17-2
ふもとまで降りるには管理棟を経由したほうが早いはずだと、小雨の中、僕は昨日の階段の近道を早足で降りる。まだ朝も早いが管理棟周辺にはちらちらと人が動いているのが見える。十人かそこらくらいの男女入り混じったスタッフが、揃いのTシャツを着て集合している。朝のミーティングだろうか。
僕は彼らに見つからないようにそっと脇を抜けてキャンプ場の出口の門へと駆けてゆく。このキャンプ場がどのくらいの標高にあるのかは解らないが、それほど山奥というわけでもないだろう。徒歩で海の傍の街まで降りるのは骨が折れるが仕方ない。
雄輝さんたちが明け方に僕の荷物を片付けに朝霞荘に向かったなら、もう到着していてもおかしくはないけど、僕を置き去りにした今、彼らが真っ先にその行動をとる理由が思いつかない。彼らはイムを連れてどこに行った?
とりあえず街に向かうくらいしか今の僕に出来ることはない。だが道がまるで判らない。
また言いつけを守らないのか。そうだ。何が正しくてこんなことをしているのかわからない。だけどイムは助けなきゃいけない。雄輝さん達が何を考えてイムを連れだしたのかはわからない。彼らとて元国防軍兵士だ。今の今まで彼らは自分たちのスタンスを僕に聞かせることはしなかった。
昨日ここで電話を借りた上に、忙しくしている彼らにさらにネットに繋がせてくれと言える空気でもなく、そのまま市外通話の分を上乗せした小銭を渡して早々に退散していた。
雨はさっきよりも強くなってきていて、僕は早くもびしょ濡れになってキャンプ場の門から曲がりくねった舗装道路を下ってゆく。何の役にも立たないけどジャケットのフードを頭にかぶって黙々と地面を見つめて小走りに駆ける。
ろくに前を見ていなかったせいで、後ろのほうの曲がり角で音がしたと思った時には、重質量の脈動がすぐ横をすり抜けて肝を冷やした。それは目の前で赤いテールランプを点灯させ停止した。中型のオフロードタイプのバイク。トレールバイクってやつか。どうやら僕のことを気にして止まったらしい。
「ねえ、君! 昨日の?」けたたましい排気音の中で半身をねじり振り向いて声を掛けてきたのは女性だ。黒いヘルメットにレインウェアの襟を口元まで引き上げていたため、顔の大部分が隠れていて判別できなかったが、口ぶりからしてキャンプ場のスタッフだということは判った。おそらく、昨日電話を借りた時にいた……。
「ああ、昨日はどうもありがとうございました」僕は口元の襟を下げる彼女に近寄り頭を下げる。だが、彼女は眉をひそめ妙だという顔を作った。
「っていうか、昨日に今朝って……君、一晩ここにいたの?」ああ、そうか。彼女からしたら僕はこの山の中のキャンプ場のどこかで野宿していたって感じなんだろう。
「いや、そういうわけじゃないんだ。ほら、ここの管理人さんの後藤さんって人のログハウスに泊めてもらってて……」そこまで言うと彼女は顔を崩して笑顔を見せた。
「ああ、そういうことかぁ。それなら昨日もそう言ってくれたらよかったのに。で? 朝から濡れ鼠になってこんなところで何してるの?」
何してるかって、説明するのが面倒なのでこう応えた。
「好きで歩いてるわけじゃないよ。ふもとに行くのはこの道でいいのかな?」すると彼女は「歩いて降りると随分かかるよ。なあに? 君、置いてけぼりにされたの?」そうだよ、その通りだ。
「あたしも今から後藤さんのお使いで降りるけど」そう言って彼女はたすきに掛けたかばんを叩いた。
「え……後藤さんの? 彼らはいつ出て行ったの?」
「わかんないけど、さっき電話でね、何でも急用が出来たとかで、代わりに役所に提出する書類を出しておいてくれって……?」
「……なあ! 後藤さん、何処に向かったかわかるか?」思わず彼女の二の腕を掴んでいた。
「そっ、そんなのわかんないよ。君もふもとに降りるの?」
「ああ、道を教えてくれるだけでもいい、あとは自分で行く!」
天を仰ぐ彼女にそう告げる。すると彼女は「いや……、面倒だから後ろ、乗って。街までなら連れて行ってあげるよ」と、含みのない視線を僕に寄越した。
ありがたいというかなんと言うか、行きずりとはいえ女の子の運転するバイクにタンデムとは。
でも、この娘、上手いな。車格もかなりあるし、シート位置が高くて男でも足つきは悪いバイクなのに、まるで自分の手足のように操っている。
「バイクはずっと乗ってるの?」
「うん、十六のころからだからまだ四年だけどね、君も乗ってるんでしょ?」
「えっ?」てっきり僕は彼女が同い年と勝手に思っていたので出た言葉だ。
「重心の移動がうまい、慣れてるってわかるよ」
「残念ながら爺ちゃんのおさがりの原付だよ。このバイクは、えと……君の?」
「あたしも父が乗ってたのを譲ってもらったんだけどね。まあ、でも慣れるまでには結構時間かかったよ。いわゆる乗りこなすってやつ?」
「へぇ、うらやましいな」
独特のエンジンの脈動と小気味よい排気音の中で僕らはそんな会話を続けていた。雨が強くなってきて、なんだか無用な荷物になった分、申し訳ない気持ちもなくはなかったけど、こんな無茶な状況でそれをあえて口にするのも失礼な気がしていた。
交通量の少ない国道を右折すると橋にさしかかる。たしかここは一昨晩に僕とイムが雄輝さんたちと出会った場所だ。あの日からの状況変化に妙な気分を感じつつ、橋の向こう側の北岸市の市街地へと視線を転じる。
空は低い雲に覆われていて雨は止む気配を見せない。携帯もない。足もない。伝手もない。考えたらこの広い市街で彼らを探すなんて無茶なことだ。
「ネェ、君は後藤さんとはどういう知り合いなの?」雨の中を疾走しながら彼女がヘルメットの頭を少し左にずらして言う。
「えっと……知り合いといえば知り合いなんだけど……なんつーか、話すと長いんだよ」
そう、本当に長くなるし、バイクに乗りながら話せる内容でもない。
「ふうん……君はここの人じゃないんだね。どこから来たの?」
「主原だよ。実家は南辺」
「ああ、浜辺がきれいなところだね。ふうん。そうなんだ? あたしは生まれてからずっと北岸市から出たことないから行ったことないけど。いつか行ってみたいなぁ」
「え……じゃあ、戦争の、時も?」
「なにが?」
「戦争の時もこの街に居たの?」
「うん、あの戦争で家族は全員死んじゃった。それで孤児になったあたしたちを後藤さんが引き取って面倒見てくれたんだ。もともとあのキャンプ場の管理棟は後藤さんのお父さんが管理していた孤児院だったからね。キャンプ場と孤児院、今はその両方を取り込んでうまく機能させてる。あたしはそのままスタッフになっちゃったけどね」
僕が最初に彼らと出会った時、北岸市の手前の山道だった。ちょうど彼らはキャンプ場から降りてくる途中だったんだろう。
孤児か……そうだろうな。後に判ったこととはいえ、樫尾町じゃ民間人にも相応の死者がでた。殺されたのは奥田だけじゃなくて、大勢の大人も死んだ。僕が走り回っていた町で倒れていた人たちの数を考えれば、その人たちの分遺された人がいるのも当然だ。
「後藤さんには感謝してる。あんなゆるゆるな感じだけど優しくて、芯が強いひと。一度決めたらぶれない強さがある。でも時にそれが危うく感じることもある」
「それは、どういうこと?」
「後藤さんは戦争の、あの戦争の責任を強く感じすぎてる――あの人が元兵士だって話は?」
「うん、知ってる」
「戦争を起こさせないのは政治家の仕事だけど、起きてしまった戦争の重さを左右するのは軍の仕事だって。優秀な士官が無血で戦闘を終結させた例はいくらでもあるって――でも、あたしはそれは仕方がないなって思う。だって戦争だよ?」
同感だ。特にあの北岸戦争の例でいえば、どうしようもない状況だったはずだ。宣戦布告以前のゲリラ攻撃、それに加えまるで違った箇所に目的の穴が開いていた。おそらく当時の軍部はそこまで掌握できていなかっただろう。あの状況で戦闘を回避するなどどんな優秀な士官であっても無理だ。
そんな後藤さんがイムを連れてゆく理由は何だ? どこに連れてゆく? 彼に野心はないと思う、だからイムをどうこうしようなんて気はないと思うんだ。そんな彼がとる行動はなんだ?
「でもねぇ、後藤さんはやめさせたんだよ」
「なにをさ?」
「竹田島って知ってるでしょ? あそこで死んだ人はいないって。上陸する前に後藤さんが攻撃をやめさせたって言ってた。呼びかけたんだって、相手の兵士たちに」
竹田島は小さな島だ。領有権争いの中でクローズアップされてこの国の人間で知らないものはいないだろうが、とても人が住めるような島じゃない。大きさはせいぜい百ヘクタール、つまり一キロ四方の小さな島だ。当然川もなければ平地もほとんどない。海に突き出た岩山の塊といった表現が一番しっくりとくる。雄輝さんも言っていた通り、竹田島には生活どころか基地すらやっと維持できる程度の施設があっただけだ。たとえそこに籠城したところで勝ち目なんてない。
そう、説いたのだという。
だがどうだろう、それだけだっただろうか? 雄輝さんは彼らに対してあの戦争の目的がどこにあるのかを知らせたんじゃないのか? だから兵士たちは投降した。
なぜなら竹田島を占拠し防衛していた者の多くは、華教派、教主派のいずれのイデオロギーにも染まっていないであろう若い兵士だった。そこでこの戦争が国家元首たるマーシェイナの血筋を絶とうとする謀略だと知らされたならばどうだ。それも自らの国家そのものが傀儡であると知ったならば……。
雄輝さんがあの時点で一切合財の陰謀に気づいていたとしたら、もしかすると僕らは彼らの掌の上に最初からいたのかもしれない。
「ねえっ、漁港に、樫尾港に連れて行ってくれないか!」
「樫尾町? 別にかまわないけど――この天気じゃ市街は混んでるだろうから近道する、ちょっとつかまって」そういって僕の手を取り自分の腰に回す彼女。濡れたレインスーツの下のTシャツごしからだとまるで地肌に触れているようで、手のひらの収まりどころに迷った。しかしそんなことを考えていられたのも一瞬だ。
驚いたことに彼女はおよそ普通の車両が走れないような荒れた路面の横道に進入した。
林道という奴だろう。車高が高い分路面からの衝撃はさほどではないが、幾度も車体を跳ねさせる。砂利混じりの林道はただでさえ滑りやすいのに、さらに雨で泥になった路面は簡単にタイヤがグリップを失って左右にスライドする。
「うああ」体が硬直して思わず悲鳴が漏れる。かっこ悪いとか言ってられない。
「バイクなんて走って何ぼよ、このくらい走れないと近道の意味ないって」彼女はこの道を走り慣れているようだった。むしろ楽しんでる? いつしか僕は彼女の細く柔らかな腹部に指が食い込むほど強く抱きかかえていた。




