平らなおなかと引き換えに、彼女は力を手に入れた
「……ううっ」
ハリュは……頬をくすぐる草木の揺れと、硬い土の上で眠ったせいできしむ体の不具合の為に目を覚ました。
既に空を見上げてみれば夜も過ぎ。遠方からはなにやら松明で何かを燃やす音がする。
戦闘はどうなった?!
ハリュは体中の毛穴から冷や汗をふき出しながら跳ね起きた。騎士としての初仕事で眠り呆けて何もしなかったなど、大失態だ。こんな事をしてしまえば、今後出世の目などなくなるだろう。
寝ている間にあのチンピラたちに武器や防具を盗まれなかったかどうかを、体を叩いて確かめる。文字通り身に纏う剣と防具が全財産にして商売道具。まだ身に着けていることに安堵の溜息を吐いた。
……そうだ、あのご婦人はどうなっただろう。ハリュはとたんその事が気になり始めた。
良心に従って逃げるように言ったが――そこから意識と記憶が断絶している。
胸がざわつきだした。あのような美しい女性に対して周りの悪漢たちが気付いたらきっとひどい目にあわせるだろう。自分の意識を刈り取った一撃が、他のチンピラや素行の悪い騎士であったかもしれない。
無事でいてくれ――そう思いながら、野営地に戻ろうとした騎士ハリュは……。
薪をくべて屍を燃やす火葬の炎と。
その周囲に佇む黄金の人を目にした。
「ご。ご婦人、ご無事でしたかっ!!」
ローズメイは慌てた様子の声に首を傾げながら思わず振り向いた。
見れば、先ほど当て身を食らわせて気絶していた若年の騎士が、地面に滑り込む勢いでローズメイの足元に駆け寄った。
「ああ」
ローズメイの反応は淡白である。
ハリュは心の中で少しだけ抱いていた期待が萎んでいくのを感じた。若い青年が美しい女性を助けてその事に感謝を捧げられるという事を期待しても、無理はない。いやいや、そういう風に欲得ずくでご婦人を助けた訳ではない、見返りを求めるなど騎士道に反する――そんな葛藤に苦しみながら、誠実に振舞おうと意識し名乗る。
「お怪我はありませんでしたでしょうか。その無事でよかった。あ、は、初めまして。自分、名前はハリュと申します」
「そうか。ローズメイという」
ローズメイは炎上を続ける火葬の炎をじっと見つめ続けていた。
彼女の頭の中では、これから先どうやってアンダルム男爵を追い詰めるかの筋道を立てている途中である。
ハリュは炎に横顔を照らし出すローズメイの美貌に陶然と見ほれていた。騎士として非道な命令に従う機会を逃し、これから先破滅かも知れぬと恐怖していた気持ちは、余りにも美しい絶世の佳人の横顔を見ているだけで忘れ去るようである。
「…………これは……ローズメイさまの見てくれに騙されたわね」
「ああ」
そんな……騎士ハリュの心情を、シディアと周りの家来衆は、かつての自分を見ているような懐かしむ眼差しでそっと見守った。
分かる。気持ちは痛いほど分かる。
美の化身か何かかと疑う美貌を見れば、真っ当な男児なら永遠の忠誠を捧げたくもなるだろう。
ただし……シディアは思う。ローズメイさまは生贄役に相応しい絶世の美貌と、生贄役にまったく相応しくない勇士の魂を併せ持った、矛盾の塊のような美女であった。
見惚れるような傾国の美女はその頭の中で、このアンダルム男爵領の支配体制を粉砕する算段をつけている。さすがは傾国の美女(物理)。
このままローズメイさまの真実のお姿に気付かぬまま、自分達から離れるのが彼にとって一番幸せではないかと思い、シディアは騎士ハリュに話しかけた。
「えーと。ハリュさん?」
「ん? ああ、なんだろう。白子のお嬢さん」
物腰は丁寧で、騎士ハリュの立ち振る舞いには自分達平民や、家来衆とは生まれの違いを感じさせる。
さて、どのように引導を渡すべきなのだろう?
「……ええ、つまり……自分が属していた騎士団は……」
「今燃えているか、逃げ出したかの二つに一つですねー」
シディアは、ハリュに彼が気絶した後の事情を事細かに説明していた。
今現在、遺体は炎に巻かれ、その後はそれぞれを穴を掘って埋葬していた。それ以外の家来衆は前職のチンピラの血が騒ぐのか、『うえっへっへっへ』と楽しそうに笑いながら野営地から利用できるものを探っている。
ハリュも戦死者から物品を略奪するのは世の常であると諦めているので、それを非難する気は無い。
「……ありがとうと、言っておくよ」
彼は疲れたような顔だったが、確かに安堵を覚えていた。
指揮官の騎士や、数日同じ釜の飯を食った仲間が死んだことは悲しい。しかし自分達は殺されて当然の罪を犯そうとしたのだ。
「しかし。信じられないことが一つある。……あの女性、ローズメイ殿は本当に……そんなに強いのか?」
シディアは、びしり、と空気が固まる音を聞いた。
彼女は余すことなく真実を伝えた。それこそ君主ローズメイさまは普通の娘の振りをして、指揮官の騎士の眼前まで移動して、倒したことも。屍術師の外法で動き出した死体を殴り倒すその膂力も。
だが――ハリュの気持ちも分からなくはなかった。
彼を気絶させたのはローズメイだが、騎士ハリュからすれば、それは相手がか弱い女性であるという油断があったからだ。
そして、彼は実に普通の常識を持って生まれてきた。確かにローズメイのその二の腕は細く強靭に引き締まっている。しかし膂力というものは、基本的に筋繊維の太さで決まる。で、あればああも細く美しい女性が大人顔負けの豪腕を持っているのが信じられないのだろう。
常識で考えれば、まぁ間違っているとはいえまい。
しかし常識で測れないからこそ英傑なのだ。
ローズメイは未だに炎のほうを見つめたままだが、その美しい背中から、肉食獣のような獰猛な気配を発している。
正面のほうで寝そべっていた狼龍シーラが、主人であるローズメイより発せられる凶暴な気配にびくんっ! とたてがみを逆立てて――その顔を見てしまい、おなかを見せてゴロゴロと転がった。明らかに降参と服従を意味するポーズである。
「つ、強いよっ?! そうだよねっ!! おっさんたち全員束になって掛かっても勝てないほどだよねっ!」
「「「「「「お、おうっ!!」」」」」」
家来衆は一斉に応えた。彼らにとってローズメイは無二の忠誠の対象であり。同時にひとたび荒れ狂えば制止不能の膂力の怪物でもある。
その機嫌を損ねることは絶対に避けたかった。
「……ああ、分かった。そう言うことにしておくよ」
騎士ハリュは、しかしそれを素直に受け取りはしなかった。
自分達の仲間が倒されたのは、彼女に従う山賊めいた風貌の悪漢達が恐るべき手練揃いであり。主君であるローズメイに手柄を渡しているのだろう。そういう思い込みである。
しかし……言葉にはせずとも、そういった心情は言葉の端々に現れていたのだろう。
「騎士ハリュ」
「え?」
いつの間に接近していたのか――ローズメイは笑いながらハリュの前に立っていた。
ぞくり……と、ハリュはその絶世の美貌を見上げ――違う、と実感した。美しいことは間違いない。しかしその美しさはどちらかというと、野生の肉食獣の美しさ。躍動する筋肉と、生死の境目で輝く生命力が燃えるように輝いているのだ。
間違っていた。一瞥一つで自分がどうしようもないほどに勘違いしていたと悟る。
殺される――。
絶世の美女ローズメイがその気になれば一合さえ持たずに斬殺されることを悟る。
ローズメイはにっこり笑った。どう考えても獲物を前に牙を剥く獣の笑顔にしか見えなかったが……一応これでも優しさをこめているつもりらしい。
そんなハリュの恐怖を見透かしたようにローズメイは笑った。
「安心せよ。おれは一度口にした言葉は翻さぬ。あなたはただの村娘と勘違いしたおれを、良心のまま救おうとしてくれた。あなたのような善良な性根の人を殺すのは天下の損失である。ただおれは――人に侮り、謗りを受けるのは、我慢ならんのだ」
そして、近くにある木の棒を手に取り。言う。
「戦おう。
君が自分の発言の過ちを自覚するまで」
騎士ハリュは、空を飛びながら自分の失言を全力で後悔していた。
比喩ではない。ローズメイの打ち込みを受けるたび……鎧を着込んだ自分の体が吹き飛ばされ、放り投げられた鞠のように地面を転がされるのだ。
ゴロゴロと地面を独楽のように回転し。近くの木々の一本と衝突してようやく制止する。
げはっ、と喉奥から競りあがるすっぱいものを自覚し、舌先で奥歯があるのかどうかを確かめる。いざ鍔競り合いの稽古の時、奥歯があるかどうかで踏ん張りの効きが違うのだ。
まず、模擬稽古用の棒を捨て、深々と土下座をする。
「申し訳ありません、自分の勘違いでした! あなたは途方もなくお強い……! それと願わくば、一つ頼みが!」
「なんだ」
これは、違う。欺瞞ではない、シディアも回りの家来衆も誰もが真実を言っていた。
腕に宿る筋繊維の生み出す膂力の次元が違う。それでいて、歴戦の勇者の如く狙いは迅速で正確。雷撃のような一撃は自分を木っ端のように吹き飛ばしていくのだ。
「もう一本! お願いいたします!」
「愛い奴め、来やれ」
そして一撃で自分の思い込みや勘違いを粉々に粉砕されると――ハリュは全身を駆け巡る高揚に震えた。
騎士の訓練で、一度も勝てないと思った教官達――をも、遙かに上回る膂力と速度と技量。全てが雲の頂に位置する絶世の美女。こんな素晴らしい剣士と稽古を付けてもらえる機会など一生に一度あるかないかである。
ローズメイは最初は機嫌が悪かったが、今では機嫌を直している。
もともと自分を鍛えようとする克己心溢れる人が大好きな性格であり、一撃で実力差を悟り、自分の失言を理解したにも関わらず――これを奇貨として修練に励もうとする相手との稽古は、醜女将軍の時代を思い出させた。
相手の切っ先を跳ね除け、脇へと棒を通し、刀身を上へと跳ね上げる。もしこれが真剣ならば、そこから片腕を両断するところだが木の棒ゆえに騎士ハリュは空中へと持ち上げられ……そのまま地面へと叩きつけられる。
「こはっ……?!」
「ひとまず、これまでにするか」
十数回地面に叩きつけられながらも立ち上がり、克己心のまま挑んできたハリュであるが、どうやらここまでのようだ。
ローズメイは彼の額に棒の先端を突きつけながら、優しげに微笑み、模擬戦の終了を宣言する。
ハリュは、既に自分の全身が水を吸った綿のように重くなっていることを見抜かれていると悟ると、悔しそうに歯をかみ締めた。全精力を込めて力戦したにも関わらず、絶世の美女にして絶世の剣士ローズメイは汗一つさえ浮かべていない。自分と彼女にある天と地ほどの実力差を悟り、嘆息を溢した。
「ま、まってくだせぇ!!」
「ん?」
と、そこでローズメイの剣の稽古(ただし一方的な)を見ていた家来衆が声を上げる。
「お、俺らにも稽古をつけてくれやせんかっ?!」
「ほぅ。……お前たちも少しは克己心に目覚めたか。良し。来やれ」
ローズメイもこの元悪党どももようやく地力をつける気になったのか、と少し楽しげに笑った。
……と、彼女は思ったが、実際は少し違う。この麗しき黄金の女に微笑まれる事は、木の棒でぼこぼこに叩きのめされ、骨身をきしませる激しい猛稽古を潜り抜けても、一度ぐらい向けられてみたいと思うほどに、麗しく艶やかだったのだ。
「わ、わたしもお願いしますっ!」
「む? シディア、お前もか」
この黄金の女の笑顔を向けられてみたい。それはまだ娘と言っていい年齢のシディアも例外ではなく、その辺の棒を、むん、と見よう見まねで構えてみせる。
ローズメイは少し困ったような顔になった。
彼女からすればシディアは生贄になったところを助け出した庇護対象。そんな彼女を猛稽古に付き合わせるのは気が引けたのだ。
「そうは言うが、お前はただの女子供であろう」
「ローズメイさまも女子供じゃないですかっ!」
「む?」
まぁ、それはそうだ。ローズメイは確かに、自分もただの剣を知らぬ女子供であった時期を思い出した。
最初はだれでも素人。確かに剣を習い始めようと思った時が吉日である。
「よし。わかった。それではシディア。少し打ち込んでくるがいい」
「はいっ!」
そして白子の少女シディアは黄金の女ローズメイさまによくやった、と微笑みかけられることを努力の報酬として剣を学び、体力を作りはじめ。
こののち。数週間後にうっすらとおへそに腹筋が浮かび始める自分の姿に。
強さと引き換えに、女の子としてそれなりに重要な何かを手放したような気持ちになった。
明日あさっては投稿がありません。
代わりに書き溜めてた別の話を投稿します。
それなりに世界観は繋がっていますが、別モノです。
力こそパワーな話ではありません。よろしくお願いします。
追記
すみません。一応書き溜めて準備していた物語はやはりこのまま寝かせてまたいつか投稿しなおそうと思います。申し訳ありませんでした。