6.時計と不穏な気配
ぐるぐる、ぐるぐる。視界が回る。
まるでメリーゴーランドのように。もしくは観覧車のように。
土の色、空の色、森の色。見てきた景色が順番に切り替わっていき、軽い酩酊感に襲われる。
胃の底から這い上がってくる不快な感覚を押しとどめて、キースは軽く頭を振る。
「ぅあ……」
時計を握ったままの姿勢で、キースは立っていた。オルティスが、変わることなく目の前に立っている。
何が起こったのか分からず、時計を見つめてキースは訝しげな表情を浮かべた。
「ん……? その顔、時計を使ったのね?」
「あ、ああ。お前が使えって言うから、使ったが……?」
「そう。ちなみに、今は貴方が時計を使った時間の60秒前よ。この意味がわかるかしら?」
言葉の意味なら十分に理解出来た。
ただ、率直に言ってからかわれていると思った。
妖しげな笑みを貼り付けた少女にとって、キースを騙す事がどれだけの価値になるかはわからないが、時間を巻き戻しただなんて世迷言────信じることは出来なかった。
「何言ってるんだ、お前は……。時間を巻き戻す? 60秒前だぁ? ガキでももっとマシな嘘をつくと思うぜ?」
「あら、本当のことなのに。信じてもらえなくて悲しいわ」
手を広げて肩を竦めて見せるオルティス。その顔は、真実を強弁して納得させてやろうなんて気概なく、むしろ信じてもらえないことに納得しているようにも見えた。
妙に軽薄な、悟りを開いているような態度のオルティスに、キースは段々と腹が立ってくる。
オーガに襲撃され、殺されたと思ったら意味のわからない女に遊ばれている。
いい加減に話を終わらせて外へ出たい気分だった。
「まぁいいわ。信じてもらえないのも、私の話を本気で聞かないのも分かりきっているもの。どうせそろそろ疲れてきた……なんて思っているのでしょう?」
まったくの図星。キースは気の利いた返事をすることもせず、ただ乱雑に頷いて見せた。
「……はぁ。疲れるわね。私の後ろ────つまり貴方の正面に歩き続けていれば、外に出る階段に辿り着けるわ。ビリジオンもすぐにわかるはずよ」
「俺は、帰れるんだな?」
「そう言っているじゃない。貴方は1度オーガに殺されかけた。そしてその時計で体の損壊を巻き戻した……。だから死んでなどいないし、魔物に変貌してしまうなんてこともないわ」
キースにとって、巻き戻したというのがイマイチ理解できないのだが、どうせ嘘ならば考えるだけ無駄だと思考を切り捨てる。
「……そうか。俺の体を治してくれたのはオルティス、お前なんだよな?」
「死にかけの貴方をここに運び、時計を使ったのは私ね」
「────ありがとう。お前のおかげで助かった」
死の淵にいたキースを助けてくれたのはオルティスで、手を差し伸べてくれなかったら既に息絶えていた。
それならば、礼を言うのは当たり前だろう。
別に変なことを言った訳では無い。それなのに、オルティスの顔が平然としていないのは何故なのか。
「……どう、いたしまして」
キースには分からなかった。
オルティスが苦しそうに胸に手をやっている理由も、顔を背けて目を伏せている訳も。
ただ、いくら妖しいとはいえ、自分を助けてくれた女の子の悲しそうな顔は見たくなかった。
「……え? な、なによ。やめなさいってば」
気づけば、キースはその柔らかい絹のような髪を撫でていた。
指の間をすり抜けていく儚い感触に、仄かに香る女性特有の甘い匂い。バッと顔を上げたオルティスの、その柔らかそうな頬に朱が差している。
「恥ずかしがってんのか?」
「当たり前でしょ。私は子どもじゃないんだから────」
その言葉がオルティスの声とは違う、やたらと懐いてきた犬耳の少女の声に重なる。
エルシィも、頭を撫でるのはやめてくれと────子どもじゃないと怒っていた。
「はは、すまんすまん。……悲しい顔より、そっちの方がまだいい顔してるぜ。ま、1番は笑顔って相場が決まってるけどな」
「残念ね、貴方に見せる笑顔なんてないわ。拝みたかったらいつか私に、幸せを教えてくださいませんこと?」
「そいつぁ……難題だな、お嬢様?」
「もう、それじゃあ子どもじゃない……」
軽口を叩き、お互いにクスリと笑う。
先程までの暗い顔が、今では穏やかなものになっている。それだけで、おどけてみせた甲斐が有るというものだ。
もう、警戒心などは消えてなくなっていた。
「それじゃ、俺はもう行くわ。……てか、オーガは? 今も残ってるとしたら、大分やべぇ事になる……」
「気にすることはないわ。オーガなら私が殺しておいたわ。だから安心して帰るといいわ」
────そうオルティスは言った。ひらひらと振られる細い指が、薄く笑う唇が、何故か心を引っ張る。
だが、それも一瞬のこと。キースはそれなら仕方ない、と外へ繋がる階段を目指して歩き出した。
「あぁ、言い忘れていたことが1つ。その時計、使用できるのは1日に1度だけ。日付が変わる毎に回数はリセットよ」
「……ありがとよ。それじゃあまたいつかな」
「ええ、また……会えれば」
落とした剣の代わりに、手に収まっているのは貰った時計。どうやら使用制限があるようだが、未だ時計に関しては半信半疑のキースは、頭の片隅にそれを追いやり出口へと急いだ。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
一方エルシィは満身創痍になりながらも、キースの指示でビリジオンへと1人でひた走っていた。
後ろからはキースがついてきていると信じて、逃げ帰って助けを呼ぶことが正解だと疑わずに。
森を抜ける際に魔物に引っ掻かれた傷が痛む。酷使した足が悲鳴をあげる。
空気を欲する肺が激しい衝動を脳へと運ぶ。
「ゴアアアアアア!!」
背後から、オーガの咆哮が聞こえる。
身を竦ませる程の強烈なハウリングだが、今のエルシィには関係なかった。
自分たちの手に負えない魔物の脅威を伝え、キースと共にビリジオンで苦労を笑い話に変えなければならない。
「はっ、はぁっ……!」
走る。走る。走る。
例え足が棒切れのようになっても、決して走ることを止めてはいけない。
ある種の義務感に駆られ、エルシィはその小さな体に鞭打ち走り抜けた。
「あと、ちょ……っと……!」
どれだけ走ったのだろうか。
10分、30分、それとも1時間か。時間の感覚なんてものはとうに吹き飛んでいた。唯一頼りになるのは、まだ傾き始めたぐらいの太陽だろうか。
そしてようやく、エルシィはビリジオンに辿り着いた。
街を囲う壁にある、大きな門。幸いなことに順番待ちをしている者はおらず、エルシィはすぐに門の金髪の衛兵へと縋りつく。
「え、えいへっ!……衛兵さっ、ん……」
「うぉ! な、なんだどうした!? 君は確か今日仕事で森に出かけていた……」
金髪の衛兵は、突然猛スピードで駆け寄ってきたエルシィに困惑していた。
息は絶え絶えで、格好も酷いものだ。弓や短剣といった武装はしているものの、腕や足にたくさんの傷がついていた。
足が震えているエルシィを、衛兵は優しく支えてやる。
とにかく、話を聞くにしてもまずはエルシィの回復を待つ必要がある。
そう考えた衛兵は隣にいたもう1人の若い衛兵に声をかける。
「おい、リッツ! 水を持ってきてくれ!」
「わ、わかった!」
リッツと呼ばれた衛兵が門の奥へと駆け込んでいく。衛兵用の休憩スペースのような所に、水も置いてあるのだろう。
彼が戻ってくるまでに、金髪の衛兵はある程度の情報を集めることにする。
「おい、君! 大丈夫か? 俺はグリントっていう。君の名前は……? 喋れそうか?」
「わ、たし……エルシィ。森に、オー……ガ。キースさ、んが……逃げて、伝え……ろって」
「オーガ!? それにキースの野郎がって……」
途切れ途切れの声で必死に何かを伝えようとするエルシィ。グリントは断片的に聞こえてくる情報から、森にオーガが出現したこと、エルシィはそれを街に伝えるために走ってきたということを掴んだ。
グリントにとって、キースは知らない仲ではない。この2年間ほぼ毎日顔を合わせているし、仕事に向かう彼に声を掛けたことなど星の数ほどある。
そんな彼が、無謀にも逃げ出すなんてことは考えられなかった。グリントには、キースがエルシィを逃がすために上手く丸め込み、伝令として走らせたとしか考えられなかった。
「よし分かった。エルシィ、情報提供に感謝するよ。恐らくキースの野郎も直に戻ってくるだろう。それまでゆっくり休むといい……。後は俺たちに任せてくれ」
「あり、がとう……ござ……」
不安を与えないよう、小さな嘘をつく。
グリントの言葉にすっかり緊張が解けてしまったのか、強ばっていたエルシィの体が一気に力が抜ける。
支えていた腕からずり落ちそうになり、グリントは慌ててエルシィを抱え直す。
「おっとと……寝ちまったか」
「グリント! 水持ってきたぞ……って、要らなかったみたいだな」
「ああ、すまないリッツ。俺は冒険者ギルドに用事ができた。衛兵の詰所でこの娘のことを休ませてやってくれ。キースが来たら案内するのを忘れずにな」
「……ああ、わかったよ。任せろ」
グリントからエルシィを抱き渡されたリッツは、何かまずい事があったと悟り、不平不満を漏らすことなく頼みに応じる。
察しのいい同僚に感謝しながら、グリントは走り出す。
森にオーガが出たなど、どう考えてもおかしい。キースがよく狩りをする森には、ゴブリン等の低級の魔物しか出ないはずなのだ。
「嫌な予感がするぜ……」
衛兵を務めて10年、グリントはこれまでの人生の中で一番の不気味さを味わっていた。
亀裂が走ったような、崩壊の兆しがすぐそこに迫っているような感覚。
「ただの異常発生個体だといいんだがなぁ」
嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、グリントは冒険者ギルド目指してビリジオンの街中を駆け抜けるのだった。