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犬生(けんせい)

作者: JohnD




女は犬を溺愛していた。


その犬は健康優良のブルドッグだった。何気なく買い物をしたペットショップで見つけて、一目惚れしてその場で買ってしまったのだ。

「その場で買った」と簡単に言っても、もちろん躊躇がないわけではなかった…何しろこの犬はべらぼうに高かったのだ。女が想像していた二倍、いや、三倍ぐらいの価額だった。

「犬とはこんなに高いものなのかしら?」

女は思わずペットショップの店員に聞いてしまった。犬を膝に抱えて、もう半分買う決意を胸に秘めながら。

「いいえ、この犬が特別なんですよ」店員は誇らしげに言った。「この子はドッグランのチャンピオンの血統なんです。容姿も特別いいですし、他の子よりもかなりお値段は上がってしまいますね」

「まあ…」

女は犬のつぶらな瞳を見つめた。他の安い犬にすればいいじゃないの、と自分に言い聞かせようとする。

私は犬をドッグランに参加させるつもりなんてない。私の癒しになってくれればいいと思ってるだけ……それならば、わざわざ良い血統の子を買う必要ないじゃない。そう思えば思うほど、目の前の可愛らしい生き物は無垢な目でこちらを見つめてくる。

「このお値段でも、もう目をつけている方はたくさんいらっしゃいます。なにしろこの容姿と愛嬌でしょう」

それはそうでしょうね、と女は思った。その犬には抗いがたい魅力があった。人懐っこく手を舐める仕草、なんといっても、この整った容姿…。女の乾いた人生に潤いをもたらしてくれるに違いない。女は迷いながらも購入を決めた。


それが7年前の出来事だった。

女は他の何よりもその犬を愛していた。

女が自分のことより犬のことを優先させると、冗談交じりで友人からはからかわれた。

事実かもしれない。自分の体に少々不具合があったとしてもどうってことはないが、犬が少しでもいつもと違うそぶりを見せたら、すぐに動物病院に連れて行った。「これはただの夏バテですよ、奥さん」などと医者からは呆れられた。


午後六時、犬は今、女の膝の上にいた。

掃除も洗濯も夕飯の準備も済ませ、一息つくこの時間、犬の美しい毛にブラッシングをかけているところだ。丁寧に丁寧に、とかし残しが無いように。

やっぱりあの時、この子を買ったのは正解だった。確かに痛い出費ではあったが、今この子がもたらしてくれる喜びを考えれば、あんな値段は屁でもなかった。……


女の掌に伝わる、毛の感触と温かな体温。

女は幸せを感じながら、ふと、犬の毛が、昔より触り心地が悪くなっていることに気が付いた。

昔はシルクのような感触だったのに、今は痛んだ人間の髪のような感触に変わっている。

年のせいだろう……、女はため息をつきながらそう思う。

年がいったのだ。なんといってもあれから7年も経っている。いくら最優良血統の犬といえども少しは衰えがくるだろう。

女はこの犬の人生、いや、“犬生けんせい”について考えた。

女の人生はこの犬のおかげで良いものになった。それならば、この子の犬生は?

女はこの子を手に入れて幸せだった。しかし、この子は幸せだったのだろうか?


昔はダイヤモンドのように好奇心で輝いていた目は、今は鈍い輝きを放つのみ。昔は散歩の時、誰にでも元気いっぱいで寄っていっていたのに、今は少し歩くとバテてしまう。この子の犬生は?


女は、可能性というものを考えた。

あったかもしれない可能性について。


この犬が、ドッグランに出場して優勝していた可能性。あったかもしれない。

なんといってもこの子はチャンピオンの血統なんだもの。

あったかもしれない。女にもしその気があれば、トレーニングさせれば良いところまで行ったかもしれない。しかし女に“その気”はなかったのだ。この犬は、そばにいて、女を癒してくれれば良かったのだから。


この犬が、どこかの出版社やテレビ局に目をつけられ、アイドル犬としてデビューした可能性。あったかもしれない。

この子は一目を惹く容姿だ。若い時はその愛嬌と容姿にたくさんの人々が賞賛の声をかけた。女は散歩の度に、誇らしくて仕方なかった。

他の犬とは違う。値段も血統も違う。そう思っていた。

あったかもしれない。女にもしそのようなコネがあれば、この子はアイドル犬になれたかもしれない。散歩の時に近所の人に褒められるだけじゃない。世界中の人から賞賛を受けたかもしれない。しかし、女は平凡極まりない主婦で、この子を売り込めるコネなどなかった。


この犬が、レストランの看板犬になった可能性。あったかもしれない。

例えば女がレストランを開いたとして、この子が看板犬になればきっと話題になっただろう。なにしろ可愛いし、愛嬌もあるから。

あったかもしれない。女にレストランを開くような資金や野心、料理の腕がああれば。

女は昔、ある田舎の遊園地で、愛想のない不細工な犬が看板犬をやっているのを見たことがある。女は内心、唇を噛みしめたものだ。うちの子の方がずっと可愛いわ。うちの子が看板犬になった方が、どれだけこの遊園地に有益か分かったもんじゃない。しかし、女に遊園地を作る金などあるわけない。不細工な犬のご主人様は、その金がある。それだけ。


そんな可能性があったかもしれない。あったかもしれない。あったかもしれないんだわ。


今、他の犬の倍も値が張る、優良な血統の犬は、“女の飼い犬”以外の何物でもない。女の家でブラッシングと愛を受けるだけ。昔は足が速かった。昔は愛嬌があった。しかし今は、ただ家でごろごろするだけだ。

可愛いと言われることもめっきり減った。可愛いというのは女だけ。女だけ。あれほど人懐っこくて、他の人や犬と関わることが大好きだったこの犬。今は、誰とも関わっていない。女だけ。女だけ。


女は犬をぎゅっと抱きしめた。犬はブウ…と嬉しそうな声を出す。

女はひょっとして、この犬の犬生に、とんでもないことをしてしまったんじゃないかという不安に駆られた。

この犬を飼うと女が決めたあの日に、この犬の犬生は台無しになってしまったんじゃないか。他の人にもらわれていたら。ドッグランに参加させてくれる飼い主にもらわれていたら。出版社やテレビ局にコネのある飼い主に、レストランや遊園地を開くお金のある飼い主に、もらわれていたら。


私はなんてことをしてしまったんだろう。

確かに私は愛情を注いでいる。不自由のない犬生を遅らせている。でも、愛情がなんだというんだろう。なんだというんだろう。この子には、もっと良い犬生をあったかもしれないのに。


ごめんね。ごめんね。ごめんね。女は心の中で犬に謝った。涙が勝手に零れてくる。

私はこの犬の犬生を台無しにしてしまった。私に甲斐性がないばっかりに。私に何もないばっかりに。


女はふと、顔を上げた。“私に何もない”というのは本当だろうか。


女は、実はその昔、美しかった。高校を首席で卒業した。その上運動神経もよく、才色兼備と誰もが噂した。何にでもなれると誰もが言った。しかし今は……。


そんなことを考えていると、玄関から扉が開く音がした。

「ただいま」

女の夫だ。まだ若く、将来のことなど何も考えていない時に、親に勧められて結婚した男だ。

女の誕生日も結婚記念日も決して忘れず、必ず素敵なプレゼントをくれる、何不自由ない生活を与えてくれる男だ。

そして、女を芸能界に売り込むコネもない、女を大学に行かせるつもりもない、遊園地やレストランを開くような金もない男だ。

「おかえりなさい」

女は涙を拭うと、笑顔で言った。

「犬は今日もいい子だったかい?」

男は女の膝の上にいる犬の頭を撫でた。ブウと犬が鳴く。

「ええ。ブラッシングもしてもらって、とても嬉しそうだったわよ」

「この子は、お前に愛されて、本当に幸せな犬だなあ。こんな幸せな人生…いや、犬生か?わっはっは。…を送れる犬はそうそういないぞ~」

夫は、心からそう思っているであろう声で言った。それが間接的な女への褒め言葉なのだと女には分かった。

「ええ、ほんと……」

女は頷くしかなかった。笑顔が引きつっていないだろうかと、女は心配した。




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