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鳥の鳴き声がまず耳に入ってきた。寝ちゃいけないな、明け方には出発だった。起きていなきゃ……瞼を開くと無垢のフローリングにモノクロームのような光と影のぼやけたコントラストが飛び込んでくる。あれ、日が昇ってるんじゃないか? 窓の外は薄曇りだ。明け方って……ちょっとまて。
机に突っ伏して完全に寝落ちしてしまったことに気づいたとき、そこには誰もいなかった。広いリビングはしんとし、落ち着き払った空気が佇んでおり、僕だけが腹の底からこみあげる熱を出している存在のように思えた。
まてよ、なんかの間違いだろ、雄輝さんはまた裏のデッキで朝風呂でも沸かしてるんだろ? 恵美さんとイムは山菜でも取りに……。
裏口のドアを開くまでもなく僕は立ち尽くした。
ちがう……僕は――置き去りにされたんだ。
テーブルの上には一枚の書置きがあった。恵美さんの文字と思われる。
“伸也君へ あなたが起きてこの書置きを見たらすぐにここを出なさい。戸締りは気にしなくてもいいから、今度こそまっすぐ家に帰るのよ? それからイムさんの事は心配しないで。これは彼女と私たちが相談して決めたことなの。黙っていてごめんね。仲間はずれにされたって思われるかもしれないけど、問題はそんなに簡単なことじゃないの。あなたはあなたの未来を大切にしてほしいから、これ以上この問題には関わるべきじゃないって、これが私たちの出した結論です。ごめんなさい、本当に。あなたはやっぱり今も賢くて勇気がある。もう一度会えてうれしかったよ。じゃあね”
A4の紙に整然と並べられた文字は僕の目の前で震えていた。じゃあね、って……なんだよ、まっすぐ家に帰れって、このまま忘れてそ知らぬふりをして帰れって、そんなに僕が邪魔なのか? 僕だって好きでこんなやばいことに首を突っ込んだわけじゃない。嫌なことも全部思い出して、何があって、何が起きているのかを知って、それでも……。
僕は手紙を掴んだまま、膝の力が抜けて、ずるずるとフローリングの床に力なく転がった。窓の外は雲行きが怪しくなってきて、リビングに差し込む光は僕の心中のように暗く落ちてゆく。
加賀さんと話をつけて全てなかったことにする、それでよかったんじゃないのか? イムはこれまでと同じようにこの国で暮らしていくことを許してもらえれば、……王族の末裔だなんてことを漏らしさえしなければいいんだろ。
僕がこのまま大人しく家に帰るなんて、それでいい訳になるのか? 皆川さんに会ったら僕はなんて言えばいいんだ。……いや、なんで皆川さんに気を使わなきゃいけない? そもそもあの人が奥田の家を訪ねたりしなければよかったんだ。そしたら……。
掃き出し窓の向こう側のデッキを雨粒が点々と染めてゆくのが見えた。僕はそこに美咲の顔を重ねていた。僕の大事な人……。そう、美咲は今も南辺で、ちょうど今の時間ならベッドから這い出して眠い目をこすっている頃だろう。父も母もいる。地元の同級生も相変わらず夜中までバカをやって今頃寝こけているだろう。学校のみんなはイムがいなくなったことも知らないで、課題の撮影を北岸市のどこかで続けているだろう。もしかするともう主原の下宿にめいめい帰っているかもしれない。アリさんは今どこでどんな作品を撮っているのだろう。
よろよろと起き上がり、テーブルの上に置いたままになっていたF4を手に取った。ロケに向かう端からロケ中も、一昨日の大立ち回りも、そのあとの遁走、そしてここに来てからも、ずっと一緒だった。そしてこいつがフィルムを焼いてきた。ずっと重いカメラだと思っていた。大柄で無骨で、それでいて世界的に有名な工業デザイナー仕込みの流麗なラインは簡単にはアイデンティティを崩さない高貴さとずうずうしさを醸し出している。
なぜ写真を撮るための機械がここまで大きく、細部にこだわりをみせるデザインになるのか。単にフィルムを給送できればそれでいい、レンズから光を取り込めればいい、小さくて軽いカメラなんていくらでもある。だけど開発陣はこれでいいってゴーサインを出して製品化された。手に馴染むかっていうと馴染まない、肩にかけて歩くとその質量ゆえ、肩がこり、わき腹に当たると痛い。人間に配慮はしてくれない頑固さがある。
“使いたければお前があわせろ”今の機械にはない暗黙のルールがある。使いこなす、でなきゃいざというときに撮れない。使い方を覚えるんじゃなくて本能的に、自分の視覚の延長のように全てを瞬時に同期させて、シャッターを切る前に考えをまとめろ。そう、皆川さんは言っていた。
自分の持ち物だから全て自分が上手く使いこなせるってわけじゃない。いい機械なら上手くゆくという要素は何割かあったとしても、大部分はそれじゃない。大切なのはそれを扱う人間の気持ちだ。僕は皆川さんの言葉をそのように捉えている。
カメラの重みは被写体への重みだとも言っていた。ならばカメラとの齟齬感は被写体との距離や違いを僕が感じているということなのではないかと思わされる。
何処までいっても覚悟なんてしきれるものじゃない。イムと僕の、世界の異変と僕の、彼らや彼女らと僕の距離が縮まることはない。だけど手を伸ばせば届くかもしれない。いつだって引きちぎれそうなくらい手を伸ばし続けなきゃ、つかむ努力をし続けなくちゃ、ずっと僕は手が届かなかったといって諦め顔で生きるだろう。
雨が降り始めていた。椅子の背もたれにかけていたジャケットをつかんで、たくさんあるポケットからバラバラに入れていたフィルムをウェストバッグに放り込んだ。
この雨の中でどれほど防水の効果があるかはわからないけど、Tシャツ一枚で歩くよりはましだろう。フードを巻き込んで収納している襟のファスナーに指を掛ける。たぶんフードを使うのって初めてだ。そう思いながら膨らんだ襟についた金属製で動きの渋い無骨なファスナーを開く。巻き込んで折りたたんでいたフードを引っ張り出す。するとそこからカランという音を立てて、無垢のフローリングの床を二回ほど跳ねて転がった何かがあった。
撮影済みのフィルムだ。
なぜこんな所から……。僕が普段使っている種類のものじゃない。それに、古い。
もしかして――ずっとここに仕舞ってあったのか。四年間もの間。
皆川さんの、フィルム。
彼はあの当時二台のカメラを持っていた。メイン機とサブ機。プロのカメラマンが二台のカメラを提げることは珍しいことではない。一台がトラブっても撮影続行が可能なように最低でも二台は持ち歩くのが普通だ。
事実、あの時僕を抱えて樫尾町から逃げる際に、教国の兵士から銃撃され、そのうちの一発がカメラに直撃して一台が破損した。もう一台が無事だったからLittleFlowersは世に発表された。
ならば、このフィルムは。あの時彼が僕に手渡したフィルムは、破損したほうのカメラに入っていたほうで、皆川さんの部屋で保管されている銃弾を受けたカメラ、世界をひっくり返すスクープを収めたはずだった、と言っていたフィルムそのものじゃないのか。
彼が、皆川さんが、そのことを忘れているはずなどない。
あの時わざと僕に渡したんだ。
閉まる列車のドア越しに彼は何かを僕に告げていた、白い歯を見せて、真っ黒な目で僕を見据えて、言っていた……。
カメラのストラップをたすきにかけて、その上からジャケットを羽織る。僕はログハウスの出口に向かう。
覚悟なんて出来てない、きっと目の前に黒か白の判断を迫られたとしても瞬時に覚悟を決められるほど僕は正しい人間じゃない。だけど、今やらなきゃいけない事ははっきりしている。




