第二一二話 まどろみを越えた先で
ヒロインレースを駆け上がる。
その為にやるべきこと。
やはり、これまでの疲れが蓄積していたのだろう。
カグヤとユキでたっぷり昼寝を楽しみ、肩を叩かれた感覚で目を覚ました。どうやらエリックが起こしに来てくれたらしく、呆れたような口調でもうすぐ夕飯だ、と。
どうもぐっすり寝すぎたようで、時刻は午後五時半。
室内とはいえ、道理で周りが暗い訳だ……ん? 暗い?
他の二人も起きて自由に身体を伸ばしている中、エリックに頼んで結晶灯を点けてもらう。
そうして包帯で覆われた瞼を開けば、今まで灰色がかった世界に影が差していた。明暗がはっきりと分かる。
人の輪郭をおぼろげに視認できた。つまりは視力が戻りつつある兆候だ。
体感でまだ時間が掛かると思ってたのに、お神酒ってすごいんだな。
一人で勝手に感動して、しかし完全ではないのだと戒める。
だけどお神酒を飲んでから数時間で、この効能なら……効果がまだ残っているなら、明日にでも完治するかもしれない。胸に湧いた期待に笑いがこぼれる。
エリックとカグヤから訝しげな声が聞こえてきた。取り繕うような素振りを見せてから、昼寝に使っていた布団を片付ける。
未だに調子が戻っていないようで、引っ付いてくるユキを連れ立って。
エリックの先導で食事の場である大広間にやってきた。
音を聞き、影を見るに。既にオキナさんとアカツキ荘の皆、大勢の門下生や女中さんが待っていたみたいだ。
軽く申し訳ないと謝罪して、許しを貰えたので席に着く。
食卓の内容は詳細に分からずとも、匂いでなんとなく把握できる。
今までは医師の診断で消化に良い物を、と重湯みたいな食べ物で空腹を紛らわせていたが、再生魔法のおかげで消化器官は回復済み。
自己判断で食事内容は変えていいと許可も貰っている。
故にお神酒を飲む前に女中さん達へ、夕飯は皆と同じ物を、と願い出たのだ。
思えば、まともな食事は本当に久しぶりだ……味わって食べよう。
身体に染み渡る栄養素を感じ、大勢での団欒を楽しんで。
お風呂は補助有りでも危険なので、部屋にお湯を張った桶を用意。
持ってきたタオルを濡らして身体を拭い、髪を洗い、身綺麗にしたら使ったお湯を捨てに……行こうとしたらエリックにひったくられた。
まだ万全じゃないんだから早く寝ろよ、と。
不器用に過保護な対応を取られ、手早く歯磨きを終えて眠ることに。
まったく……こう見えて視界の影と周囲の音で状況を判別して行動できるんですけどぉ? そんなに言うんだったら、桶を持ってくる時も手伝ってくれたらいいのに。……違うな、その時はアイツお風呂入ってたわ。無理なことを言って悪かった。
そんな自罰的な気持ちを抱えながら。
昼寝をしたにもかかわらず、俺の意識は簡単に落ちた。
◆◇◆◇◆
──肌を刺すような冷気。
季節外れの異常事態は、容易くクロトの意識の覚醒を促した。
目を開き、咄嗟に上体を起こし、次いで身構える。周囲は暗く、光源が無いというのに、地面と思しき低い位置には濃密で白い靄が漂っていた。冷気の正体だ。
そして視界が現世とはまるで違う、至極クリアな物へと変貌している。
それだけで自分が夢、精神世界に居ると自覚した。自身のではなく、誰かの。
身構えはしたものの魔導剣やシラサイが近くにあるはずもなく、レオ達との繋がりも感じられない。
見下ろせば自身の精神体は半透明だ。あやふやで曖昧で不安定。
何故こんな状況に陥っているのか、この空間は何なのか。疑問と困惑を解消するように、白い靄の中に一筋の線が見えた。
万縁の魔眼が示す光の線──縁だ。
不明な点の多い、使いこなせているとも言いがたい魔眼によるものだとしても、今は頼らざるを得ない。
クロトと何かを繋ぐ縁を辿って歩を進める。
歩き続けて数分。冷気はさらに強まり、吐く息は白く染まる。
就寝時の寝間着姿が反映されているとはいえ、見た目が寒々しい。
不安定ではあるが、精神体への影響が小さくて助かったと言えよう。仮に実体だったら、これ以上は凍え死んでしまう……そんな直感がクロトにはあった。
手繰る縁は色味を強め、目的地の到着を知らしめる。
はてさて、鬼が出るか蛇が出るか。そんな面持ちで一歩を踏み出した途端──世界が塗り替えられる。
黒く、息が詰まるような狭苦しい閉鎖的空間から。
白く、叩きつけるような吹雪が特徴の解放的な空間へと。
視界を遮られ、全貌は見えない。だが、まさしく雪原と称すべき変化を遂げた内面空間に、雪を踏む音がした。
クロトではない別の誰か……この精神空間の主、縁の先に待つ者。
──あれは。
そこにいたのは、人体を遥かに凌ぐ巨躯を持つ狼。
ただの獣などではない。纏う空気は魔物の……それも強大な力を持つ、ドレッドノートなどの高位に位置する魔物のものだ。
対するは縁の繋がった小さな女子。見知った髪色に体格、佇まいから見間違うはずもない……ユキだ。
魔眼が示す通りなら、ここはユキの精神空間ということになる。
だが、上位者の内面空間ならいざ知らず他人に入り込んだ……?
ならば尚更、どうして自分が来てしまったのか……?
その答えこそが、万縁の魔眼にあった。
クロトが自覚している通り、魔眼の制御は出来ていない。いわば現状は暴走状態にあるのだ。
いくら現世で失明状態にあろうとも、魔眼を宿した事実に変わりはない。
誰かとの繋がりが視覚化、および認識できるようになった……あるいは、物理的に近づいたが故の影響。無意識の内に、クロトは他者の精神に干渉していた。
制御さえ出来てしまえば、今回のような事態は起こり得ない。
しかし魔眼を宿して日が浅く、その上でツクモのお神酒を共に飲んだ。それは本来、ユキに対して渡された物を共有し、受け入れたことになる。
その繋がりが淡くも強固に結ばれ、彼女の精神空間に紛れ込む結果となった。
『アナタに、ずっと謝りたかった』
そんな事実を知る由も無いクロトだが、眼前に変化が起きる。
『この、フェンリルの細胞に適応したアナタは、本来の姿を奪われた』
狼の魔物──フェンリルが語り出したのだ。
ありえない光景に戸惑うものの、ここはユキの精神空間。何が起きるかはクロトにも把握できない。
『お互い、意図したことではないにしろ、理不尽な目に遭った。……フェンリルが消えればいいと思ったけど、それではアナタが死んでしまう』
「……」
『せめて生き長らえさせる為にも、アナタに適応させるしかなかった。召喚獣になりかけの、不完全な存在であったフェンリルに出来る、最大限の足掻き』
さらに言えば彼の姿は見えていないようで、二人の時間が流れていく。
『本当なら、アナタの両親も助けたかったけど……フェンリルの力が強過ぎた。細胞に耐えられず、死んでしまった』
「…………」
『許してほしいとは、言わない。いくら罵倒されてもいい。受けるべき幸せを砕き、壊してしまった事実は変えられない』
でも。
『最後の最後に、良い事があった。神の食物によって肉体は最適化される。フェンリルの意思は消えて、アナタは本当のアナタを取り戻せる』
「──」
『アナタに根付いたフェンリルの力は馴染み過ぎた。もう元には戻れない……けれど、肉体だけはアナタの物に出来る。フェンリルに残された力で行使できる、正真正銘、最期のお返し』
悲痛な声音で打ち明けられる真実。
彼女達を取り巻く環境が、どれだけ過酷であったかを物語る様相は、さしものクロトであっても無言で見つめていた。
ユキも同様に、静かに頭を垂れるフェンリルをじっと見上げている。
『ごめんなさい、ごめんなさい。本当に、ごめんな──』
「ユキね、怒ってないよ」
そして懺悔を遮るように、ユキが口を開いた。
フェンリルの頭を、身体全体を使って抱き締める。
「ユキを助けてくれたのは、アナタの意志。ユキがこうしていられるのは、アナタの優しさ。ユキが幸せを掴めたのは、アナタのおかげ。……アナタがいなければ、ユキはにぃに達と一緒にいられなかった」
『ですが……』
「アナタの気持ち、全部わかるなんて言えない。だけど悩んで、苦しんで、泣きたくなるような事ばかりでも、ユキのことを想ってくれたんだよね?」
『…………』
「謝らなくたっていいんだよ。むしろ、お礼を言わなくちゃ。父さまと母さまの代わりに、今まで守ってくれてありがとう──お姉ちゃん」
『っ!』
フェンリルの涙が雪原を濡らす。
いつの間にか吹雪は晴れ、代わりに爛々と輝く月が顔を覗かせた。
「ユキはアナタ」
『フェンリルはアナタ』
「どこまでも、繋がりは断ち切れない」
『意思が消えても共にあり続け、力となります』
「一緒に行こう、お姉ちゃん」
『参りましょう、ユキ』
畳みかけるような問答の後、二人の姿が糸の如く溶けて、絡み合っていく。
狼とも人とも取れない、不定形の姿──繭のように変容。
途端に縁の線が途切れ、視界が黒ずんでいく。元より不安定な魔眼がもたらしたイレギュラーが故に、精神体が現世へと帰還する。
不可解な事態であったがどうにかなったか、と一息ついたクロトは、繭の中で動く人影がこちらを捉えていることに気づく。
「──にぃに、大好きだよ! 向こうで会おうね!」
音のこもった、けれど確かに聞こえたユキの声。
突然の告白に応えられず、ついにクロトの視界は黒に染まった。
◆◇◆◇◆
「はばばっ!?」
目が覚めた。妙な夢を見た、そんな気がして。
「……なん、だったんだ?」
何か、大切なやり取りを目撃していたような……夢なのに見てたってのも変だけど、うーん?
頭に霧が掛かったようなもどかしさ。夢というのは往々にしてそういうものだとは理解している。
だが、なまじ普段からレオの精神空間に拉致されて、その記憶が確かに残っている分、不明瞭な幻が薄れていく感覚が新鮮だ。
かといってどうしようもなく、上体を起こして目元を擦る。
そこでハッとした。包帯の向こうに闇が落ちている。
灰色でも白でもなく、影も無いがこれは、視力が戻ってる?
急いで包帯を取れば、視界に入ってくるのは和風の室内。裁判場からシノノメ家の屋敷に連行された時から、一人部屋に移されて少し寂しい空間。
窓から差し込む柔らかな朝焼けに照らされた、どこか懐かしくも見慣れた光景が広がっていた。
「お、おおっ……視える、視えるぞ! やった、直ったぁ!」
朝早くにも関わらず、大声で叫んでしまった。
だが、それぐらいの感動があったのだ。なんだかんだ目が使えないのは不便だったが、もう皆を困らせることはない!
「ふふっ。よかったね、にぃに」
「ああ、これで本格的に動き出せる。ナナシの捜索も楽に──ん?」
なんか、聞こえる訳の無い声がしたような?
付け加えるなら布団の中に温かみを感じるような……?
見下ろせば掛け布団が変に膨らんでいるような…………? 視力が戻った嬉しさとは裏腹に嫌な予感が脳裏をよぎる。
まさか、そんな馬鹿な、と。
掛け布団に手を掛けるよりも早く、声の正体が姿を現す。
朝焼けの明かりが照らす、碧の差し色が特徴的な白髪のウルフカット。
頭頂部からピンと伸びた獣の耳、大きくふわふわな尻尾を左右に揺らして。
雪のように白くも健康的な柔肌と碧い瞳が特徴的な妹分のユキがいた。
「おはよう、にぃに!」
眩しい笑顔を向けてくるユキに、なんでここに、どうして、と。
そんな当然の疑問が湧くより、今までとはまるで違う点があった。
目線が、高いのだ。俺と同じく上体を起こしただけにも関わらず、こちらが見下ろされていたのだ。
孤児院の子ども達の中でも小柄だったはずの彼女が、彼女……が……一糸纏わぬ、全裸の姿で。
「──き」
「き?」
「キャァアアアアアアアアアアアアッ!?!?!?」
処理しきれない情報量に限界が訪れた。
喉奥から、裂けるような叫び声が飛び出て。
声を聴いて起床した人々が続々とやってくる中、俺ってこんなに高い悲鳴が出せるんだ……と。
現実逃避な思考回路に脳が焼かれ、意識が落ちた。
ユキは 等身大の姿に 進化した!
ということで、今まで隠してたフェンリルがどういう存在であったかを示し、融合することで文字通りの成長イベントとなりました。
次回、新生ユキの説明とクロトへの詰問。




