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第九章

  「お疲れ様でした」

   午後6時過ぎに捜査本部に戻った倉田を、菅原梓の取調べを終えた柳田が迎えた。


  「ご苦労だったな。今日の被疑者はどうだった?」

   倉田も柳田の労を労った。


  「一応今日の取調べは終了しました。一連の行為について、理解出来ない部分もありますが、理由も

  述べています」

   柳田は分厚い調書を倉田に手渡した。


  「起承転結を話している、という事になるんだな」

   倉田の中にまた疑問が沸き起こった。


  「それから、倉田さん達が留守の間に、こういう人が来たのですが」

   柳田はクリアファイルと名刺を倉田に渡した。


  「すでに退官しているので、この名刺は当時の物です」

   柳田からの説明を聞いて、倉田はファイルからコピーされた書類を取り出した。


  「この手紙なんですが」

   柳田は、その中から一枚の手紙のコピーを取って倉田に見せた。


  「なんだ、これは? 川村雄一郎様……」

   倉田は思わず声をあげた。


  「15年前に川崎で起きた、ホームレス撲殺事件の関連資料です。解決済みの事件で問題はないので

  すが、ただ一つ、その手紙だけは遺族も引き取らなかったようで、ずっと川崎幸北署に保管してあり

  ました。笹岡さんは15年もの間、ずっと気になっていたそうです。2日に、事故のニュースで『川

  村雄一郎』という名前を聞いて『もしや』と思い、川崎幸北署に出向いて再度確認したところ、この

  手紙の宛先と同じ人物ではないか、という結論に達したそうで、こっちの許可が下りれば、川村さん

  の奥さんに直接会って手渡したい。と考えているようです。笹岡さんの事も、事件の事も裏は取って

  あります」


 

  「これは……」

   倉田はコピーされた手紙を読んで絶句した。


  「昨日、遠藤検事に個人的な考えとして伝えた、川村夫婦の印象は間違っていないかもしれない。だ

  が、奥さんは……辛いだろう」

   倉田は真理の顔を思い浮かべた。


  「僕にも見せてください」

   倉田から手紙のコピーを受け取った米山も、読み終わってしばらくの間は何も言えなかった。


  「いいだろう。笹岡さんには俺から電話をして、是非渡すように、と伝えるよ」

   そう言って、デスクの上にある電話機を引き寄せた。



   倉田が笹岡との電話を切ったと同時に、婦警の深沢真知子が捜査本部に現れ「倉田警部、ちょっと

  いいですか」と、遠慮気味な様子で声をかけた。


  「どうした? 被疑者に何かあったのか?」


  「実は、ずっと取調室で菅原梓の調書を取っていて、違和感を覚えていたのですが……」


  「違和感?」


  「そうです。菅原梓は取調べが終わって席を立つ時、毎回、座っていた椅子を元の位置にきちんと戻

  しています。礼儀正しいのだと思うのですが『椅子を戻す』という動作をする被疑者を見た事がない

  のです。ましてや、心神喪失の可能性がある人間がそういう事をするのか? と疑問に思いました。

  それで、その、やはり演技をしているのではないか? そう思ったものですから」


  「なる程、女性らしい観察眼だな。よし、分かった。本人の調書と今日、聞き込んできた内容を照ら

  し合わせよう。明日から始める事にする」


  「それともう一つ……」

   深沢は言いにくそうに躊躇っていた。


  「こんな事言っていいのかどうか……倉田警部補、これは私の一個人の感想です。だから、そのつも

  りでいてください。言った事が警察官として相応しくないと思ったら叱ってください」


  「何だ? どうした?」

   思いつめた様子で、少し涙目になっている深沢を見て、倉田は面食らった。


  「菅原梓に精神鑑定をして、心神喪失が認められ不起訴になった場合の事です。精神科の治療を受け

  て完治して、菅原梓が社会に戻った時、川村さんの奥さんの身の安全が気になるのです」

   深沢は不安げな表情で倉田を見た。


  「どういう事だ?」


   そこにいる全員が深沢を見つめた。


  「最後の最後に……何かそういう怖さを、女の勘で申し訳ないのですが、それを感じます」


  「奥さんに危害を加えると言うのか?」


  「菅原梓は、あの事故を起こす時『一緒に行きなさい』という天の声を聞いた。と言っていました。

  でも、一緒に行けなかったのですよ。多分、菅原梓は『被害者に愛されていない』と悟ったと思いま

  す。そうしたら、次にする事は被害者が愛していた奥さんを抹殺する事だと……私はそう思うのです。

  警察官として、まだ未確定の事に関して、思い込みや推測で結論じみた事を言うのは間違っているし、

  奥さんに対して必要以上の気持ちを抱いたら、見えるものも見えなくなってしまう、それは承知して

  います。でも、もうこれ以上、あの奥さんに……」

   そこまで話して、深沢真知子は手で顔を覆って泣き出した。


  「深沢君の気持ちは分かった。君の言うように俺達は警察官だ。だが、人間だから感情はある。それ

  でも感情に流されてはダメだ。先入観や思い込みは危険だ。だから、真実だけを見つめろ。その事は

  みんなも充分承知していると思う。遠藤検事は簡易精神鑑定の必要は有りと考えているし、不起訴に

  なる可能性もある。明日から、調書と聞き込みで得た情報をくまなくチェックし、照らし合わせる。

  テレビでもやっているだろう。『根こそぎ拾う!』って。少しでも疑問があるのだったら、いいか! 

  菅原梓をよく見て、一つも漏らすなよ。明日、もう一度、菅原梓に向かってみる事にする!」


  「はい、分かりました!」

   全員が声を揃えて答えた。


  「頼むぞ!」

   倉田は全員を見回した。


   心神喪失の場合、特別扱いされる事が多く「刑法39条が余りにも安易に乱発され、不起訴や無罪

  になる事が多すぎる」と言われているが、倉田にはその事は当てはまらなかった。精神鑑定は科学や

  証拠ではなく、推測に基づく意見にすぎない。精神鑑定の目的は、事件が起きた過去の一時点におけ

  る精神状態を推理する事に他ならない。しかし、そこまでの過程の中で現れる事がある筈だ。まして

  や、心神喪失にも演技が疑われる菅原梓に関しては、目を凝らしていれば真実が見えてくる…




2 

   翌日、8時から始まった取調べは遠藤検事も同席し、倉田が担当した。


  「どうですか? 眠れていますか?」

   倉田は優しい眼差しを向けて梓に尋ねた。


  「はい」

   聞き取れない位の小さな声で答えた梓は、上目遣いに倉田を見た。


  「でも、最近よく聞かれるのです。『どうしてここに居るの?』って」

   やはり小さな声だが、目はしっかりと倉田を捉えていた。


  「誰に聞かれるのですか?」


  「彼に……です。私が家に帰らないと俺は訪ねて行けないよ。ってそうも言われます」


  「彼とは誰の事ですか?」

   倉田に問われて、梓の顔が急に輝いた。倉田と遠藤はじっと梓を見つめた。


  「夫の川村雄一郎です」


  「夫の……ですか?」


  「そうです。だって、彼は私と結婚してくれると言いましたから」


  「そうですか。川村雄一郎さんは今は何処にいますか?」


  「分からない」


  「分からなくはないでしょう? 菅原さんは全部お話していますよね」


  「時々分からなくなるのです。だって昨夜は、私のそばにいたのですから」


  「もう一度菅原さんから聞いた話を繰り返しますね。あなたは、川村雄一郎さんとは約二年程前から

  特別な関係でしたが、あなたが、川村さんの奥さんである川村真理さんの元を訪ねた事で、川村さん

  から責められ、その事が原因で、川村さんには黙って千葉に引越しをした。その後、隣に住んでいた

  片岡ふみ子さんから、川村さんが失声症と偽装妊娠を知ってしまった、という事を知りうつ状態にな

  った。7月2日金曜日朝10時頃、川村さんに会いたくて、ホテルの従業員駐車場で待ち伏せをして

  いたが、出て来た川村雄一郎さんの車の後を追けた。そして「一緒に行きなさい」という天の声を聞

  いた事で咄嗟に行動を起こした。中央自動車道笹子トンネル手前で、追越し車線から走行車線に無理

  な車線変更をし、走行車線を走行していた川村雄一郎さんを死に至らしめた。事故が起きた事は承知

  だったがそのまま逃走した。間違いありませんか?」


  「……そうだと思います」


  「どうして、7月2日だったのですか? また、川村さんが、その時間に駐車場に現れるという事を

  どうして知ったのですか?」


  「ずっと前に、7月2日の10時に会う約束をしていたからです」

   また、ウットリとした表情になった。


  「ずっと前と言うのはいつの事ですか?」


  「覚えていません」


  「あなたにとって川村さんは全てだったのでしょう? それなのに覚えていないのですか?」


  「まだ付き合っていた頃、東京に行く前に会いたいから、ホテルの従業員駐車場に来るようにと言わ

  れていました。だから、ずっと覚えていたのです」


   ……ホテルの従業員駐車場……倉田は、梓が発する言葉の一つ一つを聞き漏らさなかった。


  「どうして従業員駐車場だったのですか?」


  「……」

   梓は答えなかった。


  「デートの約束に余りふさわしくない場所ですよね」


  「そう言われていました。それに、彼も私も車が好きだから……」


  「そうですか。川村さんの車がチェロキーで、あなたがエスティマですか。余り、色っぽい車じゃな

  いな」


  「……」

   梓の顔が不機嫌になった。


  「余談ですが、私の家内は大の車好きなんですよ。あなたも山梨に住んでいたから分かっているでし

  ょうが、車は一家に一台じゃなくて、成人に一台ですよね。薄給の身には厳しい生活環境です。それ

  で、最近、家内が車を買い換えたんですよ。某メーカーのコンパクトカーです。それがね、ボディカ

  ラーがメタリックがかったピンクでしてね。私の家内にはふさわしくない色なので、それを言ったら

  家内に言われました。『車はハンドバッグ代わりなのよ』って。それでも家内には似つかわしくない

  んですけどね」


   倉田が何を言いたいのか?……梓の不機嫌さはそのままだが、じっと倉田の顔を見ていた。


  「ハンドバッグ代わりという女性の気持ちは分かりました。家内には似合わない女心ですが。それで、

  久しぶりに川村さんに会うのに、どうして、あなたがエスティマを選んだのか? って、私は分から

  なくなったのです。レンタカーだったとしたら、恋人とのデートにもう少し可愛い車を選んだ方が良

  かったのかな? と」


  「……」

   梓は怒ったような表情で倉田を見ていた。


  「すみません。余計な事ですね」


  「身の安全を考えて……そう、彼が私を思ってくれて、心配してくれて、大きな車にしなさい。そう

  言ったのです」


  「そうですか……でも、チェロキーの傍に、コンパクトカーが寄り添っているのは可愛い光景ですよ

  ね」


  「彼は大きな車が好きなんです」


  「分かりました。そういう事だったのですね」

   

   ……理由に自分の意志は入っていないが……


  「話が逸れてしまってすみませんね。自分から去って、しかも、川村さんがあなたの偽装を知ってし

  まった後でも、川村さんはその約束を守ると思っていましたか?」


  「思っていました。彼はちゃんと出て来ましたし。それに、あの事は……奥さんが全て仕組んだ事で

  す!」


  「どういう事ですか?」


  「私は、彼にはきちんと謝るつもりでした。それなのに、あの奥さんが片岡さんに全部話してしまっ

  たから、だからこんな事になったのです。」


  「川村さんの奥さんが片岡さんに話をした、という事は誰から聞きましたか?」


  「片岡さんから聞きました」


  「ところで、片岡さんがあなたの事を心から心配していましたよ」


  「片岡さんはいい人でした。とても良くしてくれて……」


  「そうですか、あなたはそう思っているのですね。でも、ウソつきですよ」


  「ウソつきなんて……そんな事を言う人ではありません! アッ……でも……」


  「まあ、いいでしょう。川村真理さんが告げ口したのですね」

   倉田は梓の言葉を遮った。


  「片岡さんはどうしていますか? 元気でしたか?」


  「今も言ったでしょう? 元気ですが、あなたの事を心配していました。いいですか、話を戻します

  よ。さっきの事です、川村さんの奥さんが全部話をした、というのはどういう事ですか?」


  「昨夜、彼がそう言いました。騙されたって」


  「どうして、ホテルの駐車場で川村さんとはお話ししなかったのですか?」


  「今はダメだ、と彼が目で合図したからです」


  「それは辛かったですね……その場所に誰かがいたのですか?」


  「分かりません」


  「川村さんだって、あなたに会いたかったでしょうね」


  「辛かったと思います。私も彼に会いたかったのに。だって愛していました。彼も私の事を愛して

  いた。携帯だって……全部あの奥さんに見つかって。だから連絡が取れなかった。意地悪なんです。

  全部、あの女が悪い!」


  「あの女とは誰ですか?」


  「奥さんです!」


  「奥さん? 誰の奥さんですか?


  「彼の……私は名前を言いたくありません!」


   ここで、菅原梓は貧乏ゆすりを始め、落ち着かない様子になってきた。自分が導いた方向で梓は

  乱れ始めた。こういう状態になるだろう、と倉田は承知していた。


  「菅原さん、少し疲れましたか?」


  「大丈夫です。でも、あなた達は間違っている。彼の奥さんって私の事です。他に誰がいるの?」


  「私達は間違っていませんよ。川村雄一郎さんの奥さんは、川村真理さんで、あなたではありませ

  んよ。それに、さっき、あなたも『奥さん』って言ってましたね」


  「だから、違う……って、そう言っているのに」


  「話を戻します。川村さんに会いたくてホテルで待っていた。と言う事の他に約束をしていた。と

  いう事を付け加えます。会うために約束をしていたのに、それが叶わなくて、車の中では連絡を取

  り合っていなかったのですか?」


  「携帯をあの女に取られたから……連絡が取れなくて……」


   辻褄が合っていた。


  「会えないのに、どうしてあんな事をしてしまったのですか? 」


  「一緒に逝きなさい。と言われたし、あの女の事を考えたらカッとなりました」


  「カッとなったのですか?」


  「そうです。猛烈に腹が立ちました!」


  「でも、会いたかったのに、どうして逃げたのでしょうね?」


  「私だけ逝けなかったから……怖かった」


  「怖い、という理性が働いたのですね。でも、一緒に逝けなかった……という事は川村さんがど

  ういう状態になっているか、ちゃんと考えられたという事ですね」


  「彼がどうなっているかは分からなかった。でも、私が運転している車は何ともなかったし、だ

  から、怒られると思ったのです」



  「本当に愛していたら『逃げる』なんて事は出来なかったのではないですか? 川村さんの事を

  愛している、なんてウソでしょう?」


  「ひどい……私達はずっと愛し合っていた。どんなに愛し合っていたかって……」


  「そうですね、愛し合っていた。それでも、逃げた」

   梓が最後まで言い終わらないうちに、倉田が口を挟んだ。


  「警察にだって……行こうと思っていたのに……」


  「どういう事ですか?」


   強制された上での供述にならないように、遠回しな言い方をした。


  「そうです……警察に行けば……自首すれば……彼を助ける事が出来るかもしれないから」


   倉田と遠藤の目が合った。


  「カッとなって」との供述と「自首」は本人の認識・意識の証明になり得るから心神喪失にはあ

  たらない。



   *****


  「ところで、倉田さんの奥さんは可愛いですね」

   取調室から、捜査本部に戻ったところで、開口一番に遠藤が言った。


   一年位前だろうか? 韮崎で起きた強盗殺人事件を倉田と担当した事があったが、その時、

  韮崎署に着替え届けに来た倉田の妻の顔を思い浮かべて言った。


   米山や柳田達が、興味津々という顔で二人のやりとりを聞いていた。


  「私の家内が可愛い? しっかり者だと言われた事はありますが、可愛いなんて言われた事はな

  いですよ」

   部下の前で妻の話をされた倉田が照れた顔をした。


  「さっきの話ですよ。『車はハンドバッグ代わり』なんて言うところは可愛いですよ」


  「まさか! あれは、息子の嫁が言った話です。そういう事を言う女房だったら、もう少し大事

  にしてますよ。半年程前に二人で家に遊びに来て、嫁が買う車の事で夫婦喧嘩を始めたのですよ。

  息子の嫁も、家内に負けない位のしっかり者で、余り色気のない嫁なんですけれどね、その嫁が

  似つかわしくない事を言ったので覚えていたのです。だから、使わせてもらいました。先月、息

  子の家に行った時、駐車場に息子の黒い4WD車に寄り添うように停められている、嫁のピンク

  のコンパクトカーを見て、微笑ましいというか、可愛い気がしました」

   そう言って倉田は大きな声で笑った。


   ……そう言えば、川村真理さんも車を運転して来たが、あの奥さんはどんな車に乗っているの

  だろう……倉田は、ふとそんな事を考えた。

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