第十一章
しばらくの間、玄関先で泣き崩れていた景子だったが、何を思ったか突如ゆっくりと立ち上がり、覚束ない足取りで歩み始めた。行き先はどうやら自分の家のようだ。
だがその不確かな足取り、光の消えた目、何が可笑しいのか笑みを浮かべている口元はこのままどこかへ消えていってしまいそうな不安感を漂わせている。
「遼さんは私のことが嫌い……。嫌い嫌い嫌い、きらいきらいきらいきらいきらい……」
壊れたカセットレコーダーのようにひたすら嫌いと言う言葉を連呼する景子は誰が見ても異常をきたした人間にしか見えず、彼女とすれ違う人達はみな一様に彼女を大げさに避けて歩いていく。しかし今の景子はそんなことも気にならない。今の景子の視界に映っているのは壊れてしまった理想の世界の残骸のみであった。
不確かな足取りながらも家へたどり着いた景子だったが、家までの帰路の間に心の整理がついたのか顔色は常のものとなっていた。それでも口数は依然として少ない。だが、普段の彼女がそもそもあまり喋らないこともあってそこまで気になるものではなかった。母はただ遅く帰ってきたことを心配しているぐらいである。
「最近帰りが遅くなっていってるけど今日は特に遅かったから心配したのよ。今からご飯温め直すからちょっと待ってなさい」
「うん……」
「まったく。そんな元気ない様子だと明日から不安になるじゃない。明日からしばらく家には景子一人になっちゃうのよ」
母が言った言葉が余程意外だったのか、それまで魂の抜けたように大人しかった景子が顔を勢いよく上げた。
「えっ!? 一人? どういうこと?」
そんな景子の様子に母はいかにも呆れたといった様子で振り返る。
「前から言ってたじゃない。私は町内会の旅行に行って、お父さんが出張。沙希は……しばらく友達の家に泊まってテスト対策とか言ってたけど、あれは多分それにかこつけて遊びたいだけね」
初めて知ったといった顔で固まってしまった景子を見て母は一つ深いため息をつきながらご飯を並べる。
しかし椅子に座っている景子の顔は先ほどとは一転して青ざめていた。
「明日から一人……一人。……独り……」
そんな景子の異変に母は気づかずに食事を並べ終えると、気分はもう旅行へ旅立っているのか浮かれた様子で部屋へ戻ってしまった。一人食卓に取り残された景子は急に倦怠感と悪寒に襲われ、食事をその場に残して部屋へと急いで戻った。
自分の部屋へ戻った景子は自分の体に異変が起きていることに気が付いた。
「何……。これ……」
体が震え、歯もカチカチと音を鳴らす。そして何よりも寒さがひどく景子は堪らずベッドへ潜り込み、丸くなった。先ほどまで何ともなかったのに部屋へ入った途端にこの有様である。
景子は不安感に怯え、目を瞑る。しかし目を瞑ることによって訪れた暗闇がいっそうこの震えや寒さを増幅させる。
「何なのよ、いったい……」
こう口に出しているものの、景子にはもう原因は分かっていた。最愛の人に拒絶され、最後の心の拠り所の家族は明日からしばらく不在。この状況が景子に著しく不安感を感じさせているのである。このままでは孤独感と不安感に押しつぶされてしまいそうと思い、無理を押して眠ることしかできなかった。明日になれば希望が涌くと信じながら目をきつく瞑った。
いつものように明日はやってきた。景子にとって絶対に来て欲しくなかった明日という日がついにやってきた。不安感と孤独感、倦怠感によって疲れきっていた景子はいつの間にか眠りについていたようで、眩しい光を受けてゆっくりと覚醒していった。
「……朝。眠い……。でも起きなくちゃ、今日も学校が……」
昨日のことなどなかったかのように起きる景子。この寝ぼけている間だけが景子にとって幸せな時間だった。何も考えることができず、ただ習慣となった行動を繰り返すだけなのだから。そしてそれは食卓を見た瞬間に一気に脆くも崩れ去った。
「お母さん……。コーヒー淹れておいて……。顔洗ってくるから」
いつものように景子が声をかけるも返事はない。不審に思った景子はキッチンを覗く。するとそこにはいつもの風景はなかった。
「あ、あああぁぁ……。いない、誰もいない……。一人、一人、私一人。独り……」
寝ぼけた景子を母が呆れた顔で見て、沙希は笑う。顔を洗ってくる間にコーヒーとパンが景子の席の前に置いてあり、それを食べる頃には沙希は悠々と牛乳を飲み終わり出かける。これがいつもの風景だった。それが今は空虚で何もない空間となっている。理由を聞かされているのだから何も怯えることはないのだが、今の景子にはそんな判断すらできない。涙を零しながら景子は駆け出した。
「お母さん!? 沙希!? どこなの、どこにいるの?」
片っ端から部屋を探し、クローゼットの中までも見る。家中を駆け回る景子の顔はどんどん青白くなり、目も光を失っていく。所々をぶつけて、膝からは血が流れ、制服は破れる。全ての部屋を探し終え、キッチンに戻ってくる頃にはただでさえ制服のまま寝たのでしわだらけになっている上に破れ、汚れ、怪我を負うと散々な状態になっていた。
「どうして……。どうして誰も私の側にはいてくれなくなるの……」
自らの惨状など気にも留めず、独りになったということに怯える景子はいよいよ正気を失った顔つきになってきた。あまりの不安感から呼吸が荒くなり開いた口から涎が流れ、目は焦点が合わず涙が延々と零れ落ちている。絶望し、しばらく立ち尽くしていた景子だったが、脳裏に微かに遼の顔が浮かんだ。昨日あれだけ拒絶されても自分の窮状を知れば優しい彼は必ず助けてくれる。そんな淡い希望を持ち、景子は息を吹き返す。そして身の汚れ、乱れも直す暇もなく遼の家へと駆け出した。
家の中を散々走り回って体力を消耗しているにもかかわらず、景子は休むことなく駆ける。いくら汚れていても長い綺麗な髪をなびかせ駆ける姿は実に美しかった。景子とすれ違う人達は男女問わずに景子を見つめてしまう。そんな注目を浴びていることなどまったく気にかけず、景子は走り続けた。ただ最後の希望を目指して。
遼の家を目指して走っている間に数回転び、さらにぼろぼろになった景子だったが、とうとう目標の地が見えてきた。昨日堅く閉ざされたドアが見えてくる。景子はその閉ざされたドアに走ってきた勢いのまますがりつき、ドアを叩く。
「遼さんっ! 遼さん! いますか!? 返事してください遼さん!」
ドアを激しく叩きながら、大声で遼を呼ぶ景子。近所の人々が何事かと集まってくるが、夢中で叩き続ける。
「な、何だ? どうしたんだっ!?」
あまりに激しいノックの音と、大きな声に驚いて遼がドアを開けると景子は素早く遼に抱きついた。
「遼さん……。よかった、居てくれた……。遼さん、遼さん!」
遼に抱きついたまま、涙を流して遼の名前を呼び続ける景子の様子を見て、集まってきた人達は邪魔しては悪いとばかりに散っていく。そんな中遼だけが事態を飲み込めずにされるがままになっている。
「温かい、優しい感じがします……」
心底幸せそうに遼の胸に顔を埋める景子を見て、ようやく遼は現実を把握した。昨日家へ不法侵入していた女が今朝っぱらから押しかけてきて抱きついているではないか。その行動に恐ろしさを感じた遼は背筋が寒くなる思いだった。今は抱きついている景子の身体の柔らかさも、温かさも感じる余裕はない。伝わってくるのはまだ人生経験の短い遼には受け止めきれないほどの狂おしい愛情。
「う、うわあああぁぁぁぁっ!」
そのままにしておくとその狂気染みた愛情に殺されそうとまで感じた遼は怯えた表情で胸の中の景子を突き飛ばした。最後の希望が突如手中から離れていった景子は呆然とした表情のまま倒れこんだ。
「えっ……? どうして、また独りに……」
受身も取れずにそのまま後ろに倒れこんだ景子は一言そう呟いて、動かない。不安に感じた遼は無事かどうか調べようと景子に近付くものの、景子の目が遼の方を見た途端怯えて家の中に逃げ込んだ。
「はあはあ……。何なんだよあいつはよおぉぉ! 俺が何をしたっていうんだよ……」
遼はドアにもたれかかりながらこの状況がどうして自分に降りかかってきたのかと自問する。いつもの心優しく穏やかな遼の姿は最早なく、怒鳴り声を上げて苛立った様子を見せるようになっていた。無理もないかもしれない。穏やかで優しいとはいってもまだ高校生なのである。それにこのような状況下に置かれる者はそういないだろう。散々付きまとわれた上に勝手に合鍵を造られ、家の中に不法侵入までされているのである。想像だにしないほどの恐怖と薄気味悪さを味わったのである。更に今、きっぱり拒絶したはずなのにまだ迫ってくるのである。
脱力し、ドアにもたれかかっている遼だったが、倒れたままの景子はどうしたのか気になり、恐る恐る覗き穴から外を見た。そこには依然として寝転がったままの景子がいた。捲れ上がったスカートを戻すこともなくそのままでいる。その状況に最悪の事態を想像した遼だったが、もしこれが罠だったらと思うと、身動きが取れなくなってしまっていた。何とか無事かどうかをドアの穴から見ようとがんばっていると、ちゃんと手が動き、呼吸もしているらしいことがわかり一息つくことができた。
しかし、それでもこのままでは家から一歩も出ることができない。
「いっそのこと警察に……」
遼は最後の手段として警察に通報を考えていたが、すぐにそれを頭から追い払った。
「駄目だ。下手に刺激すると後で何が起こるかわからない。もしかしたら裕美にも危害が……」
完全に八方塞になってしまい頭を抱える遼。その時、突然ポケットの携帯が鳴り出した。
「うわっ! な、なんだよ、ケータイかよ……」
突然鳴り響いた音に驚いた遼だったが、携帯の着信とわかるとわずかだが落ち着いた様子で携帯を取り出そうとしたが、嫌な予感がした。
「……まさか、あいつじゃないよな……」
遼が携帯を取り出すのに躊躇している間も着信音は鳴り続ける。嫌な予感が立ち込めていたが、遼は意を決して携帯を取り出し、ディスプレイを見た。