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バスは北岸市駅に到着した。もう日が暮れかけていた。うだるような暑さは若干和らいだものの熱気がまだアスファルトからもうもうと放射されて、まるで蒸し風呂のようだった。
夕暮れを前にした夏の盛りの北岸市駅前は人でにぎわっていた。駅前の真新しい商業ビルには家電量販店が入っており、液晶テレビの長方形が幾つも並んでいた。そう言えば四年前くらいならやっと液晶テレビが普及したころだったのだなと、あの時見た北岸市の報道をぼんやり思い浮かべていた。今は巨大な五十インチ大の画面が主流で、画面だって格段にきれいだ。
夕方のニュース番組が今日の出来事とやらを呑気に流している。どこぞの動物園のアライグマが子供を産んだとか、野外体験で流しそうめん作りをしたとか、ローカルらしいほのぼのネタだ。
僕らの事は流れるそぶりもない。つまりは事件として挙がっていないという事だ。当然警察も駆けつけなかったと同義だ。加賀さんが言っていたように公安組織は動いたかもしれないが。
画面が切り替わり、見た景色の中を、政治家らしい人物が歩いている。元内閣総理大臣、つまり矢部輝夫元首相。北岸戦争の陣頭指揮を執った司令官であり、紛争を短期間のうちに収めた敏腕政治家であり、国民を狡猾に欺いた謀略家でもある。
矢部輝夫、内閣総理大臣。
北岸戦争を終結に導いた英雄であり、国民世論を恣意的に欺いた謀略家。彼が指揮した北岸戦争以降、国防軍入隊志願者はそれまでの三倍の数に膨れ上がり、国防費予算は年を追うごとに水増しされて今に至る。
実質的に軍事力は増大し、自衛力の充実と共に駐屯する合衆国軍基地の縮小が行われた。
自国自衛による独立国家。僕らの国は今の今までそれが出来ていたのかといえば、答えはノーだ。紛争地への部隊配置、海外派兵、銃器携行および使用、並びに兵器製造および輸入と輸出、これらが全て政治以上にこの国が抱え込んでしまったイデオロギーにより制限されていた。だから法解釈で可否を問うという不毛な議論が延々となされてきた。
そういった意味では防衛庁が国防省に、防衛隊が国防軍へと昇格した意味合いは大きかった。そこに一定の混乱と反対運動はあったが、時の政権幸田内閣により半ば強引に推し進められた。
その流れを継いで、竹田島紛争に対峙したのはこの矢部首相だ。
先の紛争において彼が直接的な悪事を働いたわけではない。戦闘行為の事実の矮小化を狙ったと非難される報道規制にしても、有事特定情報保護法として法的には認められている。彼の弁によれば戦争とは正常化までが一つの区切りであり、戦闘状況の終結だけが終戦ではないという詭弁をふるって、情報統制の正当化を説いた。
もちろんそんなもので遺族は納得できないと思うかもしれないけど、非常事態宣言が解除されるまでは国民は国の統制下にあり、一定の制限を受けることは法律でも定められている。
そのことを知ったのは僕も最近だったのだけど、彼が責められた一点は、国防軍の体裁を守るために、ありあわせの脆弱な部隊配置で対処しようとした樫尾町奪還作戦にある。しかしそれも解散総選挙という禊で有耶無耶にされつつある。当時の軍司令部は総辞職したが、結果として先の情報保護法とのすり合わせ作業でしかなかった。
国民は実感のない戦争と、再び舞い戻ったであろう平和に身を寄せて、これらへの関心を薄れさせていった。僕が記憶を失っている間にそのくらいの、その程度の変化が起きた。
でも、結局紛争後のスキャンダラスな事実のため内閣は解散に追い込まれ、総選挙が行われた。当然それまでの政権与党は惨敗し、戦後初の政権交代が今期行われると思われた。
当時“戦後初とも言える、国民による能動的な意思の表れ”が選挙の結果となるだろうと、皮肉たっぷりに政治アナリストがコメントしていた。
そのくらいこの国の国民は政治には興味を示してこなかった。大戦後、なんとなく平和で経済成長が続いたから、何も考えなくてもよかった。だから、竹田島だって放置され続けた。
そんな長い時間をかけて培われた平和ボケは今だって抜けることはない。たった四年前を忘れたかのように、矢部元首相のことを“戦火の拡大を最小限にとどめ、周辺諸国の懸念を緩和した”として一部では英雄視すらされていた。
それは国民が裏側の事情を知らないからではない。過去の淀みは水に流してしまいたいだけなのだ。自分たちは今の世界に順応しているから、前を向いて進めばいいと、過去に縛られることなく次の時代を築けばいいと、ビジョンなき盲目の希望だけが再び広がっているという有様だ。
この国は歩く風見鶏だ、なんて揶揄していたタレントがいたけど、立脚点を自らに置かないことをアイデンティティとしているという意味なら言い得て妙だなとは思う。
だから選挙はあっさりと矢部の所属する党派の勝利に終わった。あれだけのスキャンダルがあったにもかかわらず、政権与党は維持された。現在の野党連中に国を背負うだけの能力はないと国民が見限った結果だ。
しかし矢部は第二次内閣を組閣することはなく、その任を辞し、後釜に前矢部政権時代の官房長官であった石嶺三郎を就けた。
画面の中の矢部元首相は神妙な面持ちで樫尾町を訪れていた。昨日僕らがロケをした灯台だ。ニュースのナレーションでは、彼は政権発足直後の多忙な時期に急きょ、私費で樫尾町を訪れるというスケジュールを組み入れたのだという。その名目たるや、贖罪の念をもってまず、かつての戦火の町へと足を運び元内閣総理大臣として平和維持と社会安寧のために生涯貢献することを表明をしたいとのことだった。
これとて政治家としてのパフォーマンスだという事は知れるが、樫尾町サイドはおおむね歓迎ムードだというから呆れる。実際、彼を中心に人垣が出来上がり罵声が飛ぶのかと言えばそうではなく、皆一様に笑顔で携帯電話のカメラを向けている。
まあ、誰も直接的に彼に恨みを持つ必要はないからだろうけど、その流れは彼が時折見せるフランクな人間性が獲得した特権とも言える。悪く言えば厚顔無恥だ。明日はさらに足を延ばして竹田島に上陸するそうだ。戦没者の碑に手を合わせるのだという。
マスコミからすれば時代の一区切りを成した政治家の一人、この国の御意見番的な存在として、動向を捉えようと彼の周辺には常にテレビカメラとマイクが絶えることはない。
「木田君」
イムに声を掛けられるまで画面に注視している自分に気づかなかった。
「うん……」生返事もそこそこに、僕は画面から目を離した。
北岸戦争の事実を矮小化しようと腐心した矢部政権、結果国軍の保有は正当な権利ということを世論に認知させた。しかしその恣意的とも思える捨て身の策は功を奏した。他の野党に合衆国や大陸と折り合いをつける実力はない、という事を織り込んでいた。総選挙になったところで必ず勝てると、自身らの主義主張の正当性を裏付ける手段として選挙を行ったと言ってもいい。これじゃ過去の大戦時に行われていた一党独裁だ。
そして加賀さんらのような裏で暗躍する内務省の役人らを手足のように使うのだろうか。
「木田くん!」
「あっ、ああ、ごめん……とりあえず手持ちのお金を補充しておかないと。それに今晩どうにかしないといけないしATMと……ええと、宿を探そう」この国の都市部で現金自動支払機を探すなど造作もないことだった。どこにいても自分の口座から現金が引き出せる。
だけどそれは貯金の残高があってのことだ。三万円をおろそうと思ったら残高が足りないと表示されてしまう。あまりあるとは思っていなかったけど、予想以下だ。
それに言ってしまってから思ったけど、宿に泊まるということはイムと泊まるということになる……いくらなんでもそれはダメなんじゃないか、と美咲の顔が脳裏によぎった。
少し離れた別のATMで現金をおろしていたイムのことが気に掛かり、支払口から吐き出された残高の二万円弱を慌ててひっつかみ、足早に表に出た。
「どう?」イムがこちらに駆け寄りながら訊く。
「どうって?」
「お金、足りる?」
「なんとかなるよ」とはいえ二万円だけど。
「私、口座が止められているみたい。お金がおろせない」
彼女が奥田美和名義で口座を開設しているとしたら、公安の手により凍結させるのは簡単なことだろう。現金がなくなれば、あるいはなくなる前に必ず銀行窓口かATMに立ち寄るしかない。それができなければ自宅へもどるくらいしか手はない。ほかに行くところがなければ、の話だが。
「いいよ、俺が何とかするよ。今日は」
正直“今日”しか保たないことは確実だった。なんで僕はこの歳になってもこんなにお金がないんだ。情けない。
それに、すっかり忘れていたけど加賀さんたちが追っていったタクシーはとうの昔に無人で走らせていたことがバレているはずだ。ということは僕らがどこか別の場所に逃げたということも既に知れているわけで、あんまりこのあたりをウロウロもしていられない。
いや、ちょっと待てよ……。奥田の口座に手が入ったということは口座をマークされているということだ。つまり、ここのATMを介してイムが口座へのアクセスを試みたことがバレたんじゃないのか?
「奥……イム、やばいよ。すぐにここから離れなきゃ……」
「どうしたの?」
「北岸市を出る。すぐに」奥田家では彼女がいなくなったことを通報していてもおかしくはない。仮に加賀さんら特務室の連中が家族に話をつけていたとしてもイム、つまり娘の美和の捜索願が出されている可能性はある。
一方で内務省特務室がイムウァ・レイランを探しているとなればこれは都合のいい話だ。内務省直下で情報を共有する義務のない公安部が警察部に、“若い女性が若い男に誘拐されて連れ回されている”と都合よく情報を流せば全国各地の警察官が彼女と僕のような二人連れに目を光らせることになるからだ。それにこのATMの場所の特定がなされればどういうことになるか火を見るよりも明らかだ。
まずい、この先のことなんて何も考えていない。イムのことを守ると言ったものの、僕がちょっと考えてどんでん返しできるような状況じゃない。
「イム! 考えてる暇はない、今すぐここから離れるんだ。そうじゃないと僕らは身動きすら取れなくなるぞ」




