14-1
目の前に急ブレーキをかける車があった。もうダメだ、思わず目をつぶり、足がすくんだ。
ゴムの焼けた嫌なにおいが辺りに立ち込める。こうやって取り返しのつかないことになった時、自分が直面していることの大きさに恐ろしくなり、深く悔いるなんて馬鹿だって、そう思っていた。
いつも自分は安全な場所からわかったような顔で言うのは簡単だ。それが目の前で間に合わなかった時に言い訳をはじめるんだ。僕は吹き出る汗を冷たく感じながらアスファルトに膝まづいて拳を強く握り締めた。
奥田を助けられなかった。だからイムを助けるのか。違う、そうじゃない。僕はイムを助けたいって思ったんだ。なんにもできないかもしれないけど、何かの役に立てるかもしれないって。何にも思いつかないけどもしかしたら何とかなるかもって、彼女の少しの希望になればいいって、思ってたんだ。
「だいじょうぶ!?」
別の女性の声が聞こえた、まだ僕は記憶の混濁があるのか。前にもこんなことがあったような気がする。デジャヴュってやつだろうか。
「あぶねぇなぁ」男性の声も聞こえる。
「ねえ! 君」女性の声が僕の腕を叩いて促した。
大柄な四輪駆動車は道にへたりこんだイムの目の前で停車していた。
車を運転していたのは男性の方、女性はイムを助け起こしていた。
「君、なに突っ立ってるの!」女性が僕の方を強い視線で見ていた。三十代半ばくらいだろうか男性も同じくらいの年頃で夫婦のように感じた。
「事情はどうあれ、いきなり道路に飛び出すな。危うく轢くところだったぞ!」男性が僕に言った。イムは驚きのあまりまだ立ち上がれそうになく、縁石に座り込み膝に顔をうずめて泣いていた。
僕は震える膝から崩れ落ちそうなのをこらえて、その言葉を受け止めることしかできなかった。
「君たちはどこから来たんだ?」男性が息を吐いて、眉をひそめて僕の方を覗き込んだ。男性としては少し長めの髪で、ゆるいパーマをあてている。そこから覗く顔は無精ひげを生やしてはいるが、精悍で引き締まった大人の男を感じさせていた。対して女性はショートカットで目尻が鋭く気のきつそうな印象を覚えるが、イムの肩を抱くその手先に女性らしい優しさが垣間見れた。
「僕たちは……北岸市から来ました」別にその答えが何かを意図するとは思えなかったが、男性は一拍おいて少し迷ったような表情になった。
「北岸市から? 歩いてここまで来たのか?」
「ええ」
「何処へ行くつもりだ? この先はずっと山道でコンビニすらないぞ」
それは知らなかった。とにかく北岸市から離れることしか頭になかったから、とにかく隣町に行くなら、西へ向かえばいいだろうって思っていた。僕らは彼らが不思議に思うほど長い距離を歩いて来たのだろうか、そんな気はしなかったのだけど。
「こんな時間にこのあたりを歩いている人間なんてめったにいないからな、狸や猪ならまだしも……」男性は僕らに怪しいところがないことを見越したのだろうか、赤いチェックのネルシャツの胸ポケットからタバコを取り出し火をつけた。
「あの……すみませんでした。気をつけます」僕は男性に向き直り頭を下げた。
「ねぇ、君。彼女ショックで……少し休ませたほうがいいわよ」女性が僕のほうを振り向いて言った。
「ええ、そうですね。そうします」自分でも覇気のない返事をしたと思った。彼らは互いに顔を見合わせていた。
僕の体は小刻みに震えていた。
「その歳で家出というわけでもあるまいし、まして駆け落ちとも思えん。何か事情がありそうだが? 言いたくなければ構わんが、俺としては君たちのような若者を見過ごす訳にはいかないんだよな」
「どういう、ことですか……」思わずぎょっとした顔を男性に向けてしまった。
「ハハッ、警察かなにかだと思ったか? 俺たちはこういう仕事をしてる」そう言って男性は名刺入れを取り出して、僕に名刺を差し出した。
「青少年、野外活動センター管理指導員……後藤雄輝」
「彼女は妻の恵美だ。この先のキャンプ場を二人で運営している」
実際軍関係者か警察関係者の疑いもあると思って、僕は言葉を選んでいた。彼らの名刺を見て幾分気が楽になったのは事実だったけど、それでも僕もイムも素性を明かすのは危険だし、真面目に答える理由もないはずだ。ずるいとは思うけど。
「とにかく乗れ、どこまでか知らんが送ってやるから」
これは渡りに船なのか、わからない。彼らが何者かわからないのに。というか彼らからすれば僕たちの方が明らかに不審なのだろうけど。
「名前は?」男性は運転しながら訊いてきた。「名前が無いと話すのも面倒なんだよ」僕はイムを横目で見て少し迷った。ここで本名を言う意味もないし、それはただ危険性を増すだけだと判断する。
「あの、えと、き、桐生……真一です。彼女は学校の同級生で……つまり」咄嗟に桐生さんの苗字が浮かんで言ってしまった。イムは……どうする? 横目で彼女を一瞥する。
「いいわ……しんいち。私はメイ・レイムといいます、台湊からきました」イムは僕を制して自ら半島風の名を名乗った。しかも僕に合わせて偽名を咄嗟に作った。彼女は外国人とは判らないほど流暢に言葉を話せていたから、こちら側の名前に合わせても問題はなかったはずだ。けどそうはしなかった。僕が奥田美和の名前は使うな、と言ったのを“この国の名を使うな”と解釈されたような心地の悪さを覚えた。
「ふうん彼女は台湊からか、上手に話すからわからなかったよ……真一は北岸市から来たって言うからここの人間じゃないんだろ?」男性はルームミラーを覗き込んで早速名前を呼び捨てにして言った。初対面の人間と話し慣れている感じがした。
「どういうことですか?」
「ここだって北岸市だからな。別に中洲の中心部だけが北岸市じゃないんだから、そっから来たなんて言うのは変だろ? どっから来たんだ?」
なるほどな、僕たちが北岸市から来たっていうことよりも、その言い方が問題だったわけだ。
「主原からです、彼女と旅行に来ていて、それで道に迷ったみたいで」
「で、喧嘩でもしてたのか?」
声には出さず照れたような笑いをしてみせた。
「にしても、紛争が終わってから樫尾町に行く奴は増えたもんな。どういう意図があるかは別にしても人の出入りがあるってのはこの田舎町には歓迎すべきことだけど」
「後藤さんは、ここで?」
「ああ、家は市内のマンションだけど、一年の半分以上は山で過ごしてるなぁ」
「私たちはね、キャンプ場の管理と指導を仕事としているの。主には地域の子供会や林間学校や、会社の研修や合宿で野外活動の基本的なことを教えたり手伝ったりしてるの」助手席の恵美さんが振り向いて言った。
「あの、僕たちは……どこか近くの駅で降ろしてもらえたら」
「それは構わんが、ここからなら北岸市駅がちかいけど?」
「いや、北岸市駅は……」即答してしまった。
「……おせっかいだとは思うが、何か困っているなら相談に乗るぞ?」
実際困っている。たとえ次の駅で降ろされたとしてもやはり路頭に迷う。それにもう彼らには随分怪しまれている。旅行と言いながら僕の荷物はカメラ一台くらいで、イムはボディバッグ一つ。その状況でどこの宿に戻るか、なんていう指定もしない僕らが不審でないはずがない。
「あの、今夜キャンプ場に泊めていただくことはできませんか?」イムが身を乗り出していった。
「うちか?」後藤さんはスピードを緩め、車を道路脇に止めた。室内灯をつけコンソールの脇から手帳のようなものを開いて恵美さんと顔を見合わせた。よく見ると車内は雑然といろんな書類やらメモ書きのようなものがところどころに挟んであったり、モバイル端末やアウトドアで使うような道具や、大きめの工具箱などが無造作に置かれていたりしている。彼らがこの車を移動拠点にしているのはよくわかるのだけど、率直に言うと汚い。
「ううん、あいにくね。今はシーズンだから……」
「ま、その調子だ、キャンプしたいわけじゃあるまい。管理棟なら泊めてやれるが……いや、やっぱあっちだな、たいした設備はないけど、そこでよければ寝泊りくらいはできるか」それを聴いて恵美さんも同意の目を雄輝さんに向けた。
「ありがとうございます」イムは手のひらを合わせて二人に礼を言った。僕はそれでよかったのかとまだ迷っていた。何をためらうことがあるのかわからないまま。




