幕間 在りし日を想う
【七ノ章】 日輪が示す道の先に を始める上で重要となる出来事のお話。
ようやくカグヤをヒロインとして描写できるようになって楽しみです。
絵や装飾が施された屏風、襖に障子、掛け軸、畳を張られた和室。
頬を撫でる風に誘われ視線を向ければ、敷居を跨いだ板張りの縁側から覗く庭園があった。
切り揃えられた低木に庭石、灯篭、際に花を咲かせる池。
松に梅、椿に黒竹。多様な植生で彩られた景色は、まごうことなく日輪の国の文化を色濃く受けたもの。
どことなく身を包む浮遊感にぼやけた世界を眺め、これは夢だ、と。
現在の自分が居住している部屋との相違点を自覚し、確信を得たカグヤのまどろみの中には故郷の光景があった。
『……~、~』
懐かしい、と郷愁に駆られた気持ちを攫っていくように、どこからともなく響いた歌声に心臓が跳ねる。
民謡を元にした物だ。しかし明瞭な文、詩で語られるものではなく、身体に染み入る優しい声音で、旋律を奏でるように鼓膜を揺らす。
分かっていても、失うと知っていても……心のどこかで、まだ乗り越えられていない。そんな自身の弱みを直視する。
床に敷かれた布団から上体を起こし、膝の上で眠る小さな子供の頭を撫でている女性がいた。
『カグヤ、私の愛しいカグヤ……』
彼女の名はツグミ。小さな子供、幼少期のカグヤへ一心の愛を注ぎ、育ててきた母親だ。彼女との思い出、学び、交流が今日に至るまでカグヤの精神形成に深く影響している。
そんなツグミは慈しむように、カグヤを優しく撫で続けていた。その手は痩せこけ、着用している寝衣から骨の浮き出た身体を覗かせている。
白髪で色白な肌は健康的とは言いがたく、痛々しい印象を抱かせた。
彼女は病に侵され、長らく生きられない身体だった。
どんな名医に診断させても、どんな薬を用意しても徒労に終わり……彼女は年若くして、死ぬことしか許されなかったのだ。
当時のカグヤは事情を知らず無邪気に甘えているが、俯瞰的に見ているだけのカグヤにとっては恥ずべき過去であり、無力を痛感させられる記憶だ。
されど求めるように手を伸ばすことを、誰が責められようか。
幸福な記憶の先で必ず別れが訪れると知っていながら、胸中に湧く不安と未熟さに背を押されるように。
それでも身体は動かない。踏み出そうとも、腕を動かそうとも、金縛りにあったかのごとく身動きが取れない。
『貴女には、いつまでも健やかでいてほしい。爛漫な花であっても、咲かぬ大輪であっても、元気でいてほしいのです』
呆然と立ち尽くし、視線だけを向けた先で。
ツグミは枕元から鈴の付いた簪を取り出し、当時のカグヤの髪をまとめながら、滔々と語りだす。
『少彦の鈴留め……貴女の誕生日まで隠しておきたかったけれど、そうはいかなそうだから、ね』
母親からの大切な贈り物である簪。
まとめた髪を解かさぬように一撫でし、ツグミは笑みを浮かべる。
『似合っているわ、とても。欲を言えば、大きくなった貴女と合わせた物を、私も着けたかった……ごほっ、けほっ……』
カグヤを起こさない為にツグミは口元を両手で塞ぎ、咳き込む身体の揺れを最小限に抑える。
発作的に出た咳が止まり、放した手には赤黒く粘性の強い血が張り付いていた。終わりが近い、そう考えずにはいられない。
『……見聞を広げ、情緒を養い、己の道を進みなさい。そして、恋を……貴女を愛してくれる人と結ばれることを、母は強く、願っていますよ……』
弱々しく、決して自身が望めることの無い未来を思って。
はかない感情の吐露を最後に、ぼやけた世界は白く収束していった。
◆◇◆◇◆
「……」
夏の陽射しが差し込む、アカツキ荘の自室でカグヤは目を覚ました。
いつも起床してから目がはっきりと冴えるまで、幾分かの時間を有するはずだが、夢の影響だろうか。珍しく意識が明瞭なまま、カグヤはおもむろに身体を起こす。
日輪の国の実家から送られてきた家具で彩られた和風様式の部屋が視界に入り、備え付けのテーブルには夢の中で贈られた簪が置かれていた。
「…………」
懐古の念が胸中を埋め尽くす。
自然と伸びた手で少彦の鈴留めに触れて、音を鳴らした。
りん、りん、と。昔も今も変わらない、耳朶を撫でる音色が奏でられる。
「──お母さま」
視界が潤み、抑えきれない感情が頬を撫でる。
とめどなく溢れ、拭われることもなく。
感傷の疼痛は流れ落ちていった。
次回、日輪の国へ向かう為の理由付けと長期休暇が始まるお話。