プロローグ
「ローズメイ=ダークサント! お前との婚約を破棄する」
大勢の宮廷人が見守る中――このルフェンビア王国の王子、ギスカーの言葉に、ローズメイ=ダークサント公爵令嬢は……ふん、と鼻息を漏らした。
じろり、と兜の隙間からのぞく両眼が王子の横ではかなげに震えるシーラ=メディアス男爵令嬢をねめつける。
可愛らしい美貌、守りたくなるような小さな体が震えるさまは野栗鼠のように可憐で抱き締めたくなるだろう。
自分はまるで正反対だ。ローズメイは兜を放り捨てて忌々しそうにギスカー王子を見る。
王子はローズメイの言葉に気圧されたように後ずさった。
「な、なんだ。わたしの決定に文句があるのかっ!」
「こんな下らんことのために、おれを最前線から呼び寄せたのか」
それは国の王子に対して不敬の極みである発言であったが。それを咎める事ができるものはいない。
しかしギスカー王子が行った一方的な婚約破棄は、王族としては感心できない横紙破りであったが……宮廷の貴族たちはそれも致し方ないと同情する視線が強かった。
ローズメイ=ダークサントは王国最強の戦士であり、王国最悪の肥満体を持つ醜女であった。
顔を構成するパーツ一つ一つは整っているといっても良い。だが顎の周りにへばりついたような、ぶよぶよとたるんだ脂肪が付いた顔はみっともなく。180センチを越える長身と、過度の鍛錬によって形成された分厚い腕は男よりも男らしいいかめしさを備えている。胸元の肉付きは豊かだが、それ以上にでっぷりと突き出た腹回りはまるで樽のように膨らんでいて、実に見苦しい。
ただひとつだけ美しいと褒めてよいのは、その黄金色の長い髪であり、結い上げたそれは、金色の王冠のように豪奢な輝きを発している。
今しがたも鎧姿でパーティー会場に参列しており、貴族たちから眉をひそめる視線を浴びても平然とした様子であった。なぜなら――
「今は領土拡張政策を続けるサンダミオン帝国との睨み合いの真っ最中だぞ。
その最中に婚約破棄などという些事の為に、前線指揮官であるおれを首都に招聘するとはどういう了見だ!!」
ローズメイの激怒も至極当たり前の事である。
彼女は齢19歳でありながら、女でありながら、武門の名家ダークサント家の唯一残された生き残りとして堂々たる将軍の威風を発している。
それは、戦場を知らない若い王子が怯えて腰を抜かすのに十分の迫力であった。
ローズメイは王子を睨む。
「おおかたおれを大勢の貴族の前に引き出したところで、婚約破棄を持ち出して辱めたいだけであろう。
国王陛下のご勅命と思ったからこそ急いでくれば、つまらん嫌がらせか! 馬の準備をしておけ!」
「はっ!」
後ろに控える配下に振り向いて発せられるローズメイの雷声に、彼女の直属の騎士十名が頷く。
誰も彼も煌びやかな祝宴とは無縁の軍装を解いておらず、旅塵に塗れた体を湯につけたい欲求などおくびも出さぬまま下知に従う。
ローズメイは貴族界に置いては、大兵肥満の巨漢、もとい巨女として嘲り笑われ続けていたが……騎士団からは無類の忠誠心を勝ち得ていた。
公爵家の跡継ぎであり、そして将軍でもある彼女は、最も高貴な身の上でありながら最前線で敵軍と血戦する最強の騎士だ。彼女の背中を仰ぎ見ながら戦えば、我が死ぬ事はあっても我々が負けることはない――そういう信仰心にも似た崇拝を、20にも満たぬ娘が受けていた。
「き、貴様、婚約破棄を受け入れぬのか! お前のようなデブなど絶対に嫌だ!」
「……そんなこと。言われるまでもない。分かっている。あなたがおれを嫌っているなど分かっているとも」
ローズメイは、顔にほんの少し悲しみの色を見せた。
いつもいつも鏡越しに自分の肥満体を見て、自分の褥で声を殺して泣いていた。
彼女は戦略はわかっても戦術は分からない。そんな己が将軍として部下たちの信望を得るには絶対的な武威をもって将兵を猛らせる猛将となるより他ない。そして最前線で敵の騎士と激突し勝つには……この重量級の肉体がどうしても必要だったのだ。
その結果、愛する王子に嫌われるなどずっと昔から覚悟していたのに。なのに、王子の言葉にはいつも泣きそうになる。
そんな自分を偽り、ローズメイは吐き捨てる。
「だいいち……おれは数年前から国王陛下に、『ギスカー王子が婚約破棄を望んだならば受け入れてくださるように』との話をしている。陛下に確認してくださればこんな面倒な事にはならずに済んだのだ。……陛下は?」
「ち、父上は先日から体調を崩されて伏せておられる。ああ、命に別状はない」
「なるほど。国王陛下の目を盗んでのことか。まるで親に隠れて悪戯する子供だな」
「きっ……貴様! 無礼であろう! 衛兵! このものを捕らえよっ!」
その言葉に衛兵は困惑したように、ローズメイとギスカー王子へと視線を往復させ。
それとは打って変わってローズメイの配下は躊躇うことなく、腰に下げた剣の鞘に手を当てて、臨戦態勢の気迫を全身より漲らせている。安全な首都で貴族や民衆相手に警備を行う衛兵と、敵国との戦争で、生死の境目を潜り抜けた騎士とでは錬度に天と地ほどの差があった。
ローズメイは、ふん、と鼻で王子の言葉を笑う。
「おれは国王陛下より外敵を討ち果たすように命令を受けている。お前達衛兵も忠誠を尽くすのは国王陛下相手であって、王子ではないことを忘れたか? おれを邪魔立てする事は国王陛下のご命令に逆らうと見做すぞ、よいかっ!」
「あっ?! こ、こら、貴様ら、剣を収めるな!」
衛兵も、自分達の仕える主が、王子ではなく国王である事を思い出したのだろう。剣を収めて引き下がり、王子は思い通りにならない状況に歯噛みする。
ローズメイは踵を返し、そのまま待たせている配下と共に最前線へととんぼ返りするため、パーティーから返ろうとする。
「……ローズメイ将軍閣下。生憎ですが、間に合いません。あなたが王都に来た時点で、策は完成しております」
「……し、シーラ? なにを言っている」
ギスカー王子の困惑の声を無視し、王子の腕の中ではかなげに震えていたシーラ=メディアス男爵令嬢は前に進み出てスカートの裾を摘み、丁寧に会釈する。王子よりもよほど堂に入った礼儀にローズメイも居住まいを正し、頭を下げる。
彼女ははじめて……自分から王子を寝取った不遜な男爵令嬢を見た。
「ギスカー殿下は次期国王陛下ですが、同時にローズメイ様の轟くような雷名をいつもねたんでおいででした。
それが妬ましいのであれば、王子殿下も剣持ち鎧纏い、最前線に赴かればよろしいのに、と、殿下との褥の中でいつもいつも思っておりましたよ?」
「ば、ばかっ! シーラ!」
ギスカー王子は恋人の突然の告白に動揺の声を上げる。貴族、それも王太子ともあろうものが婚前に褥を共にする不貞を働いたのだ。大変な不名誉だ。
だが、ローズメイはむしろシーラの堂々とした振る舞いに好感さえ抱く。
「……シーラ=メディアス男爵令嬢。と、すると――おれを王都に呼ぶように王子をそそのかしたのはあなたの差し金か」
「ええ。その通りです。『ギスカー殿下、大勢の耳目が集う式典の最中に婚約破棄を宣言すれば王家はもはや後には引けなくなります。それにローズメイ様は武名名高い将軍。このままでは軍事力と王妃という強大な権力を持ち、王さえも抗えぬ絶対者を生むのですよ?』と囁くと――ええ。ええ。あっさりと王命を偽ってくださいました」
「その言葉があなたに死を送るとわかって……なおもさえずるか」
ローズメイは笑った。
喧嘩を売ってくる相手に対して獰猛に牙を剥く、そういう感じの笑い方だ。
「面白し。殺してやる」
「覚悟の上でございます」
「一応聞いてやろう。お前、サンダミオン帝国の工作員だな?」
「忠誠をささげた国の名前のみは、お許しくださいませ。それ以外はすべてローズメイ閣下のご想像通りかと」
ふむ……と、ローズメイは考え込み、一つの疑問を口にする。
「だが、なぜわざわざ口にした? おれが王都に来た時点でお前の策は完成した。
なら貝のように口をつぐんでいれば、工作員として処断されることはなく生還できたはずだ」
「これが、わたしが名を残す好機だからです。
ローズメイ将軍。あなたのように、満天下の人々の脳裏に人血を以って己が名を刻み付けることの出来る方は、ごく稀なのです。
そして今この時であれば、わたしは名もなき工作員から一国を謀り破滅へと導いた悪女として歴史に名を刻むことができるのです。
……これは、大変な誉れではないでしょうか!!」
「がははっ!! 寝取り女の分際で愛い奴め。命より名を残すことを望むか。気骨のある淫売、気に入った! 我が手で始末してくれよう!」
ローズメイは笑った。
そして、こういう気骨のある気に入った敵を殺さなければならない自分の立場に、少しだけ悲しみを覚えた。