第五章
「……ただいま」
景子は暗い顔のまま自宅へ帰ってきた。遼の家からの帰り道で涙だけは止まったものの気持ちだけはどうにもならなかった。
「おかえりなさい。今日は遅かったのね」
景子の母はいつもよりも帰りの遅かった景子のために夕飯の準備を始めた。
「本当、珍しいよね。いつもは姉さん学校からすぐ帰ってくるのに」
景子の妹である沙希は既に食事を終え、お茶を飲んでいた。景子はそんな沙希の横をすり抜け、自分の部屋のある二階へ上がっていった。
「ねぇねぇお母さん。なんか姉さん元気なくない?」
沙希は景子が部屋へ入るのを見計らって母に話しかけた。
「そうねぇ。だけどあの子が大人しいのは今に始まったことじゃないけど……」
「そうだけどいつもよりも絶対元気ないって。悩み事でもあるんだよ、きっと」
「悩み事ねぇ……」
「それに姉さん、今日は特に遅かったけど最近ちょっとだけ帰るのが遅くなってなってるんだよね。誰か好きな人でもできたんじゃないの?」
「だったら幸せな気分になるところじゃないの? 明らかにあの子元気ないじゃない」
「だからどうやったら好かれるか悩んでるんだよ。姉さんこういう経験なさそうだし」
「まぁ、そのうち話してくれるでしょ。……ほら、あの子降りてきたよ」
景子は部屋着に着替え、二階から降りてきた。まだ暗い顔をしているし、足取りも重い。母はとりあえず様子を見てみようとしているが、沙希には辛抱ができなかった。
「あのさぁ姉さん、何かあったの? 暗い顔しちゃって」
「えっ?」
景子は席につこうとしたところに突然そんなことを聞かれたために、椅子を引いたまま固まってしまった。
「もしかして好きな人でもできた?」
「!!」
いきなり核心をつかれ、景子は完全に動揺していた。目が泳ぎ、口をパクパクさせたまま突っ立っている。
「……わかりやすいね、姉さんは。とりあえず座ったら?」
沙希にそう促され、ようやく景子は椅子に座った。しかし目をキラキラさせながら聞きたいことが山ほどあるとばかりに構えている沙希を見ると今すぐにでも逃げ出したい気持ちになった。
「そんで好きな人ができたんでしょ? どんな人なの?」
「……。ふぅ……。優しい人だよ、私を痴漢から助けてくれたの」
覚悟を決めたのかため息をつきながらも景子は沙希の質問に答え始めた。
「へぇ、それでそれで? 他には?」
「他って、それだけだけど……」
「えっ? それだけで好きになっちゃったの?」
「そうだけど……」
「まぁ、あまり男のこと知らないからちょっとしたことで好きになっちゃうのかもね」
「……だけど、もう駄目なの……」
突然また落ち込み、うな垂れる景子を見て、沙希は首を傾げた。
「駄目ってどういうこと?」
「だって、その人にはもう彼女がいるから……」
「別にいいじゃん。奪っちゃえば」
「ええっ!?」
景子にとっては考えもつかないことをなんでもないことのように沙希が言うので、景子は目を丸くして驚いた。
「別にいいじゃない。結婚してる人を奪おうとする人だっているんだよ? 彼氏ぐらいどうってことないって」
「だからって……。そんなことできないよ……」
「より魅力的な人と付き合ったほうがその男の人にとっても幸せじゃない?」
「だけどそうしたらその彼女は……」
「それはしょうがない。姉さんだって受験する時にいちいち落ちた人のことを考えたりしないでしょ?」
「……」
「まぁ、でもとりあえず話しかけるとかぐらいしてみたら? アプローチしたからって絶対付き合えるわけじゃないんだから」
「……。それはもうしちゃった……」
「ええっ!? 奥手の姉さんにしては随分がんばったね」
「うん……。今日遅かったのもその人の家へ行ってたから」
「家まで行ったの!? もうそれは完全に奪う気満々の行動だよ」
もうここまでくると沙希は驚きを通り越して笑い始めた。奪うなんてできないと言ってた人が既にもう自覚はないとはいえ、その為の行動をしていたからだ。
「もう何を言っても奪う行動をしてるよ、それは。だからもう遠慮しなくていいじゃん。もっとアプローチしなよ」
「うん……。そうだよね、もうここまでしちゃったんだから……」
「姉さんだったら身体ちらつかせればあっという間に落ちそうな気がするけどね」
「ば、ばかっ! そんなことしませんっ!」
下品なことをけらけら笑いながら提案する沙希に景子は身体を腕で隠した。
「はいはい。そこまでにして景子はご飯を食べなさい。沙希は食器を流しに持ってって」
母の言葉でこの話題は終わりとなった。沙希の助言に躊躇するところはあったが、それでも自分を後押ししてくれる存在を得たことによって景子は勇気付けられた。