Another Ep7:昔日
今回はアナザーにするかどうか悩みましたが、いつもと違ってハルの一人称ではなく三人称で書いたので、アナザーにしてみました。
本編的には特に話は進みません。
けどざっくり広い視野でリターンを見る上では結構重要な話になると思います。
陽雪の兄、正陽のお話です。
ああああ最近なんか暗い話が続いていて面白くないなぁ。はやく婚約編に蹴りつけたいです。予定ではあと2、3話。
所は廃工場。
無骨な鉄パイプが山と詰まれ、錆びた階段が吹き抜ける風にぎぃぎぃと揺れている。
そこで2人の男が相対し、睨み合う。
時間にして数秒。
その間に幾多の牽制を互いに仕掛け、そして時は動き出す。
駆け出す2人。
10メートルほどあった間合いは一瞬にして詰められ、その影が混じり合った時、はじけるような音が廃工場に反響する。
わずかな残響音。
決着は既についていた。
「グアアァァアア!!」
響く叫び声。
直後に強い光が広がり、すさまじい爆風は周囲に砂埃を巻き上げた。
しばらくして収まり、その向こう側から現れたのは―――――。
「…つ、っえええー!!!すっげー!やばいよ、すっげーカッコいいよ!やっぱそうだよね、男は強くなきゃ駄目だよね!」
目を輝かせながら少年は振り返り、後ろのソファに座る兄に同意を求めた。
「ね!お兄ちゃん!!」
「ん?」
問いかけられた当の本人は今この瞬間まで手に持っていた新聞に目を通していてまるで少年の話は聞いていたなかったが、少年から1メートルと離れていない位置にあるテレビにヒーローものの番組が映っていたので話の内容は大方予想がついた。
「あぁ、そうだな。カッコいいな」
「うん!あ、でもお兄ちゃんだってカッコいいよね!だってこの間だって空手の大会で優勝したもん!」
そういって兄を見つめる少年の瞳は、先ほどまでテレビの中のヒーローに向けられていたそれと同じ輝きを放っていて、そのことに少年の兄は苦笑を禁じえなかった。
少年から兄へと向けられた憧れ。
それはどこか誇らしく、嬉しくもあったが、一方で何故だかそれはどろどろとしたヘドロのように彼の胸の奥底に沈殿していた。
「でもさすがに俺もあんな目からビームを出す怪人には勝てないかな。…と、そろそろ時間か」
しかしそんな想いは押し隠し、新聞を綺麗に畳み直して、ソファの前にあるローテーブルに置いて立ち上がる。
「陽雪、そろそろ時間だからテレビ消して来い」
「えー?でもまだエンディングが…」
「消しなさい」
「…はーい」
わずかに鋭くなった兄の視線から逃れるように少年―――京本 陽雪―――は立ち上がり、テレビの主電源を切ると兄の下へと駆けていく。
「どこかいくの?」
陽雪が袖を引っ張りながら尋ねると、陽雪の兄―――京本 正陽―――は微笑みながら言った。
「ばあちゃんち。行くだろ?」
その問いに陽雪は笑顔で頷いた。
陽雪と正陽の祖父母は、都心の高級住宅街にある一軒家で2人で隠居していた。
祖父は気難しく、仕事一貫であったために趣味もなく、「扱いづらい人」というのが息子夫婦を含めた周囲の人間の認識だった。
祖母は生粋のお嬢様育ちで、多少世間知らずな部分があったがそんな祖父の欠けた部分を補い埋める様に優しく純粋な人だった。
しかし数年前に病気で倒れて以来気弱になってしまい、何かと今すぐにでも自分が死ぬかのような発言をするようになっていた。
そんな2人の、2人きりの生活を懸念して、陽雪と正陽の父親はなるべく2人に顔を出してやるように言っていた。
「あらあら、それじゃあ正陽さんはT大学を目指すつもりなのね?」
お茶を煎れ終わった祖母が二人の前に湯飲みを置いてから、向かいの席に腰を下ろしながら笑顔で正陽に尋ねた。
―――否。尋ねたのではない。
それは既に「確認」であった。
「…うん、そうだね。A大学とかも良いかと思ってたけど…そのほうが、いいでしょ?」
正陽が尋ねると、祖母は湯飲みを手に持ち、
「そうねぇ…。お祖父さんの母校でもあるしねぇ。えぇ、そうなってくれたら、お祖父さんも喜ぶでしょうねぇ」
頬に深い皺を刻んで微笑んだ。
それはうれしそうに、うれしそうに。
自分の素晴らしく優秀な孫が、愛する夫と同じように輝かしい未来を歩く画が彼女には見えていたのだろう。
正陽はそんな祖母に見えないように、テーブルの下で硬く拳を握り締める。
「ねぇおばあちゃん!」
「はいはい、どうしたの陽雪さん?」
そしてその目論見は成功し、祖母はわずかにゆがむ正陽の表情に気づく様子もなく、声をかけてきた年下の孫のほうに気をとられていた。
「お茶もおいしいけどさぁ……ジュースとか、飲みたいかなぁ、なんて…」
ちらちらと上目遣いで祖母を見る陽雪。
その仕草さが生まれ持っての容姿と相まって、とても愛らしいことを本人も自覚しているのかもしれない。と、正陽は思った。
さらさらと流れる細い髪。闇を溶かしたように澄んだ黒色。
嘘偽りを許さないまっすぐな瞳。
自分が今の弟の年齢より少し上くらいのときに彼が生まれて、初めてその瞳が自分を捕らえたとき、正陽は気づいた。
自分には生涯持ち得ないものを弟が持っていることを。
それが何かは未だに分からない。
けれど、それが決定的な何かであることは分かっていた。
そして正陽は弟の持つ、その何かに心奪われていて、それ故に他の何者よりも(当時の恋人と呼べる異性よりも)弟を愛していた。
「あらあら、ジュースねぇ。残念だけど今はないわねぇ…」
「そうなんだ…」
そしてまた祖母も、彼をこよなく愛する人間のうちの一人だった。
可愛い孫の可愛い我侭に少しだけ困ったような顔をしながら彼女は言った。
「それじゃあ陽雪さん。おばあちゃんのお買い物に付き合ってくださる?」
「買い物?お使い?」
「えぇ。お夕飯のためのお使いを手伝ってくれたら、好きなもの買ってあげるわ」
その祖母の言葉に、消沈していた陽雪の表情が一挙に晴れ渡る。
「本当に!?」
「えぇ、本当に」
「じゃあ、じゃあ、オマケ付きのお菓子も買ってくれる!?」
陽雪は当時、とあるおかしをこよなく愛していた。
というよりもそれについている大好きな特撮物の食玩が目的だったのだが。
「おいおい、ジュースじゃなかったのか?」
苦笑交じりに正陽が尋ねると、「ジュースも買ってもらう!」と鼻息荒く陽雪が返した。
「いいでしょ!おばあちゃん!」
「えぇ、構いませんよ」
「ばあちゃん…」
自分もそうだが、大概この人も陽雪に甘い。
甘い、が、
「ありがとう、おばあちゃん!」
…この笑顔に逆らえる人は、そう多くないだろうと正陽も思った。
2人は出かける準備を済ませると、3人が今まで座っていた食卓とは少し離れた窓際の椅子に座って、何をするでもなく外を眺めている祖父に声をかけた。
「それじゃあ、あなた。お買い物に行ってきますね」
「………あぁ」
それに祖父は言葉少なに返す。
「行きましょうか、陽雪さん」
「うん!」
右手に買い物籠を持った祖母が、反対の手で陽雪と手をつなぐ。
そして玄関に向かって歩き始めた。
と、思ったら、陽雪がくるりと振り返る。
「お兄ちゃん!」
「ん?」
未だ椅子に座り、お茶を飲んでいた正陽は湯飲みを口につけながら目線で答える。
「お兄ちゃんにも、お菓子買ってきてあげるね!」
(…買ってくるのは、ばあちゃんだろうに)
そう思いながらも、正陽は微笑み、
「あぁ、頼んだよ」
と弟に告げた。
敬愛する兄に頼みごとをされたのがうれしかったのか、陽雪は満面の笑みを浮かべて、やる気満々で祖母の手を引いて出かけていった。
その後姿を見送りながら正陽は思う。
(愛しい)(守りたい)(大切だ)
同時に感じる、相反する想い。
(眩しい)(妬ましい)(憎らしい)
そんな気持ちごと飲み込むように、正陽は口に含んだお茶を一気に喉の奥に流し込んだ。
「…………正陽」
「、はい?」
突然、低い祖父の声で声をかけられて少し驚きながら、正陽は返事をする。
祖父は相変わらず外を眺めたままだ。
もしかしたら、あの窓からは買い物へと出かける二人の姿が見えているのかもしれない。
「………アイツは、駄目だな」
「…は?」
祖父の言う「アイツ」が誰のことだが、一瞬正陽には誰のことだか分からなかった。
が、すぐにそれが陽雪のことであることを悟った。
「…駄目、って。どういうことですか?」
身内の贔屓目無しにも、陽雪は優秀な部類に入るように見える。
しかるべき教育を受ければ(自分自身と同じように)、それ相応の能力を発揮させるはずだ。
それを「駄目だ」と祖父は告げた。
「駄目だ。根本から甘露で煮付けられたように甘い。グズグズに融け切っている。お前やお前らの両親、私の妻の甘やかしも一因ではあるだろう。が、それ以前にアイツは、根本が駄目だ」
つらつらと辛らつな言葉を表情変えずに紡ぐ祖父に、思わず「黙れ」と叫びそうになった。
黙れ、黙れ。ろくにアイツの目を見て話したこともないお前が、陽雪の何を語る。
お前は何も知らない。
アイツがどんなに高尚な存在であるかを。
どんなに清廉な存在であるかを。
何も知らないくせに。
けれども正陽の口からはうめき声の一つも漏れなかった。
ただ、ただ、拳を握り締めて黙り込むだけ。
窓の外を見たままの祖父は、先と変わらない口調で淡々と言葉を続ける。
「私の息子はとんだ愚図だ。見た目や雰囲気だけを気にして、いつになっても本質を掴みきれない。妻も嫁も、女はふらふら、ふわふわと当てにならない」
そしてこのときになって初めて祖父は窓の外の風景から目を離し、遠くからジッと正陽の目を見た。
老眼でぼやけた視界にはろくに正陽の顔など見えていないだろう。
なのに、その瞳の篭った妄執だけは、強く正陽を射抜く。
「正陽。お前だけが頼りだ。私の信念を継げるのはお前だけだ。息子も、もう一人の孫にも何の期待もしない」
「優秀なお前なら、分かってくれるな?」
そんな問いを今まで何回向けられただろうか。
思い出せない。
数限りないだろうと正陽は思う。
そしてその数え切れない問いに、今まで毎回正陽は「はい」と答えてきた。
YESと返す以外に自分に道はなかったように思えたのだ。
今回も同じだ。
同じような問いに、同じような答えを返した。
そして同じように結果を残すだけなのだろう。
――――――あぁ。
と、ため息をつく。
今までいくつの問いに答えてきただろう。いくつの期待に応えてきただろう。
その度に新しい道がひらけるのではないだろうかと期待してきたが、いつになっても期待したそれは見えてこない。
一歩踏み出すごとに絶望する。
一歩踏み出すごとに嫉妬する。
はるか後ろを歩いているはずの弟が、自分が見たことのないような道を軽々とした足取りで歩いているような気がして、絶望する。嫉妬する。
故に焦がれる。
どうしようもなく焦がれる。
そして愛しくなる。
どうしようもなく愛しくなる。
「お兄ちゃん?」
ぐっ、と右手を強く掴まれて、正陽はハッとする。
視線を降ろすと、自分の右手を掴んで心配そうに見上げてくる弟の姿があった。
「話聞いてる?さっきからずっと黙ってるけど…」
「え、あ、すまない。すこし、ぼぉっとしていた」
「もぉ!だからね、この前ね、優奈と一緒に校庭で遊んでたんだけどね…」
正陽の言葉に憤慨したように陽雪は目を吊り上げて、そして今までしていたであろう話をもう一度頭から話し始めた。
「…そしたらね、四年生の奴らが急に割り込んできてね…」
「あぁ…」
正陽は適当に相槌を打ちながら時刻表を見上げる。
どうせ大した内容のある話ではない。相槌さえ打ってもらえれば、陽雪だってそれでいいのだ。
時刻表を見ると、2分後に快速が来て、その5分後に各駅停車の電車がくるようだった。
この駅は快速電車は止まらないので、乗るとしたら7分後にくる各駅停車のほうだ。
足元の黄色い点字ブロックの数センチ手前に陽雪と手をつないで立ち、真正面から橙色の夕日を正陽は見つめた。
(熱い)
まだ夏にもならないのに、落ちかけた太陽から注がれる熱は額から汗を滲ませる。
(熱いなぁ)
そんなことをぼんやりと考えながら、正陽は陽雪の話に相槌を打つ。
どうやら校庭で遊ぼうとしたら、その場所を上級生に横取りされたというような愚痴のようだった。
優奈がどうのこうのといっていたから、いい格好がしたかったのかもしれない。
「ね、ずるいよね?だって俺たちが先に場所とってたのにさぁ…」
「…陽雪。それじゃ、駄目なんだよ」
「え?」
唇を尖らせている陽雪に、正陽は言う。
「それじゃ駄目なんだ。大事なものは、きちんと自分で守らなきゃいけない」
「えぇ?またそれぇ?だから、俺だってがんばったんだよ」
「がんばったかもしれない。でも、それで結果がついてこないんじゃ仕方ない」
こんな小さな子供に何を言っているんだろう。と、正陽は思った。
だけど、どうにも口が止まらない。
あぁ、夕日が眩しい。
「自分にとって大事なものでも、他人にとっては屑かもしれない。お前にとっては優奈ちゃんとの居場所を守るのは大事なことだったろうけど、そいつらにとったらそんなことは取るに足らないことだったんだ。
だから、大事なものは自分で守らなきゃいけない。
壊されないように、奪われないように」
そして続けて、言った。
「大事なものこそ、あっと言う間に目の前から消えうせる。
守らないといけないんだよ。自分で。自分の手で」
言い終わったとき、ホームに快速電車が通過する旨の放送が木霊した。
通過する電車になど誰も興味がないのだろう。
ちらほらとホームに点在する人たちは、顔をあげることすらせずに、各々何かしている。
正陽のようにあの朱い夕日を見ている人間はいないようだった。
「……ふーん」
陽雪の返事は、いまいち釈然としない声色で返って来た。
分からないだろうと思う。
自分でも何を言っているんだろうと思っている。
何が言いたかったんだろう。分からない。
だけど。
そう、だけど。
今自分の胸には、どうしようもないほどの虚脱感が溢れかえっていて。
正陽は陽雪の手を離す。
「…?お兄ちゃん?」
不思議そうな陽雪の声が聞こえてくる。
けど、もう止まれないことを、正春は分かっていた。
「陽雪―――――」
一歩、黄色い点字ブロックから足を外に踏み出しながら、正陽は言った。
「――――ごめんな。お兄ちゃん、もう、駄目だ」
お前を見ていたら気づいてしまった。
俺はなんて偽者なんだろうと。
どこまでも偽りで、本物なんてどこにもなくて。
大事なものななんて、俺には最初からなかった。
守らなきゃいけないものなんて何もなかった。
お前以外は。
俺が焦がれて、憧れて、憎んだけど、どうしようもなく愛したお前以外には。
だけど、気づいた。
お前は俺に守られる必要なんか無くて。俺よりもよっぽど強くて。
あぁ。
「あの夕日みたいに、お前は眩しいな」
偽者でしかない俺には、到底直視できそうもない。
もう、疲れたよ。
―――――――そうだ。
俺は、あの時。
あの時離れていった、兄貴の手の温もりが。
一生戻らないものだなんて、思いもしなかった。
そして兄貴は俺の目の前で。
電車に飛び込んで、死んだんだ。