幕間 暗雲の兆し
場は整った。
長い月日を経て、我が願望は叶えられる。
思えば長き時を生きたものだ。いや、生きたという表現には、少々語弊がある。
長らく契約を為していなかったこの身は、あの忌々しい女に封印されていたのだ。鏡を見る度に、顔に張り付いている銀の仮面に激しい憎悪を抱く。
記憶に残る、我が身を蝕んだ負の象徴。
留める事の出来ない邪気が身体から溢れ、大気を揺らし、鏡に罅が入る。
同時に胸を、頭を締め付ける痛みに呼吸が乱れた。傍らに置いた黄金の輝きを放つ酒を飲み干し、息を整える。
そうだ――既にこの身は、理想の果てへと至ったのだ。今さら記憶の想起で精神を乱すなどあってはならない。
新たに我が契約者となったこの男はよく働いた。
肉体、精神をより高次元の存在へと近づける為に利用しただけの人間だったが、驚いた事に、我の原初の契約に応えた者と同じ願いを抱いていたのだ。
余程我欲の強い者なのだろう。並々ならぬ興奮と情欲が入り混じった精神は、取り込んだというのに未だ自我を保っている。
原初の契約者ですら精神の混雑により自我の崩壊が始まっているというのに。
だが、それでこそ我が契約者というもの。
羽織った外套の端から、街を歩く害虫たちの姿が瞳に映る。
嗚呼。見るだけで吐き気がする。
我が肉体も同じ構造をしているというのも、俄かには受け入れ難い事実だ。
しかし、害虫どもから奪い取った魔力で落とし子と我が肉体も変容した。
最早、我は以前の我ではない。
唯一無二。何人も我を滅ぼすことは叶わぬ。
小賢しい羽虫の抵抗など恐れるに足らず。
嗚呼。笑みが零れる。
今日は機嫌が良い。
くすんだ灰の空は、我の復活に歓喜しているかの如く渦巻いている。
場は整った。
我が執念、我が怨嗟の顕現を持って、この世に破滅をもたらそうではないか――。
「あれ、は……」
人の波が交差する中、視界を横切った存在に心臓が跳ねた。
速まる鼓動に息が詰まる。身体中に悪寒が走り、冷や汗が噴き出す。
決して気のせいなどではない。見間違えるものか。
記憶の奥底に残る、あの外套の印を。
なぜ、どうして。
いや、ありえない。
私がいる限り、あの厄災が復活するはずがないのに。
けれど、もし仮に何らかの影響で復活していたのだとしたら――。
「っ……まさか、これまでの騒動は……!」
駆け巡る凄惨な過去の残痕に吐き気を覚えながら、私は走り出した。