第十章
景子による遼の家のお宅訪問はそれからも続けられた。景子の通う花村学院ではテストが始まり、午前中で帰れたためである。テストが終わった後、制服のまま遼の家へ直行し、そこで遼が帰ってくるまでの間過ごしているのである。
このテスト期間の間に景子の行動はさらにエスカレートしていた。既に遼の持っている服のほとんどを着てみたり、遼の箸を舐めるなんてこともした。さらに遼の入った風呂の残り湯に浸かるなどということまでしていた。
(もうこの家で私の知らないことなんてない……。私は遼さんの全てを知っているのよっ!)
景子はもう既に勝手に遼の家に上がりこむなんていう犯罪行為に対して後ろめたさが一切なくなっていた。遼への強い想いで満たされた頭の中はこの行為を通じて一緒に暮らしているかのような錯覚さえ起こさせていた。しかしそれでも現実には景子がこの家にいる間に遼と話すことはできない。その寂しさ、虚しさを景子はようやく感じ始めていた。
そこで今日、景子は遼の家へ向かう間に一つの決心をしていた。
(今日は遼さんが帰ってきてもそのまま家にいよう。もうあれだけじゃ満足できない!)
後ろめたさが消えてしまう段階まで至ってしまった景子の欲望はさらに高まり、ついに頭の中で思い描いた理想、遼と一緒に生活したいというところにまできてしまった。
(そうだ、お夕飯の支度とかお風呂の準備をして待っててあげよう。きっと遼さんも喜んでくれるはず……。ふふっ)
もう既に脳内世界で遼と同棲生活をしてしまっている景子はそんなことをすればどうなるかわかりきっていることさえ、きちんと判断することができなくなっていた。
(あぁ、早く夕方になってほしい……)
景子は自分のおもてなしで遼が喜んでくれる瞬間を待ち遠しく思いながら買い物へ出かけたのだった。
景子は買い物を済ませて、遼の家へ「帰ってくる」と、すぐに仕事に取り掛かった。部屋を掃除し、風呂を洗う。
それらが済むとちょうど食事を作り始める頃合になっていた。
(今日は肉じゃがにお味噌汁でいいかな。そんなに時間もないし……)
景子は遼が帰ってくるであろう時間を予測して、夕飯の準備に取り掛かった。
(彼女が作る肉じゃがって男の人はすごい喜ぶらしいから、遼さんがどんな顔をしてくれるか楽しみだな)
肉じゃがを作りながら、景子は遼の帰りを心待ちにしていた。
自分の家に不法侵入者がいるとは夢に思っていない遼は一日の授業を終え、家へと向かっていた。テストが近いということで授業をいつもよりも真面目に聞いたせいか非常に疲れた様子である。
(あぁ、これから夕飯を作らないといけないと思うと憂鬱だな……)
遼は帰ってからしなければならないことを考えながら、家の前までやってきた。しかしそこで遼は違和感に気づいた。
「うん? なんで俺の家……、電気がついているんだ!?」
遼は自宅に電気がついている他に換気扇まで回っている事態に驚いていた。
(あっ、もしかして母さんが帰ってきてるのか?)
遼は考えられる可能性はそれぐらいしかないと思いながらも、警戒しながら家へ入った。しかしそこには予想だにしない光景が広がっていた。鍵を開ける音を聞きつけた景子が遼を出迎えるという異常な光景が……。
「おかえりなさい、遼さん! 待ちくたびれちゃいましたよ」
満面の笑みで遼を出迎える景子を見て、遼は唖然とした後、顔を引きつらせ始めた。
「か、神原さん? どうしてここに……」
「この鍵でですよ。それよりもお夕飯にします? それともお風呂?」
顔を赤らめながら問いかける景子に対して遼はぶるぶると震え始めていた。
「神原さん……。君は今自分が何をしているかわかってるの? 勝手に人の家の鍵で家に上がるなんて……」
遼が喜ぶどころか不機嫌になっていくのを見て、景子は首を傾げた。
「どうしたんですか? お夕飯もお風呂の準備もできてますよ。それとも他に何かしたいことでも?」
「何を言ってるんだ! 君のやってることは犯罪だって言ってるんだ! 早く出て行ってくれよ」
遼はとぼけ続ける景子にとうとう怒りを爆発させた。景子の腕を掴み、玄関の外へ出そうとする。
「あっ、何をするんですか!? 遼さん、遼さん!」
突然怒り出して、自分を外へ追い出そうとする遼に対して景子は抵抗したが、所詮男の力には敵わず、外へ出された挙句に鍵まで閉められてしまった。
「はぁはぁ……」
遼は追い出した後チェーンまで掛けてからやっと一息つけた。今起こったことを整理しようと頭を働かせる。
「遼さん! なんでこんなひどいことするんですか!? 私、遼さんためにって思って……」
しかし遼には考える暇なんて与えられなかった。景子はドアを叩きながら泣き叫ぶ。
「俺のためって、君はむしろ俺に迷惑をかけてるじゃないか!」
「愛してるんです……。あなたのことが好きなんです!」
「だったらそう言ってくれればいいじゃないか。なんでこんなことを……」
とうとう自分の気持ちを言葉にした景子に対して遼はあきれ返った。あんなことをしておいて今更何をといった表情である。すると突然玄関の鍵をガチャガチャと開けようとする音が聞こえてきた。
「なっ!? おい、何をしてるんだ!」
玄関の鍵を開け、ドアを開けた景子がチェーンでわずかに開いたすき間から顔を覗かせる。
「愛してるんです、遼さん……。お願いです、愛してるって言ってください……。家に入れてください……」
「俺には彼女がいるし、だいたいこんなことをする人を好きになんてなれるわけがないだろう。むしろ大嫌いだっ!」
しつこく迫る景子に対して恐怖さえ覚えた遼は怒りながら冷徹な言葉を放った。
「えっ? 私のことを嫌いって……」
遼の言い放った言葉を受け止められずに景子は呆然としてしまう。
「あぁ、嫌いって言ったんだ。当たり前だろう」
景子に対して遼は畳み掛けるように鋭く、冷たい言葉をぶつけた。二度と寄り付かないように容赦なく。
「私のことが嫌い……。嫌い……。……うぅ、うぅぅぅ……」
玄関先で泣き崩れた景子を少々気の毒に思いながらも、ここで優しくしてしまうと泥沼だと判断した遼はドアを閉める。ドアを閉ざされ、希望が完全に消えうせた景子の瞳から零れる涙の量はさらに増していく。
さっきまであんなに幸せな気分で一杯だったというのに数時間後には急転直下の状況に晒された景子の負った傷はあまりに大きく、瞳からは光が消え、涙は枯れることを知らない。もう立ち上がる力さえ失った景子はしばらく遼の家の前で泣き続けた。