第四十四話 瓦解する日常《後編》
五十話までには終わりそうな予感がします。……たぶん。
「…………っ」
嫌な胸騒ぎを感じて目が覚めた。
薄暗い部屋に差し込む橙色の灯りが、炎によるものだと気づくのに時間は掛からなかった。
普段ではありえない異常事態なのに、動揺もせず思考は冷えている。仕事柄、イレギュラーの対応に追われるのは慣れていた。
机に置いていた眼帯と本業の仕事道具を身に着けて、上に裏返したカラミティの外套を羽織る。
フードを被り、出入り口から外に出て真っ先に気づいたのは、周囲に漂う独特な匂い。
魔法によって発生する火の煙とは別の、肺の底に溜まるような重い匂いだ。
ガレキ市場に向かう傍ら、崩れた建物の高所から周囲を観察する。
見渡せる限りで分かるのは、炎の範囲は《ディスカード》全域に広がっていて、壁から中央の湖につれて勢いが弱くなっていること。
水場がある影響で水属性の魔素が溜まっている為、自然と炎の波を押しとどめているのだろう。
「しかし、燃料……《ディスカード》にそんな物は無かったはず……だとすれば、どこかの企業が持ち込んできた?」
火の手が回り始めた建物から飛び降り、再び走り出そうとして──足下に放たれた一発の銃弾に止められる。
撃たれた方角を見れば、かなりの武装をした男が三人。警戒を緩めずこちらに走り寄ってきた。
武装の統一感から見ても、企業の支援を受けた組織の人間だということが分かる。……ちょうどいい、手間が省けた。
「おい、お前ここで何を」
銃口を向けたまま問い詰めてきた男の懐に潜り込み、腰に下げていた大振りのナイフを振り抜く。
喉の表面からじわりと血が滲み、少し遅れて鮮血が溢れ出た。
怯んだその隙に右横にいた小柄な男の魔導銃を奪い取り、火の中へ蹴り飛ばして発砲。
両腕と両脚を撃ち抜き、炎に巻かれながら断末魔の叫びを上げる男を見捨てて、残りの銃弾を正面とまだ無傷の男へ。
至近距離での銃撃には防弾アーマーも意味を成さない。いとも容易く魔力の弾丸は身体を貫く。
喉を切った男は背中から倒れ込み、最後の一人は下腹部を貫通しており、あまりの激痛からか魔導銃を取り落した。
「ぐ……ぁ、ああ……!」
呻きながらもまだ口の利ける男の腕を押さえつけ、うつ伏せで拘束し、首筋にナイフを当てる。
「質問に答えろ。お前達はどこの企業の者だ? 何の目的があってここに来た?」
「な、なんなんだ、アンタは……」
「さっさと答えろ。でなければ、そこに転がる肉塊と同じ末路を辿ることになる。お前も、それは嫌だろう?」
「ひっ……! わ、分かった…………俺達は、《デミウル》に所属する武装部隊だ。ここには数年前に研究所から脱走した、実験体が潜伏していることが判明して、それの回収に俺達が来たんだ」
数年前の実験体? 研究所の襲撃犯とは別の個体が《ディスカード》にいるということか。
「……次の質問だ。この場所に火を放ったのはお前達か?」
「そ、そうだ。実験体の回収と並行して、ここにいる異種族の奴らを殲滅するように命令を受けた。《デミウル》本社ビルの近くにあいつらがいるなんて……俺たちに不要なモノがあれば、排除するだけだ」
男はそれが当然とばかりに言い放ち、不敵に笑う。──人間至上主義も、ここまで来たら終わりだな。
「な、なあ……もういいだろ? これ以上、話すことなんてないんだ、助けてくれよ……」
「──最期に聞かせろ。お前達の身体に付いていた返り血は、どこで?」
「は……? こ、これはこの先、崩れた建物の所に居た異種族の、犬耳のババアを撃った時に付いたもので……」
「…………そうか」
握った手の平が熱い。無意識の内に首を切った手に、噴き出した血が掛かったから。
「ごべ……?」
「お前のように好きなだけ奪う側の人間が、施しもしないような屑が、助けてもらえると思ったのか」
手に付いた血を払いながら、嫌悪を吐き捨てる。
私もこいつらも所詮、食うか食われるかの世界で生きているんだ。そんな世界で情けなく誰かに手を伸ばすくらいなら、いっそこのまま死んでしまった方がいい。
ここから生き延びたとしても、長生きなんて出来ないんだから。
真っ先に目に付いたのは、辺りの炎に照らされた真っ赤な血。地面に転がる人だった肉塊と肉片。悲痛に歪んだ表情のまま倒れた獣人。
私を受け入れて、認めてくれて、優しくしてくれた、暖かい光を持つ人達だったモノ。
地上から持ち込んできた種で収穫した野菜を振る舞ってくれた犬人族。
出会った頃は邪険に扱われたけど、作ったアクセサリーを褒めてくれた猫人族。
重い荷物を運ぶ時、いつも手伝ってくれたドワーフ、ホビット。
影の中を生きている私にとって、誰もが眩しいくらい輝いていた。
この暗がりの底で、偽りの空の下でも、宝石のように。
でも、もういない。居心地の良い陽だまりは雲に隠れてしまった。
「……ルシア、ちゃん?」
いつもの場所で、いつもの位置で、朗らかに笑っていたお婆さんも。
優しい笑みは血に濡れているのに、弱々しいけど心地良い声で、私の名前を呼んだ。目が見えないのか、辺りをゆっくり見回すお婆さんの手を取る。
「ここにいます、お婆さん」
「あ……よかった。貴女の足音が、聞こえてね……でも、動けないから、迎えられなくて、ね」
「そんなこと、気にしなくていいのに」
「ふふっ……私が、そうしたかったのよ。…………ねぇ、伝えたいことが、あるの……」
口を開くのも億劫なはずなのに、普段話すような口ぶりで声を掛けてくる。
身体を支えて傷口に布を当てるが、既に血を流し過ぎたのだろう。脈は弱く、呼吸も浅い。
たとえ回復魔法を使えたとしても、全身で感じられる命の音がもう長くはないという現実を突きつけてくる。
「貴女はきっと……誰にも言えない秘密があって……抱えて生きている、のよね? 助けて、くれた時より前から……辛くて、苦しくて、悲しい秘密を。そんな貴女が、一緒に笑ってくれた。……嬉しかったの……この場所で、ここで過ごした時間が……貴女を癒してくれている、そんな気がして……」
しっかりと握り返された手が緩み始めていて、落とさないように強張った手の平で包む。
「……新参者の私がここに居られたのは、皆さんの……お婆さんのおかげです。ただいまと言って、お帰りなさいと返してくれる。家族のような結び付きがあって──ささやかな幸福を感じる日常、でした」
「…………みんな、年寄りだから、孫みたいに、思えちゃったのよね…………でも、どこか後ろめたくて。だからみんな、名前を教えなかったの。私達は貴女や孤児院……未来がある子達を、この場所に縛り付けないように……ひと時の宿り木として、いつか前に進んで、羽ばたけるように」
火の粉の爆ぜる音に紛れてしまいそうなほど静かな声が、身体の奥を熱くさせる。
頬に触れた手がゆっくりと撫でてきて、冷めていく体温と向けられる優しさが痛いくらい感じられて。
「私達はもう十分なくらい、幸せを貰ったから。お返し、したかったけど……もう駄目みたい。だから、せめて──ありがとう、って。言葉で、伝えたかった。ごめんなさいね……?」
「…………感謝するのは私の方です。急に押しかけて迷惑を掛けたのに、皆さんは受け入れてくれて。……いっそ、このまま平穏な日常を過ごしてもいいとさえ、思っていました。乾いて、擦り減って、ひび割れた私の心を……優しく包んでくれたのは貴女だった……ありがとう、ございますっ……」
「……よかった、その言葉が聞けて。ほんとうに……よかった──」
頬に添えられた手が垂れて、血に濡れる。
お婆さんは最後にそう言って力無く瞼を閉じる。安らかな笑みを携えて、静かに息を引き取った。
名前も知らない陽だまりの恩人。
彼女はもう何も言わない、言ってくれない。笑うことも、悲しむこともない。
ただ、ぽつり、と。胸元から垂れたペンダントに、笑顔から落ちた涙が炎に照らされ染みていく。
わずかに残された後悔が溢れているように見えて、胸の中が暗く沈んでいくように感じる。
もっと早く異変に気づいていれば、こんな惨劇は起こらなかっただろうか。
些細な疑念を抱いていれば、企業が《ディスカード》を徘徊していた理由にも気づけていたはずなのに。今更言い訳を重ねた所で現実は変わらない。
それでも、どうしようもなく頭の中に浮かんでくるのは失われてしまった皆の笑顔。
守れたかもしれない。救えたかもしれない。だけど、もう遅い。
お婆さんの身体に外套を被せて、火の手が回っていない壁際に寄せておく。
「必ず、あとで来ます。少しだけ──待っていてください」
複雑に絡まった感情が込み上がる前に、その場から離れる。
ガレキ市場ですらこの有様なら孤児院はどうなっているのだろう。いや、この惨状だ。最悪の事態も考慮しなくてはいけない。
絶望を鳴らす鐘の音は、いつも唐突に鳴り響くのだから。
「──クロトさん! しっかりしてください、クロトさん!」
「…………ぁ、っ」
朦朧とした意識が揺さぶられる。同時に身体を蝕む激痛に、喉奥から吐き出すように呻く。
俺は、ルーザーに撃たれて、倒れて……それから、どうなったんだ。どうにも浮ついた感覚が頭の中にこびりついていて、思考が回らない。
立っているのか、座っているのか。冷たいのか、熱いのか。
自分が今どういう状況なのかも、薄く開いた掠れた視界は何も見えない……ただ名前を呼ばれている、それだけは確かに分かることだった。
「──出血多量、痛みによるショック症状のせいで意識が混濁しているようだね。むしろ、数発も銃弾を受けてそれだけで済んでいるのが不思議なくらいだが……無意識に魔法でダメージを軽減させていたのか」
「オル、レス……さん」
「……まったく、凄まじい生命力だ。かろうじて、ではあるがこれくらいなら……クロト君、まずはゆっくりでいい。改めて血液魔法で傷口を止血するんだ。深呼吸するようにゆっくりと、イメージを崩さずに。出来るね?」
「……はい」
強い声音が言う通りに身体の奥底に沈んだ魔力を引き上げて、穴の空いたパズルを埋めていくようにイメージを浮かばせ、そのまま魔力を巡らせる。
ドクン、と。
弱く響いていた胸の鼓動が振動し、血管を、神経を強く意識させる。
感じていた痛みが更に熱を持ち、断裂した血管から血が溢れ出す。
歯を食いしばり、溢れた血で破れた皮膚を塞ぎ、その内側に仮初めのパイプを作り血管を補強する。これで、一応の処置は完了した。
「げほッ……はあ、はあ」
「クロトさん! よかった……」
どうやら今まで声を掛けてくれたのはカグヤだったらしい。
握られた右手の温かさが鮮明になった意識を現実に繋ぎ止めて、晴れた視界が見覚えのない天井を映す。
周囲を見渡せば俺が横になっていたベッド以外は何もない、埃っぽい部屋だった。
「ここは、どこ……?」
「私達が教会からセリスさんを救出した後、クロトさんの知人と言う方がここに連れてきてくれたんです」
「知人……?」
「私だよ、クロト」
そう言ってボロい扉を開いて入ってきたのは。
「ルシア? もしかして、孤児院の様子を見に来てくれたのか」
「まあ、子ども達が心配だったし君達もよく孤児院に来てたみたいだから、この異変に巻き込まれてるかもしれないと思ってね。企業の連中がうろついてたから時間が掛かっちゃったけど、君と子ども達を私の家──まあタダの廃虚だけど、ここまで案内したの」
「そっか……ありがとう」
「いいよ、お礼なんて。……それより、目を覚ましたら隣の部屋に来てほしいって、オルレスさんが言ってたよ」
「ああ、分かった。……っ」
立とうとして、身体に上手く力が入らずベッドについた手ごと崩れ落ちた。
マズい、血を流しすぎた。全身がだるくて、とてつもなく重い。酸素が身体中に行き渡っていないみたいだ。
カグヤに肩を貸してもらって何とか立ち上がるが、それでも眩暈や頭痛が止まらない。
「大丈夫ですか、クロトさん」
「なんとか……それより、オルレスさんの所へ行こう。たぶん、俺の力が必要なんだと思う」
ルシアを先頭に部屋から廊下に出て、割れた窓ガラスから外を見る。
孤児院からこの廃虚までそれなりに距離が離れているはずなのに、火の勢いは衰えず、絶えず町を燃やし続けていた。
「一応、安心していいよ。ここはガレキ市場と湖の間にある建物だから孤児院より安全だし、企業が細工をした形跡は無いから。でも、このままだと燃え移るのも時間の問題だろうね」
「……《デミウル》が何かしたってのは知ってるのか?」
「撤退してた連中から盗み聞きしたから、ある程度は知ってる。……その辺りの情報は後で共有しよう」
振り返ることなく淡々と言い放つルシアに続いて、隣の部屋に入る。
中は大部屋のようで、オルレスさんに治療されたと見られる子ども達が数人、壁に寄りかかって休んでいた。
入った途端、俺の姿を見て心配してか、近寄ってきた子ども達の頭を撫でる。……おいおい、泣くなよ。
しかしエリックやタロスの姿が見えない。部屋の奥に扉があり、その先に残りのみんながいるのだろうか。
「オルレスさん、クロトが起きました」
「本当かい? 分かった、入ってきてくれ」
扉を開けると、そこには複数のベッドが並んでいて、キオや過度に痛めつけられていた子どもが青ざめた顔で眠っていた。
包帯を巻かれた上から見ても、腫れ上がった打撲痕や変色した痣が痛々しい。そんな子ども達をタロスは丁寧に看護していて、イヴがその手伝いをしている。
そして一番奥のベッドにはセリスが横になっていて、隣でエリックとオルレスさんが真剣な表情を浮かべていた。
よかった、助けられたのか──安堵と共に息を吐き、血塗れになった修道服を見て心臓が跳ねる。
「オルレスさん、セリスは……」
「彼らが救出する直前に、腹部をナイフで刺されていたらしい。そのせいで教会から脱出できなかったそうでね……悪いけど、僕は彼女から手が放せない。詳細は後で教えるから、今は他の子達を治療してほしい」
「りょ、了解です」
ざわめく心臓を胸の上から押さえて、震える手で子ども達に触れる。
不安と焦燥が全身を襲い、汗が噴き出す。もし失敗したら、治らなかったら。負の想像が止まらない。
慎重に魔法で治療しているが、少しでも制御を間違えれば取り返しのつかないことになる。今まで何度もやってきたことが急に出来なくなるような、喪失感が広がっていく。
『クロトさん、心拍数が上昇しています。……落ち着いてください』
「分かってる。分かってるよ、タロス……でも」
魔法を使う手の上にカグヤが両手を乗せてきた。
「カグヤ……」
「助けとなるには心細いかもしれませんし、直接役に立てる訳ではありませんが……少しでも、貴方の責を背負わせてください。貴方は一人ではないのだから」
「…………ありがとう」
深く呼吸を繰り返し、手の平から魔力を送り、操り、身体の損傷を修復していく。ペースを乱さず、治療は順調に進んでいった。最後に残ったキオの治療も滞ることなく、後は目を覚ますだけ。
子どもとはいえ連続で何人も治療するのは初めてで、どっと疲れが湧いてきた。安らかな寝息を立てる子ども達の横に腰を下ろし、一息つく。
しばらくして、セリスの処置を終えたオルレスさんが口を開く。
「ふぅ……ひとまず、こんな所かな。クロト君、目が覚めて早々にすまなかった。僕だけでは手が回らなくてね」
「いえ、俺のことは大丈夫です。それより、セリスの容態は……?」
「手持ちの道具でなんとか一命は取り留めた。でも、屋内に放置されていたせいで煙を吸っているみたいだ。意識が戻るかどうかは分からない。体内の毒素を中和する魔法が使えたら話は変わるのだがね、彼女の場合はそういう訳にもいかないようだ」
「……? どういうこと?」
全く事情を知らないルシアが首を傾げる。
「彼女の身体は大気中に含まれる魔素程度の量ですら、下手をすれば呼吸困難になるほど肉体の魔力抵抗が低いようでね。自分の保有する魔力ですら彼女にとっては毒そのもので、それが常時血管の中を流れている。
おそらく長期的な栄養失調に加えて、精神的ストレスによって肉体が衰弱してしまっている。これではポーションによる治療も効き目が薄く、専用の薬剤を精製しなくてはいけない。
ただし、それも長きに渡って身体に馴染ませなければならない……即効性のある物を投与しても、身体が反応に耐え切れるかどうか、だね」
「それじゃ、姉貴は、セリスは今も苦しんでるのか……?」
その場の全員がセリスに視線を向ける。今でこそ穏やかな表情で横たわっているが、その内面は誰も想像できないほどに壊れているのだろう。
「どうしたら、いいんだよ……どうすれば、セリスを助けられるんだ……」
「残念だが、僕にはこれ以上手が出せない。後は彼女の生きたいと思う力を信じるしかない……エリック君は傍に居てあげなさい。きっとそれが──眠り続ける彼女の為でもある」
「…………っ」
強い語気で言い放ち、オルレスさんは部屋を出ていった。
「エリックさん……」
「……みんな、悪いけど子ども達の様子を見てきてくれないか。俺も少し休んでからそっちに行く」
『ですが……』
「行こう。私達がいても、邪魔なだけ」
ルシアが率先して部屋を出ていき、続いてタロスとイヴが、最後にカグヤが心配そうに一瞥し扉を閉めた。
残された部屋の中に響くのは静かな寝息と、遠くで弾ける火の粉、堰を切るように溢れ出た嗚咽だけ。
傷だらけで、痩せ細った手を固く掴んで、ただただエリックは泣いていた。
当然だ。オルレスさんの言ったことは全て真実で、セリスが目覚める可能性は限りなく低く、むしろ命を落とすかもしれないという忠告だったからだ。
最終的にそうなってしまった原因がルーザー達であることに変わりないとしても、セリスを想って生きてきたエリックには残酷過ぎる現実だった。
──その現実を再認識した時、エリックは壊れてしまう。
憎悪、嫌悪、私怨に呑まれた瞬間、彼の思考は復讐に染まる。
誰かが止めなくてはならない。たとえどれだけの重圧であっても、負の思考に至る前に。
「どうして、こんなことになっちまったんだ……普通に過ごしてただけじゃねぇか……俺達が何をしたっていうんだ……」
「……なあ、エリック」
「……なんだよ」
「ごめん。あんな偉そうなことを言っておきながら、ユキを取り返せなかった。あの時、少しだけルーザーと話して、あいつの意識が変わってくれるかもしれないって希望を持ってしまったんだ」
「……」
「だけど、それは間違いだった。この国の貴族が持つ固定観念はもう、木っ端の言葉なんかじゃ揺るがない。取り返しのつかない行動であろうと躊躇いなくやる、頭のおかしい連中しかいない……甘い考えで対応できる相手じゃなかった。
道理も信念も、受け入れられない異物を前にしたら簡単に捨ててしまう──植え付いた忌避感に踊らされた馬鹿共だ。少なくともルーザーはそうだった」
「…………」
「本当はお前の方が、子ども達があんな目に遭わされて許せない気持ちが強いはずなのに、それを押し殺させてセリスを救出に行かせた。あの場に残るべきだったのはお前だったのに。
……でも、見せたくなかったんだ。子ども達の前で、家族の前で……きっとお前はあいつらを殺す。そんな気がしたんだ」
「……ああ、そのつもりだったよ。お前が何も言わなければ、俺は……!」
震えた声で、吐き出すように。しかし確かに殺意が込められた視線をエリックは向けてくる。
赤の瞳は暗く淀み、今にも黒い意思が噴き出そうとしていた。
「駄目だよ、エリック。お前がやっちゃあいけないことだ。守る覚悟、背負う命の重みは個人が決めることだけど、お前が剣を持つ理由に泥を塗るような真似をしちゃあ駄目なんだ。子ども達にとって、お前は光なんだから」
「じゃあどうしろっていうんだ……! ルシアから聞いたぜ、ガレキ市場の皆も殺されたって。俺達は住んでる場所も焼かれて、ユキは攫われて、セリスに至っては生死の境を彷徨ってる。夢も希望も潰えて、もう何をすればいいか、何が正解なのかも分からねぇんだ……!」
「だから、諦めるのか? 夢を、希望を。手の届かない闇の底に落とされたからって、簡単に諦めるのか?」
「てめぇに何が……!」
「何も分からない。お前の気持ちなんてさっぱり分からないから、改めて聞くぞ。
──子ども達もセリスも大事な家族なんだろ? お前の原点は、家族の為に抱いた決意は、何物にも揺るがない守護の意志だ。愛した者を守りたい、決して失わせない。ユキもセリスも助けたい……どっちも手放すなんてありえない。……そうだろ?」
「ッ! そんなの当たり前だろうが!」
「──その言葉が聞きたかった」
よかった。ここで心が折れた発言をされていたら、さすがに立て直せなかった。
無意識にでも本音を引きずり出してやることが重要だったんだ。
「二者択一なんてまどろっこしい手は取らない……全部だ、総取りしてやる。あいつらは好きなだけ奪っていったんだ……当然、奪われる覚悟はあるってことだ」
「……何を言ってる? この状況で、何をする気だ?」
「お前が言った通りのことをやるんだよ。ユキを取り返して、セリスを救う。それだけだ」
エリックより短い付き合いだけど、俺だって子ども達にあんなことされて平静でいられる訳がない。
希望なんだ。今はまだ土の中で眠り続ける小さな種で、芽吹くには色々と足りない物も多いけど、いつかは花を咲かせ実を結ぶ。
ありきたりな欺瞞で自分を誤魔化して、都合の良い義憤に駆られて、偽善の御託を並べても。八つ当たり、憂さ晴らしだなんて言われても構わない。
「決して受け入れられることじゃない。それでも──誰かが手を汚さなければならないんだ」
どんな手段であっても、どんな困難が立ち塞がっていようとも関係ない。
「今ここで行動しなければ一生後悔してしまう。消せない傷痕よりも、心に深い悲しみを背負ってしまうんだ。そう、迷ったら動くな、だ…………だが、もう迷いは無い」
「クロト……お前、まさか……」
「心配するな、エリック。お前はお前の理由でここに居ろ。迷惑だなんて微塵も思う必要は無い。俺が勝手にやることだからな」
呆けた顔で何か言いたげだったエリックに笑みを向けてから部屋を出ると、子ども達の様子を見ていたオルレスさんが声を掛けてきた。
「クロト君、ちょっといいかい……なんだか雰囲気が変わったように見えるね?」
「気のせいですよ。それより、どうしたんですか?」
「どうやらこの建物に火の手が回ってきているようでね。だけど移動しようにもこの人数だ、動かすには危険な状態の子もいる。この建物付近だけでも消火できれば問題はないのだが……何かアイデアはないかい?」
「ありますよ。見た目が酷くて下手をすればトラウマを抱く光景になりますが、それで問題が無ければ」
「穏便な形で……と言いたい所だけど、背に腹は変えられないか。君の考えでお願いするよ」
「分かりました。早速行ってきますね」
「待って。まさか一人で行くつもり? まだ《デミウル》の連中が歩き回ってるかもしれないのに」
扉に掛けた手を止めるように、ルシアが割り込んできた。
「悪いけど俺の方に人手を回すより、護衛や看護の面を考えても、皆がここに居てくれた方がありがたいんだ。《デミウル》の奴らがいても一人ならやりようはあるし、目的を達成したらちゃんと……ちょっと遅れるかもしれないけど、必ず戻ってくるから」
「…………だったら私がついていく。一人くらい抜けても彼女──カグヤがいれば問題はないはず。それに……今にも倒れそうなくらいふらついてて、体調が万全じゃない君を放っておきたくない」
「そうだけど……」
眼帯越しでも訴えかけてくる視線に思わず目を逸らす。
出来れば誰も巻き込みたくない。これからやろうとしていることはきっと誰にも受け入れられないことだ。自分勝手な行動に付き合って傷を負わせるくらいなら……。
そんな思考を巡らせていると、突然胸倉を掴まれた。掴んできたのは、もちろんルシアだ。
「──私は頼りにならない?」
強い、言葉だった。有無を言わせないほどの迫力を含んでいるのに、どこか脆さを感じさせるような。
「……ごめん。意地を張ってるとか、戸惑ってる訳じゃなくて……」
「知ってる。けれど、もう嫌なの。私の知ってる人が失われるかもしれない、日常の一部が消えてしまうかもしれない……そう考えただけで、胸が締めつけられて……君の表情が、看取ったお婆さんに似てるから……」
「……そっか。うん、分かった。──力を貸してほしい」
悲痛な表情を浮かべて俯いたルシアの手を取る。カグヤに窓の外を見ないように軽く塞いでほしいと伝え、肩を貸してもらい、俺達は廃虚から外に出た。
向かった先は《ディスカード》の中心地、巨大な地底湖。揺らぐ景色を映した水面が静かに波を立てている。
道中、魔物と遭遇することはあったが、武装部隊の姿はどこにも無かった。ルーザーの“包囲している”という発言から察するに、既に奴らは俺達が入ってきた階段やそれ以外の、《ディスカード》への進入路を抑えているのだろう。
この炎から逃れることが出来たとしても、その先に居るのは生き残りを完全に排除する為に配置された武装部隊。
命乞いをしても、奴らは躊躇いなく引き金を引く。
もはや話し合いの余地なんてどこにもないんだ。だったら、もう、こっちも好きにやらせてもらう。
「それで、ここから何をするの? 湖の水を持っていく? 時間が掛かり過ぎると思うけど」
「まさか。そんな手間はしないよ……」
ルシアから離れ、右手の甲を噛み切る。指先にたらり、と赤い線を伸ばす右手を水中に入れて、魔力を込めた。
淡い明滅を繰り返していた周囲の魔素が激しく光り出し、次第に消えていく。
最初は滲んで薄れて溶けていった血が地底湖を、俺の手を中心にじわり、じわりと変化させていく。
イメージするのは夕暮れに焼かれた赤い海。時には水平の境界線すら見失わせてしまう、黄昏の時間。
葉脈のように、根を広げる植物のように。鼓動すら聞こえてきそうなほど怪しげな光沢を放ちながら、魔力の支配権を奪った地底湖を命の水で染め上げる。
赤く、赫く。鉄錆にも似た異臭が漂う。完全に血液に染まり切った地底湖を操り、幾つもの螺旋を束ねて一つの巨大な球体へ姿を変えていくそれを、《ディスカード》の天井付近まで持ち上げた。
「……本気でやるつもり?」
意図を察したルシアが、語気を強めて疑問を投げかけてきた。
当然だ。常人の精神ならこんなことをしようなんて思わないだろう。でも、やるしかないんだ。
少なくとも、これで《ディスカード》を包む炎を消し去ることができる。
だから──俺は指を弾いた。
雨が降った。振るはずもない、血の雨が。
静かに、しかし弾けるように飛び散った。
降りかかる寸前、視界が遮られて。それがクロトの羽織っていた上着だと知るのに時間は掛からなかった。
名前を呼ぼうとして夕立のように凄まじい勢いで降り注ぐ雨に止められる。大粒で、重い雨だ。
上着越しの視界は少し先すら水中を通して見ているようで、その奥で揺らいでいた炎が小さくなっていく。
消えていく。私の居場所を焦がしていた炎が。嗅ぎ慣れているはずなのに、煤と血の匂いが混ざって咽返りそうになる。
手で口元を塞いでいると、聞こえるはずもないと思ったのか、それとも聞いてほしいと思ったのかは分からないが。
クロトがうわ言のように。
「……子ども達に怒られちゃうな。ここの景色、好きだったのに。宝物みたいだって、言ってたのに──」
「…………っ」
悲しげで、寂しげで。泣きそうなほど切ない声が、雨音の隙間を通り抜けて耳朶を打つ。
圧しかかってくる上着の重みがクロトの心のように感じれてしまい、息が苦しくなった。
雨は止まない。下を向いた視界が滲んで、一つ、二つと。
涙が、落ちていく。親しい人を失った悲しみが戻ってきて、胸の中に残った。
この手で人を殺したことなんて何度もあるのに。人が死んだ程度で平静が乱れることなんてなかったのに。抑えられない嗚咽がこぼれていく。
本来なら関わることのなかった人達。
限られた世界の中で精一杯生きていた人達。
影の世界で生きる私に陽だまりの居場所をくれた人達。
思い出があった。勿体ないくらい素敵で、たくさんの温かな思い出が。本物でなかったとしても、間違いなく胸を張って誇れる繋がりが確かにあった。
返しきれない恩をどうしたらいいのだろう。落としきれないほど血に濡れた私に返せる何かがあるのだろうか。
──せめて、今、出来ることがあるとしたら。
お婆さんの言葉に背中を押された私に出来ることは、命を落とした皆がいつかどこかで新しい生を受けた時、幸福で平穏な日常を送れるように願うだけだった。
雨が止んだ。涙は止まらなかった。
すっかり重くなってしまった上着に手が掛けられて、そのまま押し付けるように撫でられた。
「……やめて、優しくしないで。ツラいのは、貴方も一緒なのに」
「──そうだね。でも、泣きたい時は泣いていいんだよ。涙が出るってことは、ルシアが道理を踏み間違えていない証明なんだ。心の中で一線を越えていない、他者を思いやる優しさが残ってる。どれだけ悲しくても、必ず立ち直れる」
先ほど見せた弱音にも似た言葉とは裏腹に、彼は力強い言葉で。
「……だからこそ、改めて頼みたい」
言い放った。
「カラミティの一員である君に、力を貸してほしい」
地の底から二人の罪人が空を眺めた。
……一人は月を見た。
照らされなければ自らを表せないことを嘆くように。
……一人は星を見た。
闇夜であろうとも永劫不変の輝きを手にする為に。
無限の海に、たった一つの願いを託しながら。
遥か遠くまで、交わらない道の先を目指した。