Ep2:崩壊
「ん…、おわったぁ…」
ぐんと両手を上にのばして長い授業で固まった体をほぐす。
六時間目は定年間近のじいさんが教える古典。
何を言っているのかわからない上、板書もしないから授業内容なんてサッパリ分からない。
そのくせ寝たりしたら怒鳴って来るものだから変に気が張って妙に疲れるのだ。
「疲れたし、今日はさっさと帰ろ」
とかいっても、毎日さっさと帰っているが。
廊下にでると、誰かに名前を呼ばれた。
「陽雪ってば!!」
向こうから駆け寄ってきたのは見慣れた幼なじみの顔だった。
「そんなにしつこく呼ばなくても聞こえてるから、優奈」
「だったらのそのそ振り返らないでちゃちゃっとしなさいよね!!」
「相変わらずお前は擬音が多くて、何言ってんのか分かんねーな」
「アンタも相変わらず失礼なヤツね!!」
肩下まで伸ばした黒髪を揺らしながら駆け寄ってきた優奈は、まずは一発と言った感じで俺の腕にパンチをいれる。
「で?なんか用事か?」
俺が尋ねると優奈はいたずらっぽく笑いながら、
「一人寂しく帰ろうとしている哀れな幼なじみに愛の手を、と思ってね」と言った。
「打算でまみれた愛はいらん。何が目的だ?」
「ショートケーキ!!」
「アホか」
きらきらした笑みで見上げてくる優奈の頭を軽く叩いてから、歩き始める。
「うそうそ、冗談!ホントに久しぶりにアンタと帰ろうと思っただけ」
それを追いかけるように優奈が俺の隣に並んだ。
「彼氏はどうした?」
「そう毎日一緒にいるわけじゃないって。これだから童貞は……」
「よ、余計なお世話だ!お前こそ、そのまな板どうにかしろよな!」
「なっ!!それこそ余計よ、このむっつり童貞!」
「だあぁぁぁ!むっつり言うな!この鳩胸!!」
「鳩胸ぇぇ!?」
売り言葉に買い言葉。
周りからみれば立派な喧嘩だろうが、俺らは昔からこうだった。
それでも一緒にいるのだから、これが俺らのスタイルなんだろう。
下駄箱に着き、靴をはきかえてから校庭にでる。落ち掛けた太陽が差す橙色の中、所狭しとサッカー部員が駆け回っていた。
「楽しそうね」
靴を履き替えた優奈が後ろから声をかけてきた。
「そーだな」
「アンタ、運動神経良いんだからなんかやればいいのに。神様が慈悲深くも与えてくださった唯一の取り柄でしょ?」
「いまさらだろ」
「そんなことないって。まだ二年の夏なんだから、頑張れば引退試合までにはどうにかなるかもよ?うちのサッカー部、弱いし」
「俺はあんなに一生懸命、がんばれないよ」
サッカー部から背を向けて、駐輪場へ歩き出す。
(まるで逃げてるみたいだな)
実際、逃げだけど。
「つまんないこと言ってないで行くぞ。後ろ、乗るんだろ?」
前を向いたまま、後ろにいる優奈に声をかける。
「………」
「優奈?」
振り返ると、じっと俺を見つめる優奈の姿。
「乗る、けど」
言いよどむ優奈。
両手は何か耐えるように、プリーツスカートをしわくちゃにして握り込んでいる。
「なんだよ、珍しく真剣な顔して。告白か?」
その態度にいやな予感がして、茶化すように笑う。
そんな俺を責めるように、優奈の目が細くなる。
「茶化さないで。アンタ、都合が悪くなるといっつもそうやってヘラヘラ笑う」
「告白じゃないなら、俺は行くぞ。乗らないなら置いてくからな」
「陽雪!」
「…んだよ」
眉間に皺を寄せて俺を睨みつける優奈。
その後ろから夕日が差して、まるで後光のように優奈を照らす。
(…ヤだなぁ…)
そんな神々しい光景は、幼なじみすら俺から遠く引き離していく。
「アンタが頑張ることは、そんなに『つまんない』こと?」
「今更サッカー部入るってのがくだらないって言っただけだよ」
「アンタの才能について語るのはそんなにつまんない?」
「だから、才能とかそんな大それたもんじゃないって話をしてんだよ」
「じゃあさ」
「だから、なんなんだよ!」
ふと気づくと。優奈は今にも泣きそうな顔をしていた。
「アンタは、何を面白いと思うの?」
「…」
「何を楽しいと思うの、何に喜ぶの、何に真剣になるの?アンタは、何を……」
すぅ、と息をすう音が聞こえた。
「どうしたら、昔みたいに笑ってくれるの?」
その言葉を聞いたとき。
俺のなかで、何かが音を立てて切れた。
「黙れよっ!」
「っ…」
「なんだよ昔みたいに笑うって!今でも笑ってんだろ、なんにも変わってねえだろ!!」
「は、陽雪」
「お前が勝手に過去美化してるだけじゃねえのか!?ハッ、マジでくだらねぇ」
優奈に背を向けて歩き出す。
これ以上ここに居たら、必要ない言葉まで言ってしまう。
優奈を、傷つける。
「陽雪、違うの、私はただ、アンタが心配で…!」
「うるせぇ!ついてくんな!!」
着いてこようとする優奈を怒鳴りつけ、駆け出す。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
俺は、優奈とだけは、こんな話をしたくなかった。
つまらない日常。大嫌いな日常。
そうなったのはずいぶん前で、もう変えることはできない。
そんな風に諦めている自分も大嫌いで、よけいに世界は冷たくなった。
でも、そんな日常のなかでも、優奈だけは前のまま。
俺の日常のなかで、唯一「つまらなくない」もの。
優奈と居るときだけは、俺の日常が、少しだけ昔のものに近づけた。
だから、わがままだけど。優奈とは、こんな話はしたくなかった。
俺のつまらない日常に口を挟んでほしくなかった。その外側で笑って居てほしかった。
(だけど……!)
「陽雪っ!!」
それももう、今日、消えてしまった。
「ただいま」
玄関を開け、靴を脱いで家に上がる。
リビングは真っ暗で、手探りでスイッチを探して電気をつける。
「母さん、帰ったよ」
返事はない。代わりに、トントントン、とリズムよく続く音が耳に入った。
台所へ行くと、予想通り母さんがそこに居た。
朝とまるで同じところで、同じことを繰り返していた。
「…母さん」
肩に手をかけ、体ごとこちらを向かせる。
「…あら、陽雪。いつ帰ってきたの?」
「ついさっきだよ」
「そう…全然気づかなかったわ。ごめんなさいね」
ふわりと母さんが笑う。
「父さんは、帰ってないの?」
「そうね…今日はまだ、帰ってないみたい」
「そっか」
「それにしても、陽雪、今日は学校、終わるの早いのね?」
「…うん。少し、早めに上がれたんだ。」
「そうなの。…あぁ、そうだ、おなかへってるわよね?すぐにご飯にするから…」
そういって母さんはまた台所へと向き直ろうとするが、腕をつかんでそれを制す。
「いいよ母さん、今日は俺が作るから。母さんは少し休んでて」
「あら、珍しいこともあるのね。陽雪がお手伝いなんて」
「たまにはね。だからテレビでもみて待ってて」
そしてそのままリビングへと連れて行き、テレビの前のソファに座らせる。
「…あら?もう外真っ暗じゃない…いつのまに、そんなに時間がたったのかしら…」
「……」
台所へいくと、山盛りになったキャベツの千切りが目に入る。
ひと玉丸々切ってしまったようだ。その隣には大量のタマネギが水にさらしてある。
「母さん、今日は何が食べたい?」
「うん?そうねぇ……あぁ、そうだ。お兄ちゃんの大好きなトンカツなんて、どうかしら?」
「…トンカツだね。分かった」
右手にある冷蔵庫を開ける。買い物は昨日、ヘルパーのおばさんがしておいてくれているはずだから、豚肉も入っているだろう。
「ねぇ、陽雪?」
「なに、母さん」
二人分の豚肉を冷蔵庫から出し、戸を閉める。
「お兄ちゃんは、まだ帰らないのかしら?」
母さんのあっけらかんとした声がリビングに響く。
「…兄貴は……」
深く息を吸い、はく。
そして俺は母さんに、何百回目かの同じ嘘を、
「兄貴は、もうすぐ帰ってくるよ」
いつものように、母さんに告げた。