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「木田君?」


 奥田から声を掛けられるまで僕は道の上で立ち尽くしていた。雨はピークを過ぎ小康状態に移り変ろうとしていた。


 奥田の細い指が僕の手をつかんだ。冷たい手だ。僕はその手を両手で握りしめた。とたんにひざの力が抜けて崩れ落ちる。息が荒い、酸素が吸えない、胸が苦しくなる。目の前がざらざらとした黒いもので覆われてゆく。もうだめだ。


 奥田はそんな僕を支えようとして僕に寄りかかる。僕達二人は抱きしめあうように重なり合っていた。彼女の肩に顎を乗せて深く長く息を吐いた。同時に涙が出てきた。雨よりもずっと温かい。


「きだくん……」


「大丈夫、まだ、生きてる。今度はちゃんとやるから。今度はちゃんと助けるから」






 僕らがそうしている間に雨はやみ、西の空が赤みがかり始めていた。まるでさっきまでの雨が嘘のように雲の隙間から日が差し込み、さながら舞台にあてられたスポットライトの光線のようだった。


 農道をしばらく行くと街道に突き当たった。そのすぐ斜め前に木製の小屋のようなバス停が見えた。


「もうちょっとがんばって走っていればよかったね」イムは僕に向かって笑った。


「うん。でもまあ、涼しくてちょうどいいじゃん」


 僕はバスを待ちながら、Tシャツを脱いで雨水を絞った。腰に巻いていたフィールドジャケットもずぶ濡れだったけど、服を脱いで絞ることも出来ない奥田のために貸してあげた。北岸市駅前ならコインランドリー付きの銭湯くらいあるだろう、しばらくの我慢だ。


「ねえ、木田君。さっきすごく苦しそうにしてたけど大丈夫?」


「ん、ああ。心配かけてごめん。時々なるんだ。どこか悪いわけじゃなから大丈夫だよ。あの写真、リトルフラワーズのことについて皆川さんは奥田に何も言わなかったの?……その、俺――」


「美和さんの写真?」


「あ、うん」


「合衆国兵士に射殺されたってことだけしか……私は聞いていない」


「やっぱり……そう、なんだ」


 皆川さんは奥田に僕の事を一切話していなかった。だから彼女から僕は今の今まで“他人”そのものでしかなかったんだ。


 ここで改めて僕の立場を言うことはさらに彼女を追い詰めることになるのかもしれない。


 言わないほうがいい。彼女は奥田美和の死にこれ以上関わる必要はない。


「いつか、皆川さんは彼女を見殺しにしたって言ってた。俺はどこかで彼を許すことができていないのかもしれない。いつもいつもコイツが武器だって、かっこいい事言って飄々としてて、軽薄で、大事なことはいつでも最後まで話さないんだ。自分は狙撃手だって」


 僕は目を落としてカメラをそっと持ち上げてみた。


「狙った相手を確実に射抜くポジションと的確な射撃タイミングをつかむことが大事だって。確かにリトルフラワーズという弾丸は世界を射抜いたよ。でも、その弾丸は結局奥田家と君の間も切り裂いた。皆川さんの目はいつもキラキラしてるのに、時折どこかに心を置いていってしまっている冷たさを感じることがある。だからあんな写真が撮れるんだって言ってしまえばそうかもしれない――」なんとなくそのあとの言葉が続かなかった。


 イムは黙って絞ったハンカチを僕に差し出した。その所作はあまりに自然で穏やかで、僕がしらず興奮していることを意識させるのに充分すぎた。


「ねえ、木田君。君は皆川さんのことが好きなんだね」


「なんだよ、それ」


「だって、やっぱり彼のことを信じているんでしょ」


「……人間としては大嫌いだ。だけど男としては認める、尊敬もする」


 イムは笑った。何がおかしいのかわからなかった。


「木田君も狙撃手じゃない」意味深な言葉にどきりとした。


「ええと、それは……?」


「写真を撮る側に回ることで、一生被写体になることから逃れようとするなんて変な話よね。身近に写真がある生活なら、いつかそんなことが起きたって不思議じゃないのに。なんだろ、私は結局こうなることをどこかで望んでいたのかもしれない、だから木田君と出会った」


「えっ?」


「ナチュラルガール」


「あ……」


 奥田は一言だけ言うと、ちらと僕の方を一瞥しただけだった。


「ごめん、黙ってて。結局採用もされなかったからあのまま黙っていようと思ったんだ」


 他意はなくとも、本当に入選しなくてよかった。もしあの写真が全国に貼り出されるようなことになっていれば、もうすでにイムはここにはいなかったかもしれなかった。


「実はあれね、皆川さんの自主回収だって、事情はそういう事。もちろん私がそのこと知ってたら私から引き下げをお願いしてたけどね」


 複雑な心境だ。僕が訊いたときには散々ダメ出しされたからそれなりにヘコんでたんだ。だけど蓋をあけてみりゃ結局僕は、国家機密を撮影したヤバい写真を投稿したにすぎなかった訳だ。


「結局君が事件の張本人になる可能性だってあったってことよね」イムは厳しく僕を追求するような言葉を発したが、反してその表情は穏やかに笑みを浮かべていた。


「それは、みとめる。本当にごめん」


「なら、責任とってもらわなきゃ」


「せき、にん?」


「道義的責任って聞いたことあるでしょ?」


「罪は問われなくても……ってやつか。俺になにを?」


「そうねぇ、私を平和のための捧げ物にしないように、私を守ってくれる……とか」


 無邪気、とも思える顔を彼女は僕に向けた。これが本来の彼女の顔。もはや彼女は僕の中にいる奥田じゃなかった。


 僕はだまって首肯するしかなかった。奥田じゃない、目の前にいるのはイムウァ・レイランなんだ。僕は状況の一部として彼女と行動を共にしている。彼女の手を引いて逃げた時からもはや言い逃れはできない。僕はもうすでに僕の意思で走り出してしまったんだ。


 彼女に言われたから彼女を守るんじゃない。かといって能動的に彼女を守ることを是としているわけでもない、今の僕に出来ることはそれしかないからだ。彼女すら守れずに僕が逃げ出してしまえば、僕は再び、間接的に奥田美和を二度も救えなかったことになる。またダメだったなんて自責の念に押しつぶされるくらいなら、とことん付き合ってやるって決めた。


 撮影済みのカメラのフィルムを交換し、何度か空打ちをする。内部に水が回ることもなく動作は問題なさそうだった。


 濡れた路面の反射光でバス停の小屋にたたずむ彼女の顔を捉えると、シャッタースピードはわずか四分の一だった。カメラの側で露出補正を加える。


 黒くつぶれてしまったイムの横顔の向こう側に輝く緑が見える。その蒼い背景に形どられた彼女の輪郭が奥田の横顔を思い起こさせた。


 堤防の上でジュースを飲んで二人で文化祭の成功を祝ったあの日。互いに目を合わせる事もなくただ横顔をちらりと見ることしかできなかった。あの日の彼女の横顔は夕日の赤に彩られていた。長い髪が風に揺れてその一本一本がひときわ赤色に染まっていた。


 まさかあの時は、今このファインダーの中にいる彼女の代りに殺されるなんて想像もしなかった。


 ふっと風が吹き、彼女は顔を背けてまだ濡れたままの長い髪を押さえ目を伏せた。ファインダーからその顔を見つめ続けた。風が止むと彼女は顔を上げ目を開いた。


 僕は僕の心の底にたまった澱が疎ましくて仕方がなかった。この四年間ずっと。その原因ともいえる彼女がイムウァ・レイラン。君は僕が助けようとした奥田が死んだ証でもある。そして、なにより僕らの仲間でもある。


「なあ、奥田。そのかわり、これからは君の事をイムって呼ぶ。奥田美和の名前を使うことは俺が許さない」


 僕は彼女の顔をじっと見つめて言った。


 今度は彼女が深い眼差しを向けて無言で頷いた。


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