箱の中の黒猫
少々残酷な描写があります。苦手な方はお気をつけください。
その黒猫は、煩かった。
別に好きで飼っていた猫じゃない。物心ついた時からうちに居た猫が子供を産み、それが育ってそのまま俺の近くに居ついていただけのこと。
だから何の感傷もない。
そう――暇つぶしに殴っても八つ当たりで蹴っても気が向いて踏み潰しても、なんとなくペンを刺しても元から少ない指を更に減らしたり足を減らしたりしても、ただ“猫の悲鳴は煩い”という感想しか浮かばなかった。
ああ、それともう一つ。
口やかましい母親を思い出して、ものすごく嫌な気分になるのだ。ああ本当に嫌な気分。
なんだかムカついて、ぽきぽきとソレを絞り上げる。するとソレは口から妙な音を撒き散らす。
「うるせぇな。命乞いでもしてんのか?」
さんざん遊んで、もう飽きた。それに悲しいかな、俺がこの猫に向ける感情に良いものは一つもない。こんな目障りな玩具は早く捨ててしまえばよかったのだ。
「まだ生きてるのか、哀れなもんだな……おお、まだ鳴きやがる」
だから――
「バーカ。猫の言葉なんざわからねぇよ」
散々痛めつけたあと、
「俺は、人間だ」
あっさりと首をへし折って、俺はその猫を殺した。
なんて簡単、なんてお手軽、なんてスッキリしたんだろう。これで俺の視界に余分なモノは入らない。今後の生活はさぞや綺麗なものになるだろう。
俺は清々しい気分で家から外へ出た。日差しが目をちりちりと焦がす。長らく外へ出てないせいだ。こんなときくらいしか――ゴミを出すときくらいしか、俺が外へ出ることはないのだ。
しかし幸いなことにゴミ捨て場は近い。家の裏にある暗い通り、つまりは人通りの少ない場所にある。人間嫌いの俺にとっては誰かとすれ違うだけでも苦痛なのだ。この陰気な場所がどれだけ俺に貢献しているかを思うと表彰してやりたい気分だ。そうだそうだ、表彰してやろう。
汝、ゴミ捨て場である貴方は常に陰気で人を遠ざけ、このダメ人間を助けていただきましたのでこれを表します。
モノを突っ込んだゴミ袋を、無造作にそこへ放り投げる。
受け取ってくれたかな?
「くく」
自分の妙な思考に笑いがこみ上げる。
「……ん?」
耳障りな鴉の声に、傍の電柱を見上げる。小汚い鴉が数羽、俺を見下ろしていた。いや――見下ろしているのは俺の投げたゴミ、もとい表彰状か。
「次はオマエが、こうなりたいか?」
応える鴉。何を言ってるのかわからない。それはあちらも同じだろう。いいぜ、喰えよ。そうすりゃコレも少しは生きてた価値があるだろうよ。
俺は鴉に笑いかけ、その場を後にした。
二分もかからず家の前。
そして思いもよらない奴の前に出た。
「お兄ちゃん」
「なんだ、おまえか」
俺の妹。可愛くも無い、不細工でも無い、さして特徴の無い野暮ったい女。また目障りなのが出てきた。しかしこいつは先ほどの猫のようにヤるわけにはいかない。面倒だからな。
「猫、殺したね?」
「ああ」
何か文句があるのだろうか? この妹があの黒猫と仲良くしている場面など、特に見たことはないのだが。
「お兄ちゃん、知ってる?」
「何を」
「黒猫には魔力があるの」
はっ、バカバカしい。確かに不吉の象徴とはされているかもしれないが、この世にどれだけの黒猫がいるというのか。そいつらが本当に不吉だの魔力を持っているというのなら、とっくにこの世は堕ちている。
しかし妹は――俺のそんな考えを見透かしたように笑った。
「黒猫はね、かえってくるの」
なんて嫌らしい笑い方。目も口も三日月だ。吐き気がする。
「……どこに」
「お兄ちゃんの元に、かえってくるんだよ」
あれだけ完璧に殺した猫が? そんなわけあるか。ゾンビじゃあるまいし。
「はっ、面白い。もし戻ってきたら捕まえて、テレビにでも流してやるよ」
「ふふ、そうだね。それがいいかもね」
一転して明るい笑顔になる妹……なんだ、この変身は。まったくもって意味不明、不吉な香りが匂ってしまう。
「さ、家に入ろう。アカリお兄ちゃん」
だが、そんな匂いを吹き飛ばす明るい声に――何かが噛み合わなくなっているのを感じながらも、言う通りにするしかできなかった。
「お兄ちゃん、ご飯は?」
「いらない。部屋に戻る、入ってくるなよ」
素っ気無く言って二階へ上がる。足音がついてこないのを確認して、俺は自分の部屋へと戻った。
見慣れた光景が目に映る。乱雑に詰まれた雑誌や漫画で家具が埋まり、空いたスペースはパソコン前のチェアーとベッドの一角のみ。あとは見るも無残、食べカスやら飲みカスやら意味不明なゴミばかり。一人暮らしをしているだらしない男の典型的な部屋といった感じだ。もっとも、この家に住んでいるのは俺だけじゃないがな。
床にある邪魔なゴミを足で押しのけ、俺は一日の大半を共にするチェアーに腰を下ろす。
パソコンの電源を入れて――ふと部屋を見渡した。
相も変わらず汚い部屋。先ほどのゴミ捨て場のほうがまだマシだろう。さすがは表彰されるだけはある。
しかし、おかしい。ここまで余分なモノが溢れているにも関わらず、何かが足りない。いや、何かを忘れている、のか?
パソコンが立ち上がる電子音が聞こえるまで部屋を凝視していたが、俺が何を忘れているのかは思い出せなかった。
ため息をつき、画面を見る。ユーザー名、パスワードね。指が自然に入力する。
『kaito』
カイト……?
なんだっけ、これ。
ああ。
猫の名前、か。
おかしいな。俺はあの猫をなんとも思っていなかったはずなのに。なんで猫の名前をパスワードなんかにしているのだろう。
本当は、そんなに嫌いでもなかった?
愛着を、持っていたと?
バカな。それならあんな殺し方はすまい。憎くて殺したのならまだしも、動機はただ“煩かったから”というだけだ。その程度の存在をそこまで気にかけるはずがない。きっとたまたまそこに居たから名前をもらっただけのことだろう。
さて、いつもの様に目的もなく、ネットの世界を漂うとしようか。
「アカリお兄ちゃん」
上がりかけた悲鳴を喉元で止める。驚いた、いつの間に俺の背後に立っていやがったんだ、この妹は。まるで猫だ。
「何の用だよ」
「んー、ちょっと暇だったからさ。ね、何してるの」
俺の両肩に手を置いて、そのまま肩越しにパソコンの画面を覗き込んでくる妹。唐突に触れた体温に内心で狼狽するが、それを表に出さないように必死で押しとどめる。
「何って……こうやってネットしてるだけだよ」
適当に操作してやる。妹はそれの何が珍しいのか、神妙な顔をして画面を覗き込んでいる。
だんだんと肩にかかる体重が増えていく。
だんだんと肩に置かれた手が狭まっていく。
その手はやがて、首あたりで止まり。
そのまま、俺の首を絞め上げ――
「あは。こんなことばっかりしてるから肩が凝ってるんだね、お兄ちゃん」
絞め上げることなど、決して無かった。
妹は何が楽しいのか、鼻唄を歌いながら俺の肩を揉んでくれる。それは意外と気持ちのいいもので、さらには妹の心遣いが不意打ちで嬉しくて……なぜ首を絞められる姿などを夢想したのか理解できない。まるで、俺にはそうされる理由があるみたいじゃないか。
何も、ないだろう。
妹に殺される理由なんて、何も。
「よし、これで終わり! ほら、そろそろご飯を食べようよ。せっかくお母さんが作ってくれたんだよ? 食べないなんて言わないで、ほら」
「あ……ああ」
肩と一緒に心もほぐれたのか。
先ほどまでは全く食事する気分じゃなかったのに、現金な俺の胃袋は盛大に音を立てて空腹を訴えていた。その音を聞いて妹が笑い、俺は不貞腐れた表情を作る。そうしたら妹がまた笑って、その繰り返し。
くすぐったい、気持ち悪い。でも――胸からこみ上げてくる強い二つの感情。その熱さを感じながら、俺は妹と一緒に部屋から出た。
階段を下りて間もなく、食欲をそそる香ばしい匂いが鼻をくすぐった。キッチンにはきっと「食べて食べて」と自己主張する料理がいくつも待機しているに違いない。
居間へ入ってテーブルにつく。妹と雑談している間にお母さんが並べたそれらは、予想を裏切らない美味しそうな料理ばかりだった。漬物、サラダ、煮物、メインの揚げ物にご飯と味噌汁。
それが、一瞬。
ありえないモノに視えて、眩暈がした。
「あらあら? どうしたの、アカリ君」
「あ……母さん。なんでも、ない」
なんでもないはずだ。ああ、自分は正気。さっきまで食事の天敵――シタイ――を目にしていたから、きっとそれがフラッシュバックしただけ。
「ふふ、そんなに穴が空くほど見つめなくても、料理に毒なんか入ってないわよ」
「変なお兄ちゃん。そんな顔してるとお料理に失礼だよ。そんな無礼者に食べさせるご飯はありません! というわけで、から揚げ一つちょーだい?」
「あ、ばかっ、ふざけるな。誰がメインをやるもんか!」
「むー、さっき肩揉みしてあげたでしょ!」
「くそぅ、それを言われると辛い」
「アカリ君ったらいいなー、肩揉みなんかしてもらえて」
「よし、から揚げゲットォ。ふふん、仕方ないなぁ。じゃあお母さんのも揉んであげるよ」
「わ、本当!?」
「何くれる?」
「がーん! 我が娘ながらなんてしっかりした子……から揚げどうぞ」
「わーい、お肉お肉ぅ」
「太るぞ」
「私の歳なら胸から太るからいいのよぅ」
賑やかに会話しながら食事は進んでいく。さっき視えたのはやはり幻想だ。こんなに美味しいものが、あんなモノのはずがない。
食事を終えて、また部屋に戻ってきた。
あれだけ晴れやかな食事をしたというのに、部屋の中はいまだ腐臭を放っている。なんだかここだけが別世界みたいだ。
点けっぱなしにしていたパソコンを適当に動かしながら、俺は先ほどの食事を思い返していた。
「……くそ」
楽しかった。ああ、楽しかった。
あんなに楽しい時間は久しぶりだった。湧き上がってきた二つの感情の内の一つがそれだ。これほどまでに温かい感情、しばらく触れていなかった。
「……くそ」
今ごろお母さんは妹に肩でも揉まれていることだろう。二人のじゃれ合う光景を思い浮かべると笑みがこぼれる。
「……くそ」
そんなにウキウキしているのに。
その一方で、なぜ俺はこんなにイライラしているのだろう。
「……くそ、なんだよ、これ」
パソコンがうまくできない。キーボードを思うように打てない。
浮かれているから?
ああ、きっとそうだ。
さっきからずっと感じている違和感も、きっとそのせいに違いない。
違和感と言っても些細なものだ。とるに足らない不審点。くそ、また打ち間違い。ああ、問題ない、まったく問題ない。俺は楽しい、それでいいじゃないか。こんな感情久しぶり、だからそう、妹の名前を忘れたこととか母親なんかこの家にいたっけとかそんなことは気にする必要なんてない。ああそれにしても指がうまく動かないうまく動かない動け動けなぜ動かないなぜそのキーを打てない!?
「くそがっ!!」
楽しい気分が一転、最悪気分。石油でも一気飲みしたかのような不快感。もう我慢ならない。この原因である不出来な指に、仕置きでもしてやろうかと手を振り上げて――
「は?」
右手の指が一本、足りないことに気づく。
なんだ、これ。どこかに忘れてきた? バカな。
ああ、でも、忘れてることなら沢山ある。これもきっとその内の一つなんだ。そう気づいたら、なんだか大したことじゃないように思えた。
「忘れてる……こと……」
わからない。何がわからないのか、わからない。
ざくざく。
わからない、だから掘り起こせ。
ざくざく。
混濁した記憶を混ぜなおせ、脳に棒でも突っ込んで掻き混ぜろ。
ざくざくざく。
そうでもしないと考えることなんてできやしない。
ざくざくざくざく。
だって、もうとっくにわかってるんだから。わかってて否定したいだけなんだから。
ざくざくざくざくざくざく!
俺はとっくに、何がおかしいのか全部わかってるんだから!
ざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざく!!
「……痛い」
その痛みで、思考がクリアに。
疑問のいくつかがハッキリする。ざくざく。
まず、俺はここに独りで住んでいたはずだ。成人しても働かない俺に呆れて両親は出ていった。妹なんか始めからいない。そんな同居人がいたならば、ここまでひどい部屋になりはしないはず。ざくざく。こんなネットで注文した食事のカラに埋もれたりはしないはず。ざくざく。
ならば、あの二人は一体ナニモノなのか? ざくざく。
それに俺の指はどこに消えたのか。指が一本足りないなんて、どこぞの猫みたいじゃないか。ざくざく。そういえば脚もかゆいような。見ないけど。ざくざく。
いや、そもそも、そういえば。ざくざく。
俺の名前は、アカリっていう名前だったっけ――ざくざく。
「……ざくざくと煩いな、何の音だ」
思考をかき乱す音、まるであの黒猫みたいな雑音に顔をしかめて、俺はようやくソレを見た。
ざくざく、と掘り返すボールペン。
掘っていたのは、俺の記憶ではなかったのか。
いいや、違った。
左手が勝手に掘っていたのは――俺の右手。
「ぇ、あ、ああ、ああぅあああああああああああああっ!?」
ざくざく。手は止まらない。ざくざく。痛い痛い。ざくざく。その真っ赤な手を目にした途端にざくざくざく痛みが今まで気づかなかった分を取り戻すかのようにざくざくざくざく! あぁ痛い痛い痛い肉が骨が血管が壊れる壊れる痛い壊れる手が壊れる俺が壊れる――
「ぁ……がっ……や、め……い……ぁあぁぁぁ……!!」
痛覚が踊り狂う。猛々しすぎる舞は微塵も容赦なく続き、俺の精神全てを破壊しようと――
「あらら、騒がしいと思ってきてみれば。真っ赤だね、お兄ちゃん」
涙で滲む視界に名前も知らない妹が現れる。
「ら……ら、しゅ……け……れ……!」
意識はとっくに崩壊ぎみで、呂律がろくに回らない、それでも俺は助けを求めた。この地獄を止めてくれるなら相手は誰でもいい!
そんな、おそらく全国でもトップクラスの哀れな顔を曝しているであろう俺の助けを求める声を、妹を騙るその女はにっこりと笑い捨てた。
「あら、どうして? こんなのいつものことでしょ」
「ぃ……ぁ……ぃ……な……に、を……?」
「何って。いつもあなたがアカリお兄ちゃんにしてたことじゃない」
アカ、リ?
そうだ、勘違いしていた。“アカリ”が猫の名前で、俺の本名は“カイト”だったんだ。パソコンのユーザー名に猫の名前なんか使うはずがない。そっちが本名だったんだ。なのに俺は、どうして今の今まで気づけなかった!?
「簡単なことよ」
声も出せない俺の表情を読み取ったのか、それとも直球に心を読んだのか。妹を名乗る女は俺が一番欲しかった答えを、そして一番受け入れたくない言葉を口にした。
「あなたが殺した黒猫の一生が、あなたにかえってきただけのこと。つまりあなたはあなたであり、アカリお兄ちゃんでもあるの――これは呪いなのよ」
呪い。はは、それはなんともわかりやすい。そうだよなぁ、黒猫には魔力があるってどこかの誰かが言ってたしなぁ!
いまだに続くざくざく行為にも慣れてきたのか、だんだん痛みを感じなくなってきた。痛覚もそろそろ諦めたのだろう、これ以上どれだけ訴えても右手の破壊を止めることはできないのだと。
だから、なんとか声を、絞り出せた。
「……おまえ……らは……なん、なんだ……?」
「それも極めて簡単なお話。あなたに家族は居なくても、アカリお兄ちゃんには居たというだけのことよ」
あぁ……なるほど。猫のアカリには妹がいて、母親が傍にいて、その事実まで俺にかえってきてるのか。はは、なんだこれは。悪い夢か。冗談か。どっちでもいいよ、どっちかにしてくれよ。じゃないと俺の手、もう、使い物にならないよ……さっきからペンが掘ってるのって机だろ、もう貫通してるじゃないか……
泣きそうな顔で妹を見る。いや、泣きそうなんて今さらだろう、俺の顔はとっくに涙と鼻水と嫌な汗、それに飛び散った赤いペンキでぐちゃぐちゃだ。これで表情まで悲壮とくれば、いくらワケのワカラナイ奴でも多少は慈悲を恵んでくれるだろう。
そんなことを、考えていた。
とっくに焼き切れた頭で、そんな有り得ないことを。
女が笑う。
いいや、哂う。三日月の口で楽しく哂う。
「さて、問題です。あなたがこうやってアカリお兄ちゃんを苛めるようになってしばらくして、あなたは誰に何をしたでしょう」
フラッシュバック。
その映像が浮かんだ瞬間、俺の身体はペンを投げ捨てて駆け出していた。俺の意思じゃない。身体が勝手に動く。やめろ、階段を下りるな、台所なんて行く必要はない、その先に進むな――!!
「あら、どうしたの。アカリ」
優しい笑顔。
さっきまで一緒に笑っていた、その人の顔を。
俺の手は勝手にわし掴みにして、そのまま全力で壁に叩きつけた。
「ぎぃ……あ……っ!!」
人っぽくない音を立てたお母さんを再び掴んだ俺の手は、狂ったかのようにソレで壁をノックし続ける。
「や、め」
ノック、ノック、激しくノック。向こうに誰もいないのに。
「やめ、ろ……ぐぞ、やめろ! 止まれ! 止まれぇ!!」
「ぃ……痛い……痛いよぉ……」
その声、その顔、その仕草! どこをどう見ても俺の母親だった!
「ねぇ……カイ……ト……」
その人はお母さんじゃないはずなのに、俺の名前を呼んで、悲しそうに俺を見つめてくる、そう、いつかこの家を出ていったときのように――!
「ねぇ……お母さん、おまえに何かした……? 怒らせるようなこと、したの……?」
ち、違う、違う違う違う! お母さんは何も悪くない! 俺が悪いんだ、俺がいつまでもガキのまんまで意地張って、今までお母さんにもらったものを全く返そうとしないで!
「私……あなたの……お母さんに……なれなかったの、かな」
違う、絶対に違う! そりゃここにいるのが本当のお母さんじゃないのはわかってるさ! でもさ、ご飯作ってくれて嬉しかったんだよ。一瞬だけ全部ねずみに見えちまったけどさ、美味しかったんだよ、楽しかったんだよ、幸せだと思ったんだよ、なぁ止めてくれよ血が出てるよ苦しそうだよ頼むよなぁなぁ俺はこの人のことを本当のお母さんだと思って――
「あ、死んじゃったね」
軽い声、とても、軽い声。
それを境に、お母さんは、死んじゃった。
もう、動かない。もう、がらくた。いつか捨てたケモノの抜け殻と同じになった。
「あらあら、呆然としちゃって。どうしたの?」
まるで母親のような甘い声。
「……お母さんが……死んじゃったんだ……」
「そう。でもどうしてそれを悲しむの?」
怖気がする。吐き気がする。しすぎて身体がワカラナイ。
「……だって……さっきまで、いっしょに、わらってたのに……それを」
「そう。そんなアカリお兄ちゃんのお母さんを、あなたは殺したの」
その事実に、泣きそうになる。
「笑いながら、頭を掴んでノック、ノック! あのときと何も変わらない」
自分の罪に、狂いそうになる。
「笑えば? いいのよ、どうせここには誰もいないんだから」
笑えない。
「……は……は……」
だけど笑った。だってもう、俺はとっくに狂ってたんだから。
「おか、しいよ……なにこれ? 夢だよ、夢だよな? あは、だってさ、こんなこと、あるわけないだろ。変だろ、なんだよ黒猫の一生がかえってくるって、いないはずの人がいて? それを俺が殺す? 意味わかんねぇよ、常識で考えろよ、ふざけるなよ……!」
痛みと混乱でオカシクなりながらも精一杯に搾り出した、そんな俺の泣き言に、
「お兄ちゃんさ、シュレディンガーの猫って知ってる?」
妹の偽者は、そんな唐突な話題で答えた。
「知らないかな? 箱の中に猫を入れて、毒ガスを流すの。それで箱の中の猫は死ぬはずだけど、箱を開けてみない限りは生きてるか死んでるかわからないって話」
「なん……だよ、それ……毒を流したんなら……猫は死ぬだろ」
「ううん。だって箱の中は見えないもの。箱を開けて誰かが確認するまでは、猫が死んだとは証明できない」
「……なる、ほど……で、何が言いたいんだ、おまえ」
「わかんないかな。猫にとっては迷惑で愉快なこのお話にはね、今の私たちとの共通点があるんだよ」
「……どん、な?」
「箱の中は誰も見えない。何が起きてるかわからない。だから何が起きてもおかしくない――わかる? この家がとっくにその“箱”になってるということ」
あ、れ……ここ、俺の部屋? いつの間に移動してたんだ、俺。
「自分以外の誰か、つまり外との接点が全く無くなれば、それはもう箱の中と同じ。もう誰もあなたを見てないし、誰も気にしない。だから私たちがなんでもできる! わかる? お兄ちゃん。ねえねえわかる? わかるか小僧。おまえが猫を殺した時点で、この家はすでに何が起ころうとも不思議ではない“箱”と化したのだ。常識? そんなモノはとうの昔に消え失せた。愚かだなぁ、愚か愚か。唯一の外との接点を手にかけ、自ら異界へ踏み込むとはな!」
ああ、そうだ。わかった。俺の部屋の、違和、感。
「アカリの……血の痕が……ない……」
「うん。だって、それはこれから付くんだもん」
ははは、なるほどな。納得いった。
「……ぁ……ぁ……!!」
脚を持つ。痛覚がイカれた俺にとっては、それはもう簡単な作業でしかない。ぽき、ぽき、と昔作ったプラモデルをいじるかのように折って遊ぶ。
「あれ? どうしたのお兄ちゃん。笑えばいいのにほらほら。笑わないなら私が代わりに笑おうか? アハハハハなにその足、そんなに折りたたんでどこに片付けるの? なんならその口にでも入れてやろうか!? ひきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃ!!」
楽しそうな笑い声、つられて俺も笑いたくなる。でも口から出るのは苦悶の声。もういい加減、出し尽くしただろうに、飽きもせず、何度も、何度も、どれだけでも――
「うるせぇな。命乞いでもしてんのか?」
本当に。往生際が悪いにも程がある。もうどうしたって助からないだろうに……喉だけは際限なく痛みを訴えていた。ご苦労なことだ。
「まだ生きてるのか、哀れなもんだな……おお、まだ鳴きやがる」
そう、言ったのは、果たして、誰だったっけ……?
痛いだろう。苦しいだろう。身体はそう言ってる。でも俺の心はとっくの昔に臨界なんて超えていて、全て他人事にしか思えない。近くにいる誰かの言うとおり、その音が煩いとまで思ってしまう。
「バーカ。人間の言葉なんざわからねぇよ」
その言葉と共に、
「俺は、**だ」
あの黒猫は完全に俺へとかえってきた。
ちらりと見えた黒猫の記憶は俺と同じ、ろくでもない一生。でも、確かに温かいものがあったはずの人生だった。あの温もりをもっと大事にしていれば、こんなことにはならなかった?
後悔するにしても遅すぎる。俺の身体は捨てられ、鴉に喰われて終わるだろう。そうなればきっと変死体として誰かが見つけ、テレビにでも紹介されるか――はは、そういえば妹が言ってたな、そんなことを。
あれ、もう、何も見えない。
救いは、どこに?
明かりは、どこに?
あぁ。そうか。
アカリを殺したのは、俺だったっけ――
「くく」
誰かが笑う。それは何を?
哀れな俺の人生? 哀れな黒猫の一生?
「……ん?」
そのどっちかは、わからないけれど。
「次はオマエが、こうなりたいか?」
箱の中の黒猫は、次の獲物を見つけたようだった。
読了、ありがとうございました。ホラーは初めて書きましたので、拙い部分が多かったと思いますがご勘弁ください。
自分の中ではそこそこおもしろく書けたのですが、ホラー要素よりもファンタジー要素のほうが強くなってしまってあまり怖くできなかった気がします……もう一つくらい書いてみようと思いますので、もしお暇でしたらそちらも読んでいただければ嬉しいです。今度はもっと怖くなるように頑張ります。