第六章
次の日、学校へ行くための準備をしている景子であったが、その顔つきは常の顔つきではなかった。表情には強い決意が表れ、普段の彼女を知る人から見たら別人かと思うほどである。
今までの景子では好きな人ができても、躊躇して結局諦めていただろう。それも今回は彼女持ちの男の子である。場合によっては三角関係へと発展し、泥沼な展開になりかねない。
それでも一歩踏み出せたのはやはり沙希の存在があったからであろう。自分の恋を応援してくれる人がいる。そのことが景子の決意を促し、また支えているのである。
放課後、景子は決意を全く鈍らせることなく行動を始めていた。遼の通う滝川学園の校門前で遼を待つ。校門から出てくる生徒は多かったが、それでも景子は遼を見失うようなことはしなかった。
しかし同時に遼の隣にいる裕美の姿も視界に入ってきていた。遼に話しかけるには相当な勇気がいるところだが、今日の景子には一切障害とはなりえなかった。
「遼さん!」
普段の景子からしたら考えられない行動である。大きな声を出して、相手を呼ぶ。それも異性である。その勇気のこめられた声に遼は振り返った。
「あれ? 神原さん? どうしてここにいるの?」
遼は首を傾げた。学校が違うのに顔を合わせたのである。それに特別近くにあるわけではない。
「私の学校、女子高なので少し共学の学校を見てみたくなったんです。それで帰り道に寄ってみようと思って……」
理由としてはかなり不自然なものだが、遼は特に気に留めず納得したような表情を浮かべていた。しかし、隣にいる裕美は突然知らない女子が自分の彼氏に話しかけてきたので不審に感じていた。
「ねぇ、遼。この人誰?」
裕美は遼に問いかけたが、純粋な疑問ではなく少々不快感も混じっていた。相当な美人が彼氏に話しかけているのである。警戒するのも当然であろう。
「あぁ、こちらは……」
「はじめまして、私は花村学院2年の神原景子といいます。遼さんには先日痴漢に遭っていたところを助けてもらいました」
遼が話そうとするところを制して、自分から助けてもらったことを話した景子に対して裕美は警戒心を強めた。印象的な出会いを強調するかのような景子の態度を見て、裕美には景子の遼に対する気持ちが悟れたのである。
「はじめまして。私は斉藤裕美、遼の彼女です」
わかりきっていることである遼の彼女という言葉をわざわざ言うことによって、裕美は景子に対して立場を強調していた。
景子もそんな裕美の考えを悟り、お互いに表面上は普通に挨拶をしていたが、その実張り詰めた雰囲気を醸し出していた。
「そういえば神原さん、昨日は帰り道大丈夫だった? もう薄暗くなってたから少し心配だったんだけど」
そんな張り詰めた雰囲気を感じ取れなかったのであろうか、遼は開戦の鐘を鳴らすような一言を放ってしまった。
「えっ!? ちょっと遼。神原さん、昨日遼の家に来てたの?」
遼の言葉に敏感に反応した裕美は思わず遼に詰め寄る。その動きの素早さ、そして裕美の表情に遼は驚いている。
「あ、あぁ来たよ。痴漢から助けてもらったお礼をしたいってことで……」
遼は裕美の態度に驚いているため言葉が歯切れ悪くなっていた。その態度がまた裕美の不安を煽る。
「薄暗くなってたって言ってたけど一体何をしてたの?」
裕美が一番気になっていたのはそこだった。遼の家で何をしていたのか。そして薄暗くなるまでという言葉が気になるのである。
「い、いやただ世間話をしていただけだけど……」
またしても歯切れの悪い遼にもう裕美は我慢がならない。徐々に声の大きさも上がっており、明らかに怒りを覚えているのがわかる。
「あんたねぇ、こんな美人を家に上げたなんて聞いたら普通の女は不安に思うよ。そして答えも歯切れが悪いし……。私を不安にさせてるっていう自覚無いの?」
「でも、わざわざ家の近くまで来てくれたのにそのまま帰すのも悪いだろ?」
今まで泣きながら怒りの表情を浮かべていたが、その言葉を聞くと途端に腑に落ちないという顔になった。
「どういうこと? 遼が家へ連れて行ったんじゃないの?」
「いや、連れて行ったけどその前に近くで会ったんだ。最近、何か帰りに視線を感じてたから正体を暴こうとしたらそれが神原さんだったんだよ」
裕美はそのことも初耳だったのか非常に驚いた様子を見せた。いよいよ目の前の景子が怪しく感じられてきていた。
「……それって神原さんが遼のストーカーだってことなんじゃ」
「いや、神原さんはお礼を言うタイミングを……」
まだ景子のフォローをしようとする遼に呆れたのか、裕美は最早遼の言葉を聞くつもりはなかった。
「馬鹿っ! 本当に鈍いね、遼は。いくらタイミングを窺ってたって、そんな何日もかける必要ないじゃない。駅が分かればそこで待てばいい。何日もかけたのは他に下心があるからに決まってるじゃない。今日の行動だって普通に考えれば不可解でしょ」
裕美は景子の行動をストーカーと断定し、先ほどから黙ってしまっている景子の方へ強い眼差しを向ける。
「もうこれ以上遼に付きまとうのはやめて。それにもうお礼は言えたんだから満足でしょ」
裕美は景子に向かってはっきり言い放つ。景子は震えながらただ黙ることしかできなかった。
「行こう、遼。帰るの遅くなっちゃうよ」
もう裕美に押されっぱなしの遼はただ頷き、そのまま景子を残して帰ってしまった。
「う、うぅっ……」
取り残された景子はとうとう涙を堪えきれず、嗚咽を漏らした。強い決意を持って臨んだ勝負は大敗を喫し、更に裕美に睨まれたことによって、最早近付くことさえ許されなくなった残酷な結末は大人しく気の弱い景子には耐え難い苦痛となって襲い掛かっていた。