスは赤い女へと仕掛けて来いと誘う。
赤い女は荒い口調で話を続ける。
「魔法少女を舐めんなよ。情報収集は仕事の基本、だろ?」
「……調べたところで、殺せる相手は殺せるし殺せない相手には殺される。それ以上やそれ以下は、拳が決める」
「半人前だな。ま、拳撃士上がりじゃそんなもんか」
「舐めるな。私はフルピアスだ」
「フルピアス、ねえ」
赤い女は短剣を構えたまま構えをまた変える。
よりフラットで自然体に近い、弱い構えだ。赤い女は秒速百五十メートルでフルピアスへ切りかかり、そして刃を空振らせる。
二人の距離が二十分の一秒の間だけほとんどゼロになる。
赤い女がフルピアスをなで斬りにするには十分なその時間を放置して、さらにたっぷり零・一秒も待って二人の距離は再び十五メートルになる。
赤い女はフルピアスの方へ向き直りながら話の続きを口ずさんでいく。
「全てが槍よりも鋭く敵を貫く最強最高の女戦士、だから『フルピアス』。特にその拳は最強の槍と自負し、全ての敵を沈めてきた自慢のモノだとかな」
赤い女は言いながら短剣を握っていた右手をぷらぷらと揺らす。微かな痛みがあった。フルピアスが回避と同時に放ったカウンターが当たっていたのだ。魔力で内部まで攻撃するその一撃は、常人に当たっていれば即死しているだろう威力だ。
フルピアスは赤い女の右手から血すら流れていないことに驚かない。
過信はしない。掠る程度の攻撃でダメージを与えられたことをただ認識する。
自分の持つ攻撃手段がどこまで通用するのか、正眼に捉えた赤い女のことを考える。
「……お前は、今までで最強の敵だろうな」
「当たり前すぎる事実だな」
「そしてこれから先も、私の沈めた最も大きな獲物であり続けるだろう」
赤い女の口が癇に障ったとへの字に歪む。
フルピアスは赤い女と対峙してから初めて、笑みを浮かべる。
「お前は三発で沈む」
「そうかよ!」
赤い女が短剣を投擲する。超音速で飛来する短剣をサイドステップひとつで回避したフルピアスの体躯は、音速波を受けても全く揺るがない。
フルピアスの筋肉は溶鉱炉の吹き出す灼熱のように果てしないエネルギーで運動を開始する。
カウントダウンは存在しない。始まりの合図なんてない。ゼロカウントだ。
「っ」
「ふん」
赤い女は構え直す。
バックステップ三歩で八十メートル後退したフルピアスは、突き当りのビルの壁面に垂直でクラウチングをする。壁面を踏み抜いて亜音速で射出されたフルピアスの肉体は三倍近くまで加速する。
アスファルトの公道が足音のうちに粉々に砕け散っていく。
フルピアスは左拳を構えて加速し続ける。
その刹那の時間、赤い女はフルピアスを観察していた。
構えられた左拳は高い威力を持っているが、本命は右拳だ。
フルピアスが秒速九百メートルへ突破する最中、赤い女は前方へ跳躍する。
「……!」
「!?」
赤い女は右腕を盾にして、左拳を受け止める。
その瞬間に、二人の時間が世界から剥がれ落ちて停止した。
まるで大洪水が一瞬だけ巨大なダムで止まるような、破滅的で刹那的な停止だ。
赤い女とフルピアスの左拳が、殺意を持って構えられていた。フルピアスの左拳は超音速にまで加速したエネルギーをさらに加算して放たれ、核シェルターにさえ亀裂を入れるだろう威力を持つだろう。
二人の殺意だけが時間に氾濫し、洪水し、破滅的に凪ぐ。
一瞬。
決壊して、全ての時間が奔流となる。地の割れる轟音が二人の隙間から砕け散るように響き渡ることと同時に、膨大な音速波が開放されて天を砕くような烈風と共にビル群すらなぎ倒す破壊へと至る。破壊の奔流は地面に向かったものだけが跳ね返り、ふたつの体躯が瞬前を忘れたように中空に舞う。
動き出した殺意の奔流は、やがて流れ切る。
「…………」
「…………痛っ」
声を上げたのは赤い女だった。
右腕からは血が滴り落ちて、直接攻撃を受けていない腕の内側までも破けて血をこぼしていた。しかしそれだけだった。赤い女の肉体に大きな傷はない。
殺意に満たされた刹那で、二つの拳が交わる瞬間に優を得たのは赤い女だったのだ。
フルピアスの左拳よりも高いスピードで赤い女の左拳は放たれて、フルピアスの胸骨にクリーンヒットしその体躯を弾き飛ばさせたのだ。フルピアスの左拳は赤い女へと当たっていない。そして二度と当たることもないだろう。
フルピアスが横たわっている傍まで赤い女は歩いて行く。
きっと死体を確認するためだ。
「……」
「…………」
「……」
フルピアスは赤い女が近づいてくる足音を死の狭間で聞いていた。
赤い女の左拳は縦拳の形をとって正確にフルピアスの胸骨にヒットした。それにより、心臓マッサージの要領でフルピアスの心臓は強制的に停止させられた。フルピアスは死んだのだ。最期の時間に、フルピアスは景色を見始める。
(……懐かしいなぁ)
人よりもずっと早く人を殴ることを覚えたのは、弟がいたからに違いない。
愛しく守りたい人間がいる者は、その方法を問わず戦わざるを得ないからだ。スラムの中の名前すらないもたない子供には、知や人脈を戦う手段にできるような猶予はなかった。だから誰よりも早く、暴力を覚えた。
人を殴ると金や食べ物が得られる。
人を殴って、自分や弟が食べていける。
自分で手さぐりに知った世界の常識は、最初から最後までそれだけだ。それ以外はなにひとつとして信用できることはなかったけれど、それだけはいつまでも確かであり続けた。砂利しか食べるものがなくなった日も、人を殴って生き延びた。それだけが生きる道だった。
運がよかったのは、天賦の才があったことだった。
肩の関節の可動域に人並外れたものがあり、骨や脚の関節も人を殴ることに恵まれていた。その肉体から放たれる拳撃はまさしく槍と呼ぶにふさわしいものであった。秦野スラムの中心を担っていた地下闘技場へ行っても人生は何も変わらなかった。
殴れば生きていられる。
ただそれだけが、より確かになっただけ。
地獄と呼ばれるような場所で、自分の覚えた常識は通じることが分かった。
地獄闘技場は自分の常識が通じるだけの、知っている世界の範疇だった。ただしひとつ、名前を得た。自分の知る常識をそのまま表したような名前だ。自分の存在がそれなのだと、改めて自覚した。やがて弟が病で命を落として、殴れば生きられるという常識だけが残った。
弟のために殴るという理由がなくなった。
自分のためだけに殴るようになった。
だから地獄闘技場の面々を虐殺して私を待っていた『魔王』から誘いを受けても、私は大きく心を揺り動かされなかった。『魔王』から力を受けることで『魔人』になるという事も、人を殴る舞台がストリートやとリングから紛争や抗争へと移り変わっていっても、なにも変わらなかった。
ただ、殴れば生きていられた。
それだけだった。
そして私は死んだ今、なにか殴らなければいけない理由はあるのだろうか。
『魔人』の力はそれを考えさせる猶予を与えてくれた。心臓は止まり血液が巡らなくなっても、体の中に残存していたエネルギーを使えば体を動かすことはきっとできる。
足音が段々と近づいてくる。
赤い女の足音だ。
急いで私は殴らなければいけない理由を探すけれど、私の眼前へ赤い女の足が映り込んだ。そして私は、理由を探すことを止めた。
「……やっぱ心臓止まってんな。よし、次行くっ……!?」
赤い女の表情が一瞬止まって、針で突かれた水風船のように油汗を噴きだす。フルピアスの拳が赤い女へ下っ腹から炸裂し、内臓に傷をつけたのだ。赤い女は後退ってフルピアスの腕が届かない三メートルほどの遠さにまで距離を取る。
「慢心が招いた傷だな。いいだろ、戦いをもって看取ってやるよ」
「…………」
赤い女の言った言葉が、フルピアスの頭にはほとんど届いていなかった。余計な思考に使うエネルギーなどない。両拳を構えて、正眼に敵を見定める。残り十二・三八秒ほど。
拳を意志をもって握りしめる。殺意と言ってもいいだろう。ただ、純粋だ。
(ブンッ殴る!!!)
フルピアスの肉体は跳躍し、右拳を繰り出す。赤い女は余裕をもって防御に専念し、両腕でそれを受けた。
フルピアスの肉体が拳撃の反動で揺れる。赤い女は足元が動きすらしない。
赤い女はよりフラットな構えへと変化する。防御を捨てて攻撃だけに専念するためだ。
「魔法少女解放、零・零二」
「はぁああああああぁああ!!」
拳が人を殴る分厚い音が鳴り始める。
フルピアスの拳は赤い女の拳にすべて弾かれ、フルピアスをはるかに上回る手数で一方的に殴り掛かられていた。数秒もすると赤い女はフルピアスの拳を弾くことさえやめてひたすらに殴る。
頭を殴られ続け、脳が揺れる。
いよいよ死が現実くさい中、フルピアスは晴れ渡る殺意に満ちていた。
フルピアスは殴ることだけで生きていた。生きることは、殴ることだった。
「っ」
「……」
フルピアスのバランスが崩れ、隙が晒される。
赤い女は殺すつもりでフルピアスの頭へ全力の一撃を叩き込むが、空振って空を切る。フルピアスがバランスを崩したのはわざとだ。
「手ぇええ、抜きやがってよぉおおおぉお! わた、しっは」
今、赤い女が無防備だった。
残り、零・八秒。
フルピアスの拳が赤い女の頬へと振り抜かれる。
「生きてぇっ、るん、だぁあああぁああ!!」
鈍い音が鳴る。
フルピアスの拳は赤い女の頬へ当たっていた。そのままフルピアスの遺体は崩れ落ち、フルピアスの拳が当たっていた赤い女の傷のない頬が露わになる。
うつ伏せに倒れたフルピアスを赤い女は一瞥すると、連絡装置を取り出してその場を離れていく。赤い女にとって、フルピアスのような人間はそこまで珍しくはない。赤い女にとってフルピアスは十把一絡げの敵のひとりでしかないだろう。
だがきっと、赤い女がフルピアスを忘れたとしても、フルピアスは気にしないだろう。
なぜならフルピアスは、最期の十秒余りの時間の中に、死体でありながらも、生きていたのだからだ。ただ生きている者として、最期の生き様を全うしたのである。きっともうそれ以上、望むべくもないだろう。