4ー1
「伸也!」そう背後から叫んだのはアリさんだった。僕はサロンのテーブルで相変わらず気難しい顔をしてF4と格闘していた。
「お前、夏の課題はどうするんだ? テーマ決めたか」僕の向かいの席にどかりと腰をおろしカメラ雑誌を広げた。
「いや、とりあえず樫尾町に行こうと思ってるんだ」とりあえず、なんかじゃなくてそれはずっと前から決めていたことなんだけど。
「何だ、お前もかよ」アリさんはさもつまらなさげな顔をしていった。
「お前も、って何?」僕は雑誌をめくりながら話すアリさんを見た。
「結構多いんだ、うちのクラスだけでも十数人は樫尾町なんじゃねーの? まったく芸がねぇって言うかさ、皆川に感化されすぎてんだよ」
アリさんは皆川さんのことを尊敬しながらも、どこかライバル心のようなものを燃やしていることがうかがえる言動が絶えなかった。いや、それは尊敬しているからこそなのかもしれない。もちろん僕と皆川さんが通じていることなども知らないからそういったことが言えるのだけど。
「じゃあ、アリさんは、どうするのさ? 決めてるの」
「俺かぁ?」
「それだけ言うなら、きっとすごい写真撮ってくるんだろうね」
「ああ、当然よ。俺ぁ、ちまちまと過去をまさぐるような写真に興味はねぇからさ」こんな言い方するのもアリさんらしく、全く嫌味がない。
どこか年齢よりも大人びて見える時もある彼の言動ながら、いつでもフランクで憎めない。皆川さんも似たようなタイプだが、あの人は本気で人を不快にさせ、憎んでもいいと思わせる物言いをする。そこがアリさんとは違うところだ。
皆と同じくよろしくやってるみたいに思われるのは気に障るところではあるけど、どちらにしても今さら変更するつもりもなかった。
いつもつるんでいる仲間連中の中で同じように樫尾町をテーマにしようとしているのはヒサにい、永井、大佐古、ウォン、そして奥田の五人だった。他にもクラスのやつが何人か行くようだったし、休み前のサロンの会話はちょっとした旅行計画みたいな雰囲気になっていた。
「伸也は一緒に行かないのか」アリさんは相変わらず写真雑誌を広げて僕の向かいの席に座っていた。僕はアイスコーヒーとフライドポテトを学食で買ってテーブルに広げていた。それをつまみ食いしながらアリさんは旅行計画に熱心な連中を一瞥する。
「たまにさ、不謹慎だなって思うことはあるんだ」アリさんは言った。
「まあね、わかるよ。あんな風にワイワイ騒いで戦災の町に出向くのはどうかっていうか――」
「いや、そうじゃなくて、俺たち全般にさ。心のどこかではなんかおいしいネタが転がってるんじゃないかって期待してるわけさ。たとえば今日の帰り道だって目の前で事故や事件が起きたらそれだけでカメラを向ける動機にはなるだろ? そういうの起きてほしくはないんだけど、写真やってるとどっかで期待してる自分がいることも否めないんだよ」
僕はアイスコーヒーをすすりながら彼の話を聞いていた。このアリさんの気持ち、どこかで感じたことがあると思いながら。皆川さんが言ってたんだっけ?
「週刊誌はグロければグロいほど売れるってのはどこぞの誰かが言ってっけど、実際人間って残酷なところあるからさ。怖いよな。それに、その現場に立ち会いながら冷静にシャッター切れる奴って、恐ろしい精神状態してると思う」
アリさんはカメラ雑誌に掲載されている、あのLIVEの表紙になった“僕と奥田の写真”を僕に見せて「俺からすればこいつ、皆川譲二はまともじゃねぇ、イカれてる」少し半笑いしながら言った。
確かに皆川さんは変だと思う。どこか感情の線が切れているか、もともとないのか、妙にクールでシニカルで、ニヒルだ。人を愛したことなどないのではないかと思えるほど、人間らしくないと思えることがある。もちろん僕がそれを言えるほど人生経験を積んだわけじゃないのだけど。
「かもね。でも実際にそういう現場に立ち会ったら俺だってどんな行動を取るかわかんないから何とも言えないよ」僕はアリさんを年上として認識もしているけど、それ以上に同じ道の上にいるという同士意識の方が強く、まあ僕だけじゃないんだろうけどここでは年齢差を気にする人は少ない。
「ははっ、伸也はやさしいな。じゃあ、また休み明けに。作品楽しみにしてるぜ」そう言いアリさんは席を立って五人の方に向かって声をかけた。
彼が言う“やさしい”ってどういう意味だろう。僕はただ、本当に、そういう現場では自分が何をしでかすかなんてわからないって、自分が感じたようにそのままを言っただけだ。アリさんが消えたと同時に、樫尾町ツアーの五人は話がまとまったらしく席を立ち始める。
「木田君、これからみんなで買い物に行くけど一緒に行く?」奥田が僕に声をかけてくれた。この頃になると奥田もかなり周囲になじんできていて、自分から誰かを誘うようなことも珍しくなくなっていた。内向的だって思ってたのは、初めての環境に戸惑っていただけなのかもしれない。
予定のない僕は荷物をまとめて彼らに同行することにした。
「樫尾町に行くなら伸也も俺たちと一緒に来ればいいのに」大佐古が僕に言う。
「他にも用事があるから、どっちにしてもみんなとは別行動になるし」
学校から歩いて二十分ほどのところに割と大きな総合アウトドアショップがある。普通の野球やサッカー、バスケ、テニスなどのスポーツ用品からスキューバ用品、登山道具、衣料、非常食なども含め、ここだけですべてのアウトドアレクリエーションに必要な用品が手に入れられる。
貧乏学生に約一週間の撮影旅行の宿泊費をねん出する余裕はない。特に写学生であればフィルムを一本でも多く買いたいと考えるものだから、結果的にはワンボックスの自動車に大きめのテントを抱えてのキャンプ生活という旅行スタイルになることは必然といえた。
それに、目的地が北岸で、そこまでは二泊ぐらいの予定であちこち周遊しながら向かうらしいから、まあちょっとしたレジャー気分でもあるのだろう。ウォンが重要文化財の城が見たいとか、永井が吊り橋を渡りたいだとか、大佐古が海で泳ぎたいだとか、ヒサにいがダムを撮りたいだとか、樫尾町をテーマに撮影旅行ってのとはちょっとかけ離れてきている。正直、ちょっと楽しそうだなって思った。
みんなはアウトドアショップでめいめい最低限の個人装備を買い集めていた。ヒサにいは長期の個人旅行の心得があるらしく、あれこれと買うもののアドバイスをしている。それにしても奥田みたいなお嬢様がそんな旅行に参加して耐えられるのかが疑問だった。
「そんなシュラフいらないよ、こっちの安い奴でいい」ヒサにいが山岳用のシュラフを手に取る大佐古に言う。
テントや調理用のバーナーはヒサにいが一式持っているそうだ。食料は現地調達でその場のノリで作るらしい。それにウォンの料理の腕はなかなかのものだそうで、彼は独自に調理器材を物色していた。
思えば僕もあの時、家にあるキャンプ道具をザックに詰め込んで樫尾町に向かったはずだった。だけどあの時の装備はどこかで落としたのか、僕が再び南辺の街に帰った時にはウェストバッグ一つしか持っていなかった。
皆川さんが僕と最初に出会ったときに大きなザックを背負っていたと言っていたから途中までは持っていたことは確かなんだけど、やっぱりそのあたりの主観的な記憶がかなりとんで無くなっている。
その代わりと言っては何だけど、僕のものではないカーキ色のくたびれたフィールドジャケットを僕は着ていた。未だにそれが誰のものかはわからない。
もしかすると当時の記憶の手がかりになるかもしれないと思って、今でもその上着は箪笥の奥にしまったままになっている。
「荷物、持ってあげるよ」みんなと別れて奥田と一緒に帰っていた。彼女はヒサにいから教えられたとおり安いシュラフとマットとコッフェルを購入していた。
「木田君はやさしいね」奥田が言う。またやさしい、だ。優しいということ、優しさに意味を求めれば求めるほど自分がすさんでいるのだと感じる。
大抵の人にとっては誉め言葉なのだから素直に受け止めていればいいのに。
「奥田はさ、樫尾町で何を撮るつもりなの?」それほど興味があったわけでもないのに勝手に口がそう訊いていた。
「私は……、里帰りついでで、みんなとは北岸市まで一緒に行動するだけなの。まあ、あいのりね」
「そうなんだ。里帰り、っていうと……じゃあ、実家が樫尾町に?」妙な符合が僕の頭を巡る。
「うん、樫尾町の近くの町だけどね。だから現地に着いたら私はむこうでそのまま実家に戻ろうと思って」
近い、近すぎる。奥田という姓が珍しい訳じゃないけど、同じ北岸地域出身の同い年の同姓同名の女の子、奥田美和……偶然以外の何物でもないとは判ってはいるけど意識せずにはいられない。
結局僕はいつも奥田と別れる交差点を渡り、僕の住処のある下町と通りを挟んだ一等地に建つ彼女のマンションまで荷物を運ぶことになった。この前来た時は夜でよくわからなかったけど、やはりというか当然というかマンションは最新式の防犯システムを備えた高級マンションだった。改めて奥田はお嬢様だったんだと思った。
六畳とままごとのようなキッチンのワンルームマンションに住む僕が、その境遇をうらやましいと思うこともなければ特別な感情を抱くこともない。
ただ、僕が彼女に抱いている奥田美和の幻影がぼやけて見えてしまう。そんなものこの奥田にとっては何の関係もないってことわかってるはずなのに、彼女との距離が広がるような気がした。
「ここでいいよ、ありがと」奥田はマンションの手前で僕から荷物を受け取る。オートロックの操作盤を解除して自動ドアの向こう側に消えてゆく奥田を見送る。
僕も樫尾町に出向く準備をしなきゃな、と考える。そこへ突然背後から聞きなれた声がする。
「彼女かぁ?」驚いて振り向くとそこには肩から一眼を提げた皆川さんが立っていた。
「びっくりした、なんでこんなとこにいるんですか!」さっきの喫茶店のウィンド越しに見つかっていたのかもしれないと思った。
「いちゃいけないのかよ。たまたまだよ。俺だってさ、たまには街のスナップなんか撮って癒しを求めるんだよ」
皆川さんは相変わらず生やした無精ひげをさすりながら飄々と言う。はたしてスナップ写真を撮ることが癒しにつながるのかどうかはわからなかったが、まったくどこに行っているかわからないと思えば、どこに現れるか知れないというこの男はどうやって毎日を過ごしているのだろうかと思う。
「彼女なんかじゃありませんよ、ただの同級生です」
「はん、同級生ね。かわいい子じゃないか」
「それに、僕にはちゃんと地元に彼女いますから」
「ま、別にどうでもいいけどな。せっかくだ伸也、夏休み暇だろ? ちょっと仕事手伝ってくれ」
いつものことだけど、どうしてこの人は他人の都合を無視して暇だと決めつけて、なおかつ自分の利益に誘導しようとするのだろうか。
僕は反射的に渋った顔をしたのだろう、皆川さんは即座に付け加えた「バイト代なら出すよ」と。
「皆川さんが、じゃないでしょう?」
「ばれたか」
急きょ駆り出された先は番組制作スタジオだった。小さな会社でほとんど従業員はバイトやパートで、皆川さんみたいなフリーのライターやカメラマンと提携してやっているという。美術系大学の学生や僕のような映像系の専門学校生もよくバイトできているらしい。
「僕みたいなのがこんなとこで役に立つとも思えないけど、いいんですか?」僕のその言葉に皆川さんは答える。「いいのいいの、人間五体満足なら使えるってもんだ」
そう、その言葉通り何のことはない、ロケ機材の整理と積み込み、それと関連資料のピックアップ。会社の倉庫と図書館を行ったり来たりし、何百項という単位で資料の本のコピーをこなす、別に僕じゃなくてもだれでもよかったような仕事だった。
「こういうのって、無断複製って言わないんですか」
「ばかやろ、あらゆる著作物は世に出た瞬間からコピーされる運命なんだよ。それだけ必要とされてるってことを誇りに思うべきだろ」確かにそう言われてみれば妙に納得する。
世の中には書いたはいいけど、ほとんど誰にも読まれない本なんて腐るほどあるはずだった。それに、こういった資料はまず書店に並ぶことはないうえに、買うとなると何万円もすることは少なくない。
「なんだか華南半島の資料が多いですけど、やっぱりあっち関係の番組なんですか?」
「まあな。デリケートな問題だが、国民の関心ごとってのに応えるのはメディアの使命だからな。とはいえどこいつを取り扱う局もしっぽ切りを考えてこの会社に依頼してるんだろうが――、危ない橋を渡るのは渡らなきゃいけないやつだけで十分なのさ」
「渡らなきゃいけない奴って皆川さんとか?」
「ごめんだね。知恵は貸すけど責任なんてまっぴらごめんだ。俺は勝算五分の勝負はしない」そういって皆川さんは僕のコピーした資料を持ち上げてチェックするようなそぶりをした。
「へぇ、こんな本もあるんですね」僕が手にとったのは『華南の謀略』というタイトルの、いかにも陰謀論ですっていうフォントで書かれたタイトルと装丁の文庫本だった。皆川さんが好きそうな本だ。
「ああ、それ俺の本だ。図書館の本と間違って持ってきちまったんだな。貸してやるから持って帰れ」やっぱりそうか。それに誰も貸してほしいなんて一言も言ってないんだけど。
「どういう内容なんです?」
「そうだな、簡単に言えば――今の朝華教国は王族不在の傀儡政権だってことだ。しかも操っているのが合衆国だってぇ話」
「はあ、絵に描いたような陰謀論ですね。こんなバカバカしい本誰が書いたんですかね?」そう言って改めて表紙を眺めるとそこには見慣れた名前があって、顔を上げて皆川さんを見ると彼は所在なく無言で目をそらした。
“俺の本”ね、なるほど。
バイトも一週間目を迎えた。仕事は段取りが七割っていうけど本当だな。準備しなきゃいけないことがこんなに多いとは思わなかった。皆川さんですらほとんど無駄口を叩かずあっちこっちを走り回っている。
僕も出発までに実家に一度戻ろうと思っていたのだけど、昼間はこっち、夜は居酒屋で、そこからさらにバイクで南辺まで帰る体力と時間がなかった。
そのバイトの只中で皆川さんと図書館で少し話す時間があったので、かねてより思っていたことを訊いてみた。
「あの、ちょっとこれ見てもらってもいいですか?」僕はキャビネサイズにプリントしたモノクロの写真を取り出して皆川さんに渡した。
「なんだ、これ?」目を細めながら例の、僕が『ナチュラル・ガール』のコンテストに応募した奥田の写真を凝視している。近づけたり、遠ざけたり。
「誰に見えますか?」僕の中では一発で驚きの顔に変わるものだと踏んでいたのだけど。
「ピンが甘い、焼きが甘い、さらに現像ムラ」
「いや、そうじゃなくて……」
「て、ゆーわけで落選」
「えっえ、なにそれ?」
「俺、審査員してたの、ナチュラル・ガールの。ま、今もっとも輝いてるカメラマンの僕ちゃんだからさ、あちこち引っ張りだこな訳よ」
「……まじですか」
「マジマジ。これ、お前が撮ったのか。写真学校のあの子だろ? 彼女がどうかしたか? それとも力作を褒めてほしかったか?」
「いえ……まあ、いいです」
かなり恥ずかしかった。正直自分ではよく撮れていると思っていた分、墜落の衝撃は大きかった。なるほど、残念ながら入選を逃したどころではなかったという事だ。しかも僕が出したということまでばれた。
対してLittle Flowersは普通に見ればかなりショッキングな画像だ。特に近年まで戦争や死が間近に感じられなかった僕らの国で、これを載せることはかなりハードルの高い作業だったはずだ。
モノクロームのその写真は、僕が血を流して眼を閉じ横たわる奥田の手をとり半身を支えている、その傍らに一輪の花がある。それを僕の正面から横位置に構えて撮影したものだ。
だから奥田の顔ははっきりと写っており、僕のうなだれる顔が不鮮明に写っている。当然その前後写真や、他のカットもあるんだけどその写真以外は公表されていない。僕も一度見せてもらっただけだ。
僕が知る限り皆川さんなら中学生の奥田とはいえ、その顔はかなり鮮明に判別できると踏んでいた。僕にはフラッシュバックのような瞬間的な記憶とそのLittle Flowersの画像しか当時の奥田の顔を判別する術がなかったから、あえて僕は皆川さんの反応が知りたかった。
つまり、奥田美和と奥田が似ている、いや瓜二つだというのは僕の思い込みに過ぎないということだ。それに、第一彼女と奥田が似ているといってどうなるものでもない。
彼女が生まれ変わって僕の前に現れてラブストーリーでも始まるのか? 僕の物語にそんなファンタジーな要素はないだろう。
気を取り直して短く息を吐いた。コピーした資料をファイルケースに入れて車へと向かう。おんぼろな軽自動車だ。さすが零細製作会社。
それにしても皆川さんは奥田の眼鏡を外した顔を見ても、一発で彼女だと識別できるんだな。さすがというべきなのか、僕が間抜けすぎるのか。
信号待ちで煙草に火をつけながら皆川さんは言った。
「で、伸也はいつからあっちに行くんだ? 俺たちは一週間後からの出発だがよかったら乗せて行ってやろうか?」
ちょうど僕もそのくらいの予定だった。バイクで行く予定だったからそれなりに心構えもしていたつもりなんだけど、ガソリン代とか煩雑なキャンプ道具の準備のことを考えると“旅費が浮く”というスケベ心が顔を覗かせた。
「いいんですか? 俺、会社の人間じゃないし向こうで行動を一緒にするわけじゃないんですけど」
「かまわんよ、席は空いてるからよ。それに宿だって定員はアバウトだから一人や二人構わねぇよ。馴染みの常宿だしな。じゃあ火曜日の午前二時にここに集合な」
この誘いは皆川さんとつるんで初めてラッキーだと思った事かもしれない。それにこういう業界の人たちの話を聞けるのも大きな収穫だと思った。
いずれ何かの形で引き合いが僕にも来るかもしれないなんて考えた。
しかしまさか、このおんぼろ軽自動車で行くっていうんじゃないだろうな。絶対高速で止まるぞ、これ。
「ちなみにこの車じゃないですよね?」
「ばかやろ、こんなおんぼろ、途中で焼付いちまうよ。俺のはれっきとした高級外車だぜ?」
そうだろう、皆川さんのここ数年のメディアの露出度と印税を考えれば、車の一台や二台は軽いもんだろう。