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一週間後、結局今日まで製作会社と居酒屋のバイトづくめで、今日やっと自分の荷物を用意できた。実家には戻れなかったが、キャンプの道具はいらないし、服も軽装で済むからその必要もなかったのは幸いだ。
その代わり美咲にはメールで連絡するだけで南辺に戻れず、申し訳ないことをした。せめて墓参りに行くなら、彼女に花を作ってもらおうと思ってたんだけど。
しかし、やはり下心を持つとロクなことはない。午前二時の番組製作会社前、僕を樫尾町に連れて行ってくれる乗り物はロケバスなんかじゃなく、車中を共にするのが番組スタッフなんかじゃなく、つやのない、所々に茶色の錆が浮いている年代物の水色の空冷式エンジンのビートルと浅黒い肌の小汚い髭面の皆川さんであった。
しぶしぶ僕は自分の荷物をそのビートルの後部座席に押し込み、皆川さんが空いているといっていた助手席に座って絶句する。
しかし、すぐさま僕は飛び降りて突然の痛みに耐えかねて、地面に四つん這いになってうめいた。それは座席のクッションのコイルスプリングがビニールのシートレザーを突き破って僕の臀部を突き刺したのだ。
「何すか、この車はぁ!」
「おいおい、古い車なんだからいたわって座ってくれよ」と涼しい顔で言う皆川さん。いたずら盛りの小学生じゃあるまいし椅子に座る前に座面の確認なんて誰がするもんか。
結局僕は自分のシュラフマットを引きずり出して座面に敷く羽目になる。
「こっちは悠々広々のツーシーターだ、あれ見りゃこっちの方がいいって思うだろ」皆川さんは僕らの前方にアイドリングで停車している車を指さして言った。
ロケバスというか、普通のワンボックスワゴンなんだけど、そこが機材とスタッフの鮨詰め状態だったとしてもこの車に比べれば百倍は快適だと思われた。
目的の北岸市までは高速を使うことになる。皆川さんのこの車が高速でエンストでも起こして運行不能に陥らないことを祈るばかりだ。皆川さんが前方のワゴン車に出発の合図を送る。ビートルは乾いた音を奏でながら思っていたよりも軽快に走りだした。
「どうだ、思っていたよりは走るって顔だな」
「まあ、思っていたよりは、ですけどね」
「なんでぇ、お前ならこういうモノの良さってのがわかると思ってたんだぜ」
「まあ、嫌いじゃないですけどね」ただ、人を乗せる最低限の装備くらいきっちりしていればの話だ。車にゃ罪はないって言いたかったけど面倒なので話題を変えることにする。
「結局詳しく訊かなかったんですけど、この取材ってどういう取材なんですか? 割と本格的に撮影するみたいですけど」車は路地を何度か曲がりながら国道と思しき四車線の道に出る。僕は窓を開けようと手動式のウィンドクランクのハンドルを操作したがびくともしない。
「ああ、それな、あんまり強引にやると滑るから気をつけてくれ」皆川さんがそう言うか言わないかのタイミングでガリガリっとした音とともにクランクが回った。けど窓は開いていない。
「ああ、逝ったか」
「もしかして壊れました?」
「たぶんな」
「すみません」
「よくあることだ、気にするな。ちなみにクーラーはついてないからな、この車」運転席に座る皆川さんは窓を全開にして右ひじを窓際に引っ掛けて悠々とした口調で言う。一応僕は自分が壊してしまった事実を認めて謝ってみたものの、この先真夏の気温の中で窓も開けられないのかと思うと妙な怒りがこみ上げてくる。
「暑けりゃそこ、それ。三角窓があるからそれを開けとけ」皆川さんは窓の前方部分の三角形の窓を指差して言った。つまみをひねり三角の窓を外側に押し出してやるとうまい具合に窓が反転し走行風が室内に舞い込む。
「思ったより涼しいだろ」
「ほんとうですね、これはすごい」もちろん感心して見せたものの、停車中はこの窓から風が入ることはないことはサルでもわかる。そんなことはどうでもいいのだ。僕はこの取材の目的を訊こうとしていたのだ。
「皆川さんたちは北岸市のどのあたりを取材するんですか?」
「ああ、主には沿岸部だけど、許可が下りれば竹田島まで渡ってみるつもりだ。いわば戦争の回顧録のような番組だからな」
「じゃあ当然、樫尾町にも行くってことですよね」
「まあな。割と成り行き任せなんだけどそこまで詳しく決まっちゃいない」
「番組製作ってそんなに適当でいいんですか?」
「適当ってのは適当な言い方じゃねぇな。臨機応変、現場判断、柔軟思考、柳腰対応と言ってもらいたいな」皆川さんは大事なことを隠す時に妙な言い回しをする癖がある。僕が彼と付き合って三年の間に気づいたことだ。
それに柳腰ってなんだよ。いつかの官房長官がマスコミから弱腰外交を批判されて、それを柳腰外交だと言い訳してたけど、追求から逃げる時に使う言葉なのか?
大体勝算五分の勝負ならしないと言っておきながら、内容も定かではない番組制作に加担するなんておかしいにもほどがある。あの戦争以来半島情勢をはじめとして、不都合な真実が絡む仕事にはちょくちょく顔を出している皆川さんだ、今回の取材だってタダ事ではないに決まっている。
高速のチケットを取り、僕らの乗るビートルはランプウェイを勢いよく登ってゆく。
皆川さんはハンドルから両手を離して煙草の箱から一本を引き抜いてゆっくりと咥える。車のダッシュに手を伸ばしノブのようなものに手をかけたかと思うとそれを引き抜いた。電熱線式のシガーライターだ。今となってはシガーソケットにライターが差しこんでる車も珍しいが、それで煙草の火をつける人を僕は初めて見た。
「おう、伸也も吸っていいぞ」皆川さんはハイライトの箱を僕によこした。
「僕は吸いませんからいいです。それに未成年に勧めないでください」
「はぁ、まじめだねぇ、お前」
「そういう時代じゃないんですよ」
深夜の高速道路は通りも少なく、どの車のスピードも制限速度を二割は超えている。確かにこんなに古い車でもよく走ると思う。むしろ後方についてきているスタッフの車のほうが鈍重な体で必死に走っている感さえある。
ここ数年の間、教国は何度となくミサイルの発射実験を行っている。とはいえど近隣諸国に被害が出るようなことはないのだが、教国の挑発的な態度はあらゆる国から批判を浴びていた。
四年前の紛争では陸上戦力を中心としたゲリラ戦法をとっていた教国だが、昨今の共同通信社などから流される教国内の軍事パレードの模様ではミサイル兵器が多く目立つようになった。
それを軍事評論家は教国の物資や財政がひっ迫している証拠だと言っていた。ミサイル一基を飛ばすのに相当の金がかかるのは確かだが、要するに発射台さえあればあとは飛距離だけの問題で、兵士を何千人、何万人と教育し食わせ、訓練し装備を施すよりも効率的で確実な攻撃がピンポイント、あるいは広域にできるということらしい。
もちろん考えるまでもないけど僕らの国は教国のミサイル射程内に入っている。要するにそれを撃つか撃たないかだけである。
国防軍のタカ派はこぞって教国のミサイル施設を先制攻撃で撃破すべきだと声を荒げているが、当然政府も国民世論もそれを是認することはない。皆川さんも“教国は撃ってこない”と断言している。
僕にはその断言の根拠がわからない、あの国なら何をしでかしてもおかしくはないと思う。奥田はあの国に殺されたのだ、それに樫尾町の人々も、そこへ向かった国防軍兵士も。あいつらが戦争さえ起さなければ皆、今もきっと生きていたんだ。
ヤンたちが言うように教国の人たちは悪くない、上層部が悪いのだということは頭では解っているつもりだ。だけどだからと言って仮に国交が正常化したとして、教国の人たちと僕は仲良くできるかどうかの自信はない。
紛争後に僕は記憶が徐々に戻ってきていて、今では半分くらいを思い出せるようにはなっている。そのきっかけが一番思い出したくない奥田の死を看取った瞬間の写真だったことは皮肉としか言いようがない。
その前後の記憶は未だに戻らないままだけど列車に乗って山間の駅に着いたところまでは完全に思いだしている。そこから断片的にバイクに乗っていたことや、兵士に混じって列車に乗っていたこと、商店街に避難する多くの人々なんかが印象に残っている。
そのことを皆川さんに話してみても、ずっと一緒にいたわけじゃないからわからないらしい。バイクはそこいらに落ちていたものを盗んで乗っていたのだろうと推測はできるけど、特に兵士に混じって僕が列車に乗っているなんてのはどうも腑に落ちないのだ。
皆川さんが推理するに、僕の無意識の願望がそういう光景を作り上げたのだろうということだった。でも僕は兵士になろうなんて思ったことはないし、憧れもしない。やっぱり不自然だと思う。
「なあ、その服。どこで手に入れたんだ?」皆川さんが紫煙をくゆらせながら前を向いたまま僕に訊いた。僕が着ていたのは例のくたびれたフィールドジャケットだ。
昨日までバイトづくめで実家にも戻れず、あわてて準備したため、仕方なく防寒着くらいにはになると思って引っ張り出してきたのだ。
「これはあの時、皆川さんに助けてもらった時に着ていたものですよ」
「前から持っていたのか」
「いえ、多分前にも話したと思うんですけど、自分でこういうモノを買った覚えはないんです。ミリタリー関連に興味がないわけじゃなかったんですけど、これって国防軍のものなんでしょ? なおさらわざわざ買うようなことはしないかなって思うんですよね。それにこんなくたびれたモノを」僕はほつれた袖口をまくりながら言った。
「だろうなぁ。いや、あれからちょっとは思い出したのかなと思って、訊いてみただけだ。ちなみにそれな、国防軍じゃなくて防衛隊時代のジャケットだぞ」皆川さんは煙を吐きながらコンソールの中央に配された小さな灰皿に吸い殻を押し付けて消した。
「そうなんですか?」なら僕が考えていたような屍人から剥いだものではないということになる。少しだけ心につっかえていたものが外れた気がした。
もし仮に僕が国防軍の兵士と同じ列車に乗っていたとしても、防衛隊の制服を着ているなんてのがそもそもおかしな話なのだから、やっぱりただ単にそれぞれがつながらない記憶でしかなくて、このジャケットもどこかで拾った程度のものなのかもしれない。
そんなあいまいなものをこの期に及んでも着用している僕も僕なのだけど、やっぱり記憶の手がかりにはなるように思える。
「俺の学生時代の後輩でな、っても高校の時だけどな、防衛隊に入隊した奴がいたんだが。そいつは国防軍になった時に辞めたって言ってた。専守防衛ってのを旨とする防衛隊に対して先制攻撃も辞さないとする国防軍のあり方に疑問を感じたんだとさ。実際にはさほどに違いはないと思うし、その国防軍の運用に関しての決定権は政府、つまり現在の与党にある。当然教国のミサイル基地を撃破する作戦なんてありえないって世論は声高に叫ぶから、政治家連中は票の御機嫌取りをするだろ?」
「シビリアンコントロールって言うんですよね、そういうの」
「ははっ、それ皮肉で言ってるのか? ふたを開けてみりゃこの国の国民は誰かが尻を拭ってくれるのを待っているどころか、ケツの穴を汚すくらいならクソはしねぇって考えだ。おかげで慢性便秘で健康に害をなしているのに、なんとなく生きているから気にも留めてない」
「臭いものには……」
「蓋をしろ、あふれ出ない限りってこった。俺はそいつが守っていた専守防衛って理念は間違ってはいないと思うけど、それを、組織理念が改変したから自分は辞めるってのは無責任っちゃ無責任だと思う。てめーが積極的に人殺しをしたくないって駄々こねてるようにしか聞こえねぇ。実際に樫尾町での戦闘で命落とした国防軍兵士は練度の低い寄せ集め部隊だったんだ、多くはブランクのある予備役招集された人員で構成されてたって話、聞いただろ?」
「ええ、新聞で見ました。それが軍首脳部の責任問題に発展したんですよね。だとしたらその、皆川さんの後輩の人も招集されてたんじゃないんですか」
「だとしても奴は上級士官だ。前線にゃ送り込まれてねぇよ」
皆川さんは再び煙草をくわえ毒づいた息を吐いた。その様は彼にしては珍しく感情的になっているように見えた。街から離れると車の数はぐっと減り時折猛スピードで僕らを追い越していく車があるくらいになる。皆川さんが話さなくなって僕は高速から見える夜の闇を見つめていた。
ケツの穴を汚すくらいなら糞はしない、なるほどな。確かに僕も含めて、世界が、この国が、平和になればそれで世はことなしって思っている。だけど平和は自然に訪れるものじゃなくて勝ち取らなくちゃいけないものだってことは歴史が証明している。
平和は守らねばならないもの、それを脅かす勢力に対し何らかの抑止力が必ず必要になる。この国でそれを担うのが国防軍ってことになる。
防衛隊時代の専守防衛っていう理念は確かに正しい。自分から戦争は仕掛けることはしない、ただし攻められれば退けることに躊躇はしない。僕らの国が大切にしてきた平和憲法を体現する武力のあり方だと思う。
だけど先の首相が“世界はそれほど平和ではない”という警鐘にも似た文言を発したとき、国民は結局防衛隊を国軍化することに賛成した。それで前身の防衛省が国防省となり、権限が一気に跳ね上がったけど、過去の大戦時のような徴兵や接収が国民に対して行われることはなかった。
ただただ表向きは防衛隊時代と同じく志願制で公務員然とした体制に変化はない。合衆国や大陸みたいに積極的に兵器の開発をしたり、世界の紛争地域に出向くようなこともなかった。
ぎりぎり、平和憲法を堅持するという流れを保持したこの国は戦争が起こることを望ましくは思っていない。当たり前だけどどこの国だってそうだろう。
でもそれは戦争という行為が起きて欲しくないというより、戦争というそのものを忌避しているだけのように思える。それが先の紛争で戦闘そのものがなかったように隠蔽しようとした動機だとすればどうだろう。
なら、僕らのこの国の国民は何も知らずにどこかで戦闘が行われていて、死んでゆく人々がいても知らなければそれでなかったことにできるだろうか。いや、そんなことはできない。教国のやり方は騙し討ちだ。
宣戦布告は最初の攻撃から五時間もあとになってされたんだ。そんな卑怯な相手に対しどうしてこちらが被害を少なく見積もって世論に訴えかける必要があるだろうか。
当時の軍首脳部らの裁判は継続中で判決はまだ出ていない。真実は晒されたとはいえ、その真実の裏付けはまだなされていない。