セルディオの死(下)
「おやまぁまぁ、健気な若武者だねぇ」
ケラー子爵の兵を打ち滅ぼそうと半包囲を敷く軍の後背。
俯瞰より戦場を把握できる小高い丘の位置にその一隊はいた。
数こそ30騎と少数の荷馬隊とほどと少ないが、しかし全身を包む鎧も装飾も威風と気品を併せ持っている。
その主将を務めるのは……たいていの人間が二度ほど見つめなおすような老婆であった。
胸元には聖印。光と雨の女神を信奉する神殿騎士団の一団と分かるだろう。
「メリダ様、あの若者……惜しいですな」
「……ほんとは後方から味方を突きたいんじゃろ? 安心なさいな、ワシもじゃ」
ころころと笑う老婆の視線は、しかし鷹の如き広い視座であたりを確認している。
メリダ老と呼ばれた老婆は、長椅子に寝転がりながら編み物でもしてまどろむのが似合いそうな姿でありながら――この30騎を率いる主将である。
果たしてこんな老婆が、屍鬼で蔓延する領都へと足を踏み込んで無事でいられるのか……そう思うところであろう。
だが、彼女と共にいる30騎は無言のまま下知に従っている。それが、全てであった。
「とはいえ……屍都に踏み込むには騎士団の力も必要。ああいやだいやだ。長生きするものじゃないわなぁ……」
……アンダルム男爵家の領都が、邪神の力に汚染されたという報を受け。
周辺貴族たちはかの家にある金鉱脈の利権を求めて一斉に兵を進めた。
みな口々に『邪神の力に汚染されたアンダルム男爵領を平定し、平和を取り戻す』というお題目で動いているが……その実体は火事場泥棒であり。
そして老女率いる30騎こそ、本気で邪神の力を打ち払わんとする気骨を持った、本物の騎士道を体現するつわものたちであった。
邪神である酷使者は、死者を永遠の労苦に追いやり、疫病の如く死者が蘇る領域を広げる。
そうした屍鬼を退治するための最大の破邪の手段とは、赤ん坊の泣き声に含まれた強烈な生命のエネルギーだ。
……もちろん戦場に赤ん坊を連れていくなどということは道義的にも時間的にも不可能である。
そのため、彼ら神殿騎士団が採る手段は次善の策となる兵器。
神殿の高位聖職者のみが産出地、精製法を知る『ブラックウォーター』を利用したからくり仕掛け、火尖槍と呼ばれる兵器こそが屍鬼の大群に対する切り札だ。
メリダは小さく息を吐きながら、自分達よりもより戦場に近く、より戦場を眺めれる位置に陣取った一隊に視線を向けて溜息を吐いた。
あの一隊は、戦争を見物に来ている。命のかかった争いを、命の危険のない離れた場所で、観劇するような気持ちで眺めている。
実際に命を賭けて戦う事のある老婆にとっては……味方とわかっていても、嫌悪する気持ちが拭えないでいた。
「……出来うるなら……あの若武者のほうを味方にできれば、気持ちいい戦になったろうに」
あの若者は助かるまい、メリダ老はそうひとりごちた。
単独で味方が陣形を組むまでの間、時間稼ぎのため決死の戦を続けている。
だが……彼が背負っている後方の味方軍は徐々に陣形を整えつつあるのに、その軍氣は弱弱しい。数で劣る以上、気迫で上回らねば勝てぬが、数でも気迫でも劣る彼らが勝つ見込みは無い。
気骨ある若者が、飢狼の如き侵略者に敗死する――そんな陰鬱な未来に溜息をこぼし。
『まだだ』
「っ……今……確かに強力の神の……?」
……メリダ老は唐突に、不意に、己の脳裏を駆け抜けた神託に目を瞬かせた。
まだか、まだか、まだか。
セルディオは肩で息を繰り返し、後方より聞こえてくるはずの、自分への後退の合図を待ちわびていた。
すでに十人に手が届くほどの一騎打ちを繰り返している。
自ら騎馬を駆り、挑んでくるだけあって誰も彼も手練。体に受けた手傷は数知れず、扱いなれたはずの槍がまるで千斤の重みのように両腕に伝わる。
「……これほどとは思っていなかったな」「手負いが怖いと実感する……土壇場にしか見えないが……」「あの半死半生の有様ならば容易いと踏んだが」「……見極め損ねると、死ぬわな」
幸いなのは、敵陣より更に一騎打ちを望む相手が一端なりを潜めていること。
彼らが欲しいのは一騎打ちにてセルディオを倒したという正々堂々とした誉れ。恐らく敵の騎士が二人がかりで挑めばセルディオは容易く討ち取られるだろうが……彼らは名誉で生きている騎士ゆえに、卑怯卑劣な手だけは選択できなかった。
ありがたい、セルディオは疲労しきった肉体を回復させるべく何度も呼吸を繰り返す。
もしかすると……もしかすると……このまま何もかも上手くゆけば、生きて帰れるのではないか。
そんな気持ちが浮上する。
連戦で猛る心が、次第に静まっていく中――セルディオは、後方より聞こえる指示のための銅鑼の音を聞き。
血が凍るような気持ちに苛まれた。
「……ファリク殿……?!」
その音は、撤退の合図。
ただしセルディオに向けたものではない――ケラー子爵家300の兵に対する後退の合図である。
見捨てられたのだ――衣服の下でぞっと冷たい汗が吹き上がるのを感じながらセルディオは馬首を巡らせる。
一騎打ちの真っ最中は両軍とも一旦兵を止め、お互いに見守るのが基本。
だが、ケラー子爵家の兵はその決まり事を破り、整然とした後退を始めつつある。
ゆえに休戦の約定も自然と破棄され、敵の軍団が半包囲の輪を縮めようとしている。
「はぁっ!」
セルディオは腹の中で渦巻く激怒をかみ殺しながら馬に声を掛け全力で走らせていく。
すでに後方からは敵の騎馬兵がこちらへと追いすがろうとしていた。
全身に広がる苦々しさ。失望感。
見殺しにされたという絶望で身を震わせながら懸命に馬を走らせる。
こんな味方の為に、命がけの戦いを演じた自分の道化さに……自分を見殺しにした仲間に、ファリクに、失望しながら味方の陣目指して掛けた。
主将ファリクの独断で始まった後退の合図。
その命令を受けてほとんどの兵士は『前線で一騎打ちを演じていた彼が帰還していないが、もう後退をはじめてよいのか?』と戸惑いこそすれども……命令それ自体を拒むことはなかった。
あの騎士を見殺しにするのは寝ざめが悪いが、彼らとて命は惜しい。本当は剣も鎧も脱ぎ捨てて一目散に退散したいと思う兵がほとんどだが、彼らもまた一度陣がほどければ敵騎兵に雑草を刈り取るがごとく殲滅されるだろうと分かっている。騎兵が最も殺し易いのは逃げ出す敵歩兵なのだ。
だが、一般兵は命令に従っただけと自分に言い聞かせれても、ある程度軍団の意思決定にかかわる騎士たちはこの独断に異議を唱えた。
「ファリク様、なぜ今……今撤退命令など!?」
「……見て分からないか! こっちは300、敵は1000! か、勝ち目などあるかっ!!」
配下の騎士の言葉に、ファリクは誤魔化すような焦りの声をあげる。
「そもそも俺はセルディオの奴めに一騎打ちを挑むように許した覚えはないっ! 明らかな軍規違反であろうっ!」
「ですがっ、それはあまりにも……」
「黙れ!」
しかしあの状況では、セルディオが独断で一騎打ちを敵陣へと求め、それを敵側が受けいれ、戦闘を一時中断しなければ……自分達は1000の兵士に群がられ、一撃で壊滅していただろう。
陣形を整えた状況で迎え撃ち、整然とした防御と後退を心がければ壊滅は免れるはず。
だが。
ファリクのそのいいようは幾らなんでもあんまりだと騎士は思う。
彼が孤軍奮闘して時間を稼いだおかげで何十人も助かる命があるのに――それは命の恩人に対して恩を仇で返すような裏切り行為にしか見えなかった。
……結局その騎士は口をつぐんだ。
ケラー子爵家の騎士として、次代の領主に逆らい将来を閉ざすことより……孤軍奮闘するセルディオの命を切り捨てるほうを選んだのである。
「ケラー子爵家の連中め、いくじのない! ……あいつをさっさと始末して攻撃だ、まったく!」
後方より騎馬を駆り、前線へと出てくる指揮官級の騎士の言葉を受け……これまで手出しを控えていた騎士達は嫌そうに顔を見合わせた。
名誉を命より大切にする騎士たちにとって……あれほど勇戦したにも関わらず仲間から裏切られた勇将に同情し、顔を見合わせる。指揮官からの命令だからこそ従うが……お互い気乗りしない様子で手綱をやる気なさげに緩めながら適当に後を追い。
「で、ですが指揮官殿っ! 逃げて背を見せているとはいえ、相手は手練れです!」
「奴はセルディオと名乗っていた、光無しの相手などどうとでも料理できるわ、やれっ!!」
蒼い顔をして前線に出てきた騎兵に指揮官が怒鳴る。その命令を受け馬に乗った長衣の魔術師が頷く。
用いるのは、炎をまき散らすような派手なものではない。この魔術師が得手とするのは風を操り……遠方の声を正確に拾うという、地味だが有用な魔術の使い手であった。
そして風――空気の流れ、振動を操る魔術はこの時非常に有効に働いた。
「ううっ?!」
突如として……周囲の音が消えた。
セルディオの周りに響いていた敵味方の怒号や罵声、騎兵の雄たけびや騎馬のいななき声などありとあらゆる音、振動が消失する。
今や彼が知覚できるのは己自身の骨肉のきしむ音、愛馬の鞍から伝わる地面を蹴る蹄の音のみ。
これは音ですべてを知覚するセルディオにとって世界の何もかもが暗闇に閉ざされたも等しい状況であった。
「あ、当たったぞ!」
「槍の届かぬ遠巻きから射殺せばいいっ!」
「はは、まるで獣でも狩るようですなっ!」
体に矢が突き立つ。
聴覚に優れたセルディオはその気になれば飛来する矢を空中で払って落とすほどの技量であるが、完全に知覚を封じられた今となっては防ぐこともできない。
「畜生が如く駆り立ててやれっ!」
「ひゃはは、名誉も顧みられず狗のように死ぬがいいっ!」
すでに何発も矢玉を浴び、セルディオの背中には針鼠のように矢が突き立って血まみれだ。
ほとんどなぶり殺しに近い様相でも、愛騎は懸命に掛けた。馬自身何発も矢を受けていたが、心臓が破れるほどに必死に疾駆する。
血が流れすぎた。ひどく肌寒い。手足の感覚が鈍い。正直無意識に槍を握り続けていたのが奇跡のようだ。
意識が回らない。なぜこうまで懸命になっていたのか――何もかも忘れて落馬し、地面に墜落すれば楽になるのではないか……そういう思考がちらつき始めた時、耳に懐かしい声が聞こえた。
「セルディオさまー!!」
リーシャ。
声が聞こえる。気づけば空気の振動を封じる魔術的な『凪』は消え去り、すべてを音で知覚する感覚が戻っている。
……魔術師は希少。少数とはいえ、敵陣近くに来れば流れ矢で万が一があるかもしれないと魔術師は味方陣地へと戻り。ようやく『凪』の魔術の効果範囲からセルディオは脱出していたのだ。
そしてリーシャもまた涙を流しながら騎馬で主君を迎えにきていた。
勇戦していた主君を見殺しにしたケラー子爵家の騎士など何ら役にたたないでくの坊と罵倒し、騎馬を奪って――音を封じられ、満身創痍の主人を助けにきたのだ。
彼女の存在が、深手を負っていたセルディオの体に最後の気力をよみがえらせる。
「そぉら、これでトド……」
「うぬああぁぁ!!」
め、という言葉ごと、相手の口内に槍を叩き込む。
手負いの獣のような叫び声をあげ、自分をすっかり弱者とみていた弓兵をまとめて始末し……リーシャの声に振り向いて――次の瞬間、馬ごと地面に転がり落ちた。
散々嬲り殺しめいた射撃を浴びて崩れ落ちる馬に礼を述べるようにうなじを撫で、セルディオはごろごろと全身を激しく打ち付けながら落馬する。
「ああ……これは」
まずい、死ぬな――どこか他人事めいた直感を得る。前から馬より駆け下り、リーシャが泣きながらやって来る。
血も流れた。地面にたたきつけられ骨も折れている。五体の中で無事な部分を探すのが難しいぐらいにぼろぼろであり。それでもリーシャに遺言ぐらい残す時間はありそうだ……。
「リーシャ……」
「言いつけを破り参りました……お許しください、セルディオ様」
「……いい、ありがとう」
後方からは敵の兵士が襲い掛かってくる。
落馬したセルディオと武装もしていないリーシャではあの人の津波の如き突撃を前に助かりはしまい。
それでも、主人を死なせまいと出てきた彼女の真心を責められはしなかった。ただ、できるなら自分が死んでも彼女には生きていて欲しい――セルディオは、己の肉体に力を籠める。
うごけ、うごけ、わが体。
礼は述べた。最後の別れは済んだ。
自分はここで死ぬ。それでいい。だがせめて彼女だけは死なせまい。逃げる時間だけは稼いでみせる――そう思った瞬間だった。
セルディオは、味方の陣地から放たれた雨のごとき矢の音を聞いた。
「ふぁ……」
咄嗟に肉体に力を込めリーシャを抱きすくめる。
半死半生の肉体のどこにこんな力が残っていたのか――セルディオ自身驚くような速さで彼女を引き寄せ、すでに死んで横たわる愛馬の陰に引き込み。
「ファリク……ファリク!!」
敵兵を、自分を――彼女ごと殺せと命じた男に、呪詛と絶望の咆哮を張り上げた。
「殺そうと……彼女ごと……彼女、ごと、貴様ああああァァァァぁっァァァ!!」
「セルディオ様、セルディ……!」
リーシャは見た。
セルディオは、己が五体を矢の雨から彼女を守る盾として用いた。
死に瀕した最後の願いに彼の体は応え、雨の如く放たれた矢の全て彼女に届くことなく食い止めて。
その体が、そのまま崩れ落ちていく。
「あ、」
「ああ、」
「わ、わああぁあああっ、」
「わ、わ、わ、わ……わぁーーーーーー!!」
「わーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
リーシャは針鼠のような姿で微動だにしない、絶命した主人を前に声を挙げた。
せめて彼女だけでも助けろー!! と怒鳴りながら、セルディオを助けるため上官の命令を無視して突っ込んできた兵士たちが、周囲で戦いを始めている光景も、瞳から溢れる大粒の涙のせいで目に入らず、悲鳴をあげた。
こんな。
こんなばかな。
味方の陣形再編の時間を稼ぐために一騎打ちに出て。
味方から見捨てられ。
敵から知覚を封じられ。
狩りの獲物のように矢を浴び、戦う権利さえ奪われ。
ほとんど嬲り殺しの死地から生還したのに―――――。
味方に。
殺された。
「わーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
守ろうとした味方に。
殺された。
いくらなんでも、あんまりじゃないか。
勇敢だったのに、優しいひとだったのに、こんな死に方をしていい人じゃなかったのに。
それなのに、無念と絶望のまま、救いのない、報われない死を遂げた。
リーシャは、主人の亡骸を抱きすくめ。
その冷たさにもう一度、悲鳴をあげた。
「わーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
脳裏に響く誰かの声は、聞こえなかった。
『まだだ』
『まだ、諦めるな』