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9-2

 やがて車は一軒の家の前に停まった。田園地帯には何軒かの住宅が密集した住宅地があったが、目的の家はそれより少し離れた、あえていうなら人目を避けたような小高くなった林の中にあり、隣や向いといった住居はなく、ここだけが独立して建てられた、地主の家という感じだった。


「ここなんですか?」


「君の聞いた住所が間違っていなければね」


 割と立派な家で、コンクリート造りのガレージには、高級そうな車が三台も停まっている。間口のほとんどはガレージが支配しているために、奥の家がどのような様子なのかはよくわからないが、その向こう側に広い庭があることは確かだ。大型犬らしき声が聞こえる。


 そしてガレージの傍らの門柱の表札には『OKUDA』の二文字。


 やはりここは奥田の実家に間違いなく、そして彼女がそこそこのお嬢様であることも間違いない。僕が知ってる中学の時の奥田美和はそんな雰囲気はなかった。特別お嬢様だって話も聞かなかったし、いや……そこまで彼女の事を知らなかったか。


 突然鉄製の門扉がガシャンと音を立てて震え、僕は驚いて後ずさりする。犬だ、とびきりでかいゴールデンレトリバー……。


「木田君!」それを追いかけてきたのか奥田が駆けながら手を振っている。なんだろ、少し雰囲気が違う。紺色のサマードレスにサンダル、黒く長い髪はポニーテールを結っている。こんな恰好をしている奥田を僕は知らない。それに眼鏡を掛けていない。


「こぉら、マイキー! いたずらしないの!」マイキーってのがこの犬の名前、ってそんなことはどうでもいい。正直……かわいい。いや、犬のほうではなく、奥田が。


「奥田、ごめんな。急に」


「ううん。今、散歩から帰ってきたところなの。この子とも久しぶりだから、甘えて大変なの――」


 奥田はマイキーが外に出ないように気をつけながら門扉を閉め、そして僕の隣にいる加賀さんを一瞥する。そしてどこか憂いを含んだ瞳で僕に振り返る。


「木田君。話を訊きたいというのは、この方?」急に顔をこわばらせた奥田に気圧されて、僕は黙って頷く。もはや口調すらあのぼやけた感じはなく、毅然としている。奥田、なんでそんな顔してるんだよ。


「初めまして、内務省特務室の加賀です。お目にかかることが出来て光栄です、王女様」一歩前に踏み出して、加賀さんが放ったその言葉が耳朶を打った瞬間、拍子抜けした。


なに……を、この人は言っているんだ? しかし、意思とは別に体が硬直している。それはこの隣にいる加賀さんのえも言えぬ威圧感の所為だ。


 だいたい“ないむしょうとくむしつ”ってなんだよ、加賀さんはカヲルさんのマネージャーで、元報道記者って言っていた……それになんだよ、奥田の事“おうじょさま”って。おじょうさま、じゃ……ないよなぁ。


 沈黙の中で見つめ合う二人を覗き見る。加賀さんは落ち着き払っているが、奥田は複雑な感情を隠そうと、無表情を貫いているように見える。


 そして音もなく近づいてきた黒いセダンが加賀さんの車の前に停車し、ドアから三人の男が降りてきた。黒ずくめのスーツにサングラス、耳にはカールコードの付いたイヤホンのようなもの。そう、ご想像通りというか、絵にかいたような秘密諜報部員。


「か、加賀さん……これは!」それでもようやく出た言葉がこれだ。


「伸也君――ありがとう。君のおかげよ」加賀さんは首をもたげて口元だけで笑って言った。人に感謝する顔じゃない。


「木田君は関係ありませんから。巻き込まないでいただけますか」奥田は声のトーンを落として言う。


「ええ、もちろんそのつもりよ」腰に手をあてた加賀さんは僕よりも背が低いはずなのに、僕を見下ろすように言う。なんだよこの高圧的な態度。それに萎縮して身動き取れない僕は?


「準備の時間をいただけますか?」奥田は口を真一文字に結んで加賀さんを睨みつけた。さっき門から顔を覗かせた時の麗しさはみじんもない。奥田はそのまま踵を返し家のほうへ引き込む。僕は彼女の背中を見届けてから加賀さんに向き直った。


「加賀さん! あなたは一体……」


「騙してごめんなさいね――これで君とはお別れよ。カヲルにも伝えておいて」


「こ、答えてくださいよ。なんなんですか! 奥田に何の用があってあなたは!」


「大きな声を出さないで、耳障りよ。さっき言ったでしょう、もっともそれを知ったところで君が理解する必要はない――真実なんて知る必要はないのよ、君が辛くなるだけだわ。彼女は利口ね、手間が省けたわ」


 これがB級映画なら、陰謀論の本を枕にして僕はいつもの宿の畳の上で目を覚ましている頃だろう。だが、この足の震えは本物だし、頭の芯から流れてくる汗も本物だ。


 周囲に気をつけながら、おもむろに僕は携帯電話をポケットから取り出す。しかしその行動は成し遂げられないまま制止を食らう。背後から伸びた手は僕の携帯を取り上げた。頭一つ大きな黒服の男がそこに立っていた。


「今は他言をしない、という約束よ」加賀さんは目を細めて横目で僕を睨む。


「だ、だって……僕は加賀さんが話を聞きたいって、だから案内したのに! ケータイ返してくれよ!」


「誰もここで、とは言っていないわ。皆川に手懐けろとでも言われて、あの娘と付き合っていたのかしら?」


「なんのことですか! 付き合ってなんかいませんよ、彼女はただの友達として……」


「そういう意味じゃない。奥田美和さんはあなたの腕の中で息を引き取ったって、あなた自身が言ったことよ。この状況がどれだけおかしなことかわかっているでしょう?」


「だったら! それが、なんだって言うんですか!? 世界に同じ名前の人が二人いちゃいけないって言うんですか?」


「ええ、いけないわ。この世にいない人間の名を騙るなんていけないことよ!」


 ドクンと心臓が脈打ち息が詰まる。この世にいない……この世にいないって、奥田の事か――なんで……奥田が奥田の名前を? だめだ、崩れるな。立って、目を開いて見るんだ、手を伸ばせ、声が出ない、足を踏ん張れ……。


「加賀さんは、あなたは、何者なんだ……なんで」息が苦しい。


「私はもちろんカヲルのマネージャーでもあるけど、本業は内務省の職員よ。君と出会えたのは僥倖ぎょうこうだったわ、おかげで皆川たちの目論見にも見当がついた」


「なんで奥田を……そのこと、カヲルさんは知ってるのか? それに、皆川さんの目論見って……」


「カヲルは何も知らないわ。もっとも、今ごろは彼らから聞かされているかもしれないけど……悪いことは言わないわ、これ以上首を突っ込まないこと、真実を知ろうなどとは考えないことよ。すでに公安が動き出している、彼らと行動を共にしたところで君に益はない。宿まで送るわ、乗りなさい」


 奥田が門から現れた。荷物はボディバッグ一つで、鍔広の麦わら帽子と眼鏡を掛けていた。そして僕に視線を向けることなく加賀さんにだけ、何か一言告げる。


 それはただ前だけを見据えた悲しい目だ。


 おい、奥田……どこ行くんだよ、そいつらなんだよ、知ってたのかよ? こうなるって知ってたのかよ? だから? だからあの時、もうお別れみたいなこと……を。錯覚的に地面が目の前に迫る。加賀さんのパンツスーツの裾からのぞくヒールと奥田の女の子らしいサンダルをはいた細い足首が遠ざかる。


 ちょっと、待って……。


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