7.少女の怒り
薄暗い階段を慎重に上がっていく。土の匂いと、むせ返るほどの緑が森に近づいていることを教えてくれる。
階段はそう長くなく、やがて暗所に慣れた視界を焼く眩しい光がキースを出迎える。
顔に手をやりながら外に出る。
既に日は落ちかけていて、空はオレンジを落とし込んだように夕焼け色になっている。
空の色の変化が、キースが気絶してから経過した時間を教えてくれる。
「うお、もうそんな時間なのか……こりゃ早く戻らねぇと夜になっちまうな」
夜は視界が効かない上に、魔物が凶暴化する。冒険者なら皆知っている常識だ。
太陽が隠れ、月が姿を現す時────大気に散らばる魔力は悪性を帯び、人に仇なす魔物は活力を得る。
キースはいつか聞いた絵本の話の一節を思い出した。まだ月は出ていないというのに、何故今そんな事を思い出したのか。
「ビリジオンは……あっちか」
武器もなければ防具もない。丸腰と言っても過言ではない状態ではあるが、キースは怯える様子もない。
飄々と街の場所を確認し、歩き出す。
『剣を失って戦えなくなるのは、二流の戦士だ。人には、拳もあれば牙だってある。戦えなくなるのは、意思を失った時だけだ』
昔憧れた英雄譚で、勇者の師匠が言った言葉だ。キースはそれをバカ正直に信じて特訓に励んだことが過去にある。
そのため剣を失った今でも、魔物に対しての攻撃手段は豊富に取り揃えてある。
17歳にして、それなりの武芸を身につけているキースは、多少ではあるが自分に自信がある。
少なくとも、半端に特訓をしたつもりはないし、同期の冒険者の中でも上位に位置づけられている。
サクサクと、落ち葉を踏みしめながら森を歩く。エルシィを庇って戦うのは難しいが、キースだけならば話は違ってくる。近場の森に出てくる魔物など、大した脅威でもないのだ。
明らかに格の違う気配だけに気をつけてキースはビリジオンへと向かうのだった。
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日没と同時にビリジオンは門を閉じる。
キースが戻ってきたのは、重厚な門が今まさに閉ざされようとしていく瞬間だった。
「おぉい!ちょっとまってくれー!」
叫ぶ。街の明かりが漏れ出る元には、衛兵が2人立っている。
門を閉めようとしていたようで、キースに気づくと、僅かな逡巡を見せた後に声が聞こえてくる。
「早くしろ!完全に夜になっちまうだろ!」
「すまない!ありがとう!」
叫んだ衛兵は、キースの顔見知りだったようで、街に入るのを待ってくれるようだ。
夜になって門を開けたままにしておくと、魔物が街に侵入してくる可能性がある。
キースはできるだけ急ぎ、街に駆け込んだ。
「悪いな、グリント」
「少しぐらいなら大丈夫だ。……あぁ、キース。少しそこで待っていてくれ」
「……え?あぁ、わかった」
キースが横を通り過ぎる時にかけられた言葉。その声音はやたらと硬く、いつものグリントらしさがなかった。
キースが不思議がっていると、背後に恐ろしい気配が一瞬にして形成された。
いつからそこにいたのかも分からない、あまりにも強大過ぎる気配に、キースは呼吸すら怪しくなる。
「か────っは」
向かないと。向きたくない。
振り返るのを躊躇う程に恐怖がキースを支配する。背中を向け続けることのリスクと、顔を合わせたくないという気持ち。
「……っ!」
だが、何よりも死にたくないという感情が先走った。拳を構えて勢いよく後ろを振り返る。
視線を向けたそこには、オーガさえ瞬殺できるのではないかという思いを抱かせる程に圧力を放つ、1人の少女が立っていた。
「エル、シィ?」
「キースさぁぁん!」
「ひっ!」
犬耳、尻尾。可愛さを際立たせるはずのそれは、今この瞬間では役立たず。
つり上がった目からは確かな怒りが、発せられる声からは苛立ちが伺えた。
私は怒っていますとアピールするかの如く、腰に手を当てている彼女は、ツカツカと歩み寄ってくる。
「私は、今、怒っています!」
言葉を区切る度に体を揺らし、小さな体を目一杯活用して表現するエルシィ。
その剣幕に、年上のはずのキースは気圧されてしまう。
「な、なんで……?」
そして、絞り出した言葉がさらにエルシィを熱くさせる。
「なんで……って! 心配したんですよ! 私に逃げろって言っておきながら全然帰ってきませんし、もしかして逃げ遅れたのかも……って」
「あー、えっと……それはだな……」
「ギルドの人に話を聞きました。オーガを引き連れて街まで逃げるなんてことは有り得ない、と! つまり、キースさんは私を逃がすために嘘をついたんです!」
顔を紅潮させて、目尻には涙さえ浮かべて言葉を連ねる彼女の姿に、流石のキースも罪悪感を覚える。
頭に手をやり、ガシガシと髪の毛を揺らす。
先日ゴブリンを狩れるようになった新人冒険者と、2年は冒険者を続けているキース。
どちらが生き残るべきか、なんて話はきっと求められていないはずだ。
「……悪かったな、エルシィ。せめてお前だけでも逃がしてやりたくて、さ……」
キッと睨んできているエルシィに、視線を合わせるために少ししゃがむ。
視線がぶつかるのを避けるためか、エルシィが顔を逸らす。
「もう、無茶とかしませんか?」
「……それは無理だな。冒険者ってのは、無茶するのが仕事みたいなもんだ」
「正直者は、問答無用で好かれる訳じゃないんですよ? 少なくとも、キースさんの答えは私好みじゃないです」
唇を尖らせるエルシィ。
まるで年端のいかない少女のような姿に、我が儘を感じた。
いつまでも怒っている彼女を見ていたいわけでもないので、キースは正解だと思われる言葉を口にする。
「……はぁ。わかった、もう無茶なんてしない。お前に心配かけないようにするよ」
これでいいんだろ?────なんて気持ちでエルシィを見れば、彼女は呆れたような顔をする。
腕を胸の前で交差させ、バツ印を作り、彼女はこちらを向いてニッコリと微笑んだ。
「嘘つきさんの言葉は信じません。……な、なので、信じれるまで、私がそばにいて監視してあげます」
「へ……はぁ!?」
あまりの突拍子の無さに、情けない声が出る。
ほんの少しだけ、震えているようにも見えるエルシィが、何故か愛らしく見える。
ただの新人冒険者、弓使いの犬耳少女。彼女を形容する言葉はそれなりに出てくるものの、今のいじらしい姿は、語彙の貧困なキースには、とても言い表せないぐらいに、胸を締め付けた。
「ダメ、ですか……? もっと、冒険者について教えてくださいよ。まだまだ新人、なんですし」
「いや、けど……」
そばで監視するというのは、つまり固定のパーティーメンバーになるということでもある。その話をして、どこか甘い雰囲気を和らげようとしたのだろうか。
キースは、ここで拒否するのも自分に嘘をついているようで、気が引けた。
────嘘つきさんの言葉は信じない、か。
信じてもらうには、嘘をついてはいけないだろう。どうせ嫌なわけではないのだから。
キースがあれこれと自分に理由を作って、仕方なく、どうしてもだと言い聞かせていると、ガチャンと急かすように門が閉まる音がした。
「まぁ、そうだな。正直者の俺はその提案を嬉しく思うよ。お前は、どこか危なっかしいからな。俺が監視してやらないと危険がたくさんだ」
「……そっ、そんなことないです! 私は冷静沈着でクールに生きています!」
「冷静沈着な奴はわざわざ訂正なんかしねぇんだよ」
門を閉めたのだから、もうすぐグリントがやって来るだろう。
キースはいつものようにエルシィをからかって、先程までの空気を霧散させる。
からかわれたエルシィは、再び怒ってますモードだ。ただ、今度はその瞳に少しだけの嬉しさと、淡い感情を揺らしていた。