第八章
普段と変わらない様子で家を出た景子だったが駅に向かうにつれて徐々に顔が曇る。もしかしたら電車の中で遼と遭遇するかもしれない。
景子の脳裏に昨日の光景が蘇る。修羅場を演じてしまった挙句に遼とのつながりすら断たれた光景を……。
「いけない。こんなことばっかり考えてちゃ……」
なんとか暗くなる一方の考えを振り払おうと努めた景子だったが、嘲笑うかのように神様の悪戯が景子に降りかかった。
「あっ!?」
景子が電車に乗り込もうとすると、車内に遼の姿を見つけてしまった。遼は気づいていないのか逆方向の外を眺めている。しかし乗らないわけにもいかないので、景子はできるだけ離れたところに行こうとしたが朝のラッシュはそれを許さない。後ろから乗り込んでくる乗客に押され、何の因果か景子は遼のすぐ近くにまできてしまった。
(どうしてこんなことになるの……)
景子は複雑な心境だった。遼の近くにいると昨日の光景が色濃く蘇る。しかしつながりを断たれたのにこうして遼の顔を眺めることができてうれしい気持ちもある。
(今は裕美さんがいないんだから近くにいてもいいよね? 不可抗力だし……)
景子は言い訳をしながら遼の近くにいつづけた。その表情は先ほどまでの表情から一変していた。幸せそうな表情。しかし、満面の笑みではないのは後ろめたさがあるからだろうか。
学校に着くまでの短い幸せを満喫しようと景子が大胆にもっと近付こうとするとあることに気づいた。
(何だろう、あれ? ポケットから落ちそうになってる……。そうだ、あれは遼さんの家の鍵!)
ポケットから落ちそうな鍵を見ると普段の景子ならそのことを教えるか、言えずに黙ってしまうかのどちらかであろう。しかし遼への想い、堂々と会えなくなった衝撃が景子の感情を蝕んでいた。
(あの鍵があれば遼さんの家へ上がれる……。私の知らない遼さん……。それどころか裕美さんも知らない遼さんさえ見れるかも……)
登校という正当な理由があるから毎朝遼を眺めることはできる。だがそれで満足できるほど景子の想いは浅くなかった。それ以上のことがしたくなるのである。そして今、その好機が目の前にぶら下がっている。
(あの鍵さえ手に入れれば……。あの鍵さえ……)
もういつもの思考ではなくなった景子はとうとう手を伸ばし、遼のポケットから鍵を盗った。それを自分のポケットにしまい、外部から見えないようになると異様な感覚に景子は襲われた。
遼に対しての罪悪感。それと伴って湧き上がってきた満足感と期待感。景子はこみ上げてくる笑みと荒くなる呼吸を堪えきれないために途中の駅で降りてしまった。
その瞳は最早常のものではなくなっていた。