第八章
1
10時過ぎに、遠藤検事と山梨北署の米山巡査長を伴った倉田は、八ヶ岳ガーデンリゾートに到着し
た。倉田はすでに一度ホテルを訪れているが、今回は菅原梓の話を聞く事が一番の目的であった。
天候不順にも関わらず、オンシーズンに入った八ヶ岳ガーデンリゾートのロビーは、リゾート客で賑
わっていた。
「お待たせいたしました。客室課の相馬と申します」
ラウンジで出されたコーヒーを飲み終わった頃に、宿泊部客室課支配人の相馬俊介が現れた。
「ロビーより応接室の方が話をしやすいので、移動して頂けますか」という相馬に案内された三人は、
応接室に移動した。
倉田は同行の二人を紹介し、早速話を始めた。
菅原梓が入社当時からの上司であった相馬は「正直言って、菅原さんがまさか。という気持ちで今で
も信じられません。それにも増して総支配人の事は大きなショックです」と苦悩の表情を見せた。
「一昨年の春に、ホテルの送迎バスの運転手をしていた菅原さんのご主人が、勤務中に事故で亡くなら
れて、その後、川村総支配人……当時は宿泊部支配人でしたが、総支配人のお声がかりでパート待遇で
入社してきました。仕事内容は、バックヤードの清掃、業務委託しています清掃会社の補助など、用務
員的な仕事が主な業務でした。自宅の庭の花を事務所や従業員食堂、トイレなどに飾ってくれたり、ス
タッフを裏からサポートしてくれていて評判も良かったんですよ。声が出なくて、その事をとても気に
していましたが、真面目によく働いてくれていました。ですから、総支配人と……その……そういう関
係にあったという事は私は勿論ですが、社内で知っている人間はいませんでした」
「川村さんのお声がかり、と言うのはその頃から、特別な関係にあったという事だったのでしょうか?」
「いや、そうではないと思います。総支配人はそういう所がある人でした。仕事には厳しかった人です
が『スタッフは家族』というような日本的な情があって、ご主人を亡くされた菅原さんをフォローした
い。そういう気持ちだったと思います」
相馬は雄一郎の事を思って少し涙ぐんだ。
「声が出ない、という事は演技だったのですが、半年近くご一緒にお仕事をされていて、全く気がつか
なかったのですか?」
「お恥ずかしい限りですが、全く気がつきませんでした。病院でカウンセリングを受けている、という
事も聞いていましたので信用していました。社内での連絡は、全て携帯メールを通じてやり取りしてい
ましたが、特に不都合もなかったですし……多分、本人もコンプレックスを感じていたからだと思いま
すが、いつも目立たないようにしていて、社内で特に親しくしていた人もいなかったようです。ただ、
一つだけ、昨日ですが、気になる事を聞きました」
三人の相馬を見る視線が鋭くなったため、相馬は姿勢を正した。
「今日、刑事さんが見えるという事を伺って、当時の人事担当に確認しました。菅原さんが入社当時は
渥美というスタッフが人事担当でしたが、菅原さんと入れ替わりに本部に異動になっています。渥美も
今まで全く忘れていて迂闊だった、と反省していましたが。総支配人から『菅原さんは声が出ない』と
伝えられたのですが、葬儀の時など直接話をしていたので、その時に変だなと思ったようです。総支配
人に確認しようと思ってもいたそうですが、葬儀が済んだ後に声が出なくなったのかもしれない。と思
っていて、菅原さんとは一度も会う事もなく、異動になってしまったため、忘れてしまっていたようで
す。渥美は警察に直接話をする必要があるのであれば、いつでも出向くと言っておりました。総支配人
の同情をかうために演技したのでしょうね」
梓からも「同情をかうためだった」という証言を得ている。
「やはり、なかなかのしたたか者だ……」
倉田の中で少し見えてくるものがあった。
「分かりました。声が出るようになってからの菅原梓の様子はどうでしたか?」
「そうですね……あの時、クリスマスでした……確か声が出て、社内のスタッフに挨拶していましたね。
私に真っ先に『今までご迷惑をおかけしました』そんな事を言っていました。それからは少し明るくな
りましたよ。相変わらず人を避ける、というか、自分からスタッフに溶け込む事はなかったのですが、
一生懸命仕事をしていました」
「川村さんとの様子はどうでしたか?」
「二人の事は考えた事もなかったですね。総支配人も長い間単身赴任でしたから、それなりの誘惑など
はあったと思いますよ。実際に乗ったかどうかは別として。でも、そういう事はなかったと私は思いま
す。総支配人を偶像視する訳ではないのですが、部下として見ていて、総支配人には仕事に対する強い
信念を感じていましたし、それに奥さんをとても大事にしていましたから、間違いは犯さない。そう思
っていました。総支配人もお酒が好きだったから、一緒によく飲んだのですが『趣味は仕事なんだよ』
って笑っていました。マンションに帰ってお酒を飲みながら、奥さんと、電話やメールで仕事の話をす
るのが一番のストレス解消だ。って言っていました。嬉しそうに話す総支配人の顔が忘れられません。
だから全く信じられないのですが、あの、もしかして一方的な菅原さんの作り話という事はないのです
か?」
相馬が訊いてきた。
「そういう事はありません。関係は事実です」
倉田は答えた。
「という事は?……」
そこまで言いかけて、相馬は口をつぐんだ。
「どういう事ですか? 何か心当たりでもあるのですか?」
「いえ、そうではありません。ただ……奥さんが知っていたとしたら、その、気の毒だと思ったもので
すから」
相馬は手で顔をこすった。
「今だから思う事ですが、総支配人と菅原さんとの間に全く接点がなかった、と言うのが、何と言うの
か、事実を物語っていたのかな。という気がしました。さっきも言いましたように、総支配人は『スタ
ッフは家族』という気持ちで、特に末端のスタッフへの気遣いがありました。自分が仕事を紹介したに
も関わらず、菅原さんと総支配人が接している場面を見た事はありませんでした。敢えて避けていたの
かな? と今は思っています。菅原さんがスタッフと親しくしていなかったのも、それが起因している
のかもしれません」
「川村さんが奥様を大事にしていた。というのはどういう部分で感じましたか?」
倉田は道が外れたか? と思ったが、部下の目から見た、川村雄一郎の妻への気持ちを知りたかった。
「飲んだ時以外は特に具体的に奥様の事を話されたり、そういう事はありませんでしたが、何と言うか、
普段の雰囲気にそういうのが現れているんですよね。何年か前に、奥様が身体を悪くされて入院された
事がありました。勿論、総支配人はその事は何も言いませんし、本人は普通に仕事をしているのですが、
総支配人の痛い気持ちが伝わってくるのです。反対に横浜に奥様に会いに行く時とか、奥様が昇格され
たり、雑誌に出たりした時は、喜びの気持ちが伝わるのです。口に出さない重み……とでも言うのでし
ょうか。上手く言えないのですが……」
「愛妻家でいらっしゃったのですね」
「愛妻家……と言えばそうですが、奥様なしでは生きていかれないような、よく言うラブラブとかそう
いうのとは違いますが、人生のベストパートナーとでも言うのでしょうか。私はそう感じていました」
「話を戻します。菅原梓が退職した理由は何でしょうか?」
「去年末で退職したのですが、理由としては、本格的に接客の仕事をしたいから。と私は聞きました。
正直、菅原さんが辞めるのは困る部分もあったので、引き留めをしましたが、今のこのホテルでは、菅
原さんの希望するポジションはなかった事もありましたし、これから一人で生活して行くためにも、き
ちんとした仕事に就く方が良いだろう。と私は思いましたので退職願を受理しました」
「一年半程接していて、菅原梓はどんな人だったと思いますか?」
「そうですね。一言で言えば『真面目で地味な普通の人』でしょうか。付き合いは良くなかったのです
が、仕事ぶりはきちんとしていましたし、特に問題もなかったので、今回の事はとにかく『驚き』以外
何物でもありません。事故の事も、総支配人との事も全て、そうですね。問われないと特に話す事もな
い、そういう人でしたね。社内のスタッフも大体私と同じ考えです」
「私生活を知っている人はいないのですか?」
「私とはそういう話をした事はありませんでした。その部分では私より、ハウスキーパーと話をした方
がいいかもしれません。リネン室で一緒になる事が多かったので、情報が聞けると思います。呼びまし
ょうか?」
倉田は遠藤検事を見て「どうしますか?」と訊き、遠藤がうなづいたのを確認して、相馬に、ハウス
キーパーを呼ぶように頼んだ。
「職場での精神的な状態はどうでしたか?」
ハウスキーパーを待つ間に、倉田は相馬に尋ねた。
「いつも穏やかで、安定していましたね」
「最後になりますが、退職後菅原梓と会った事はありますか? また、どなたかから菅原梓の噂話など
を聞かれた事はありますか?」
「一度もありません。送別会も本人から辞退して来ました。退職後、会社からの年金手帳などの返却は
全て郵送で行なっていたようです。噂話も聞いた事ないですね。社内で『菅原さんはどうしているのか
?』と話をした記憶はありますが。仕事面では必要な人でしたが、仕事を離れると存在感がない、そう
いうタイプの人ですね」
そこに、ハウスキーパーの保坂真澄が緊張した面持ちで現れた。
「外注の清掃会社コスモサービスのハウスキーパーリーダーの保坂真澄です」
相馬が三人に紹介をした。
「忙しいのですよね。ご面倒かけて申し訳ありません」
倉田は、真澄の緊張をほぐすように笑顔で話しかけた。
「早速ですが、菅原梓の事です。保坂さんの知っている範囲で教えてください」
「菅原さんはどうなるのですか?」
いつもの元気の良い様子とは違って、真澄はおどおどした様子で質問をした。
「それはまだ分かりません。これからきちんとした判断をくだす事になりますが、その前にこうして皆
さんにお話を伺っています。楽にしてお話してくださいね」
「菅原さんは綺麗だったし、いい人でした。どうしても女が多いので、いろいろ面倒な事がありますが、
いつも一歩下がって見ているような所もあって、余計な事も言わないし、だから評判は良かったですよ。
アメニティの補充作業をやってくれていましたが、菅原さんがやるようになってから、こまめにチェッ
クしてくれるので、補充漏れや欠品もなくなりました。それに、リネン室も私達が作業しやすいように
整理して、綺麗にもしてくれていました。昼休憩は出勤時間が私達より遅いので、入れ替わりにリネン
室で一人で食べていましたから、余り個人的な話はした事はありません。それでも時々、おせっかいな
人から何か聞かれても、うまく流していましたよ。私は『賢い人だ』といつも思っていました」
「仕事の面でもきちんとしていたという事ですね。川村さんとの事で何か気付かれた事
はありますか?」
「総支配人との事も全く知らなかったです。むしろホテルの人には興味がなくて『亡くなったご主人を
思い続けている』そう思っていました。仕事帰りにスーパーで、仏壇に供える花を買ったり、ご主人が
好きなビールを買っている姿を何度か見た事があります。でも、さっきもみんなと話していたのですが、
総支配人との事は、菅原さんの勝手な思い込みじゃないか? って」
「実は、相馬さんも先程同じ事を仰ってました。菅原さんは自分の思い込みとか、そういう部分がある
人でしたか?」
「そういう事はなかったのですが……余りにも意外だったし、信じたくない。みたいな気持もあります。
あー、でも、いつだったか? メイド仲間から、菅原さんは一人暮らしなのに、たくさん食料品を買い
込んでいる姿を見た。と聞いた事がありましたけれど、総支配人と結びつけて考えた事はないです。そ
れに、去年の秋ですが、総支配人が夏の慰労を兼ねて、私達を飲み会に誘ってくれた事がありました。
相馬さんは参加していなかったけれど、そうでしたよね?」
そう言って、真澄は相馬に同意を求めた。
「あの時、菅原さんも参加していましたけれど、総支配人と何かある、という雰囲気もなかったですよ。
結構そういう事に敏感でうるさい人もいますが、そんな話も出なかったし」
「ハッキリ申し上げますが、川村さんとのお付き合いの事は事実です」
倉田の言葉を聞いて、真澄は「そうなんですか……」とため息をついた。
「保坂さんは、菅原さんをどう思っていましたか?」
「菅原さんが辞める時は『淋しい』と思いましたが、でも、いつの間にか忘れていて、そういう意味で
は印象が薄い人でした。印象が薄いと言うか、私は情が沸きませんでした。菅原さんとは1年半程の付
き合いでしたが「賢くて、いい人」と言うのが、一番当たっている表現かもしれません。でも、それに
しても、総支配人は本当に優しい人でした……」
また真澄は大きなため息をついた。
「どういう部分でそう感じられたのですか? 良かったらお話してください」
「『権力がある者が先に折れろ』って、総支配人はその事を実践していました。挨拶だって総支配人の
方からしてくれるんです。私達はホテル所属ではないのに、コスモサービスの人間より、私達の事をい
ろいろ見てくれていると思っていました。そんなに細かく気を遣って大丈夫なのか? と思った事があ
って、総支配人に聞いた事があります。まだ、宿泊部支配人の頃です。『コスモサービスさんの仕事の
一つ一つがこのホテルを作っているんです。大事な仕事なんですよ。皆さんが頑張ってくれているから、
だから評判がいいんですよ。良いホテルを作り上げてくれる人達の事を、自分が気にかけるのは当たり
前ですよ』って、そう言われて、総支配人の気持ちが嬉しいと感じた事を覚えています。いい加減に手
抜きしたりすると……忙しくて清掃に追われると、そういう事が起きてしまうのですが、そういう時は
厳しく注意されました。うちの会社の人間ともトラブルになったりした事もあります。でも、必ず後で
フォローしてくれて……メイドの中には『総支配人は細かくてうるさい』って文句言う人もいましたが、
私は総支配人は正しい、と思っていたのでメイドには『仕事だから細かくて厳しいのは当たり前。でも、
総支配人はちゃんと認めてくれている』と伝えていました。菅原さんとの事はよく分かりませんが、総
支配人がこんな事になって……」
そこまで話して、真澄は声を詰まらせ持っていたタオルで涙を拭った。
「保坂さんのお話しはとても良く分かりました。お忙しいのに本当にありがとうございました」
「亡くなられた川村さんは、スタッフの方に思われていてお幸せな方ですね」
初めて口を開いた遠藤検事の言葉に「まだ、信じられなくて……」真澄は泣きながら呟き、相馬も目
頭を押さえた。
2
八ヶ岳ガーデンリゾートホテルを辞去した三人は、かつて菅原梓が住んでいた、北杜市の県営住宅を
訪れた。
菅原梓の隣に住んでいる片岡ふみ子も、硬い雰囲気で三人を迎えたが、片岡ふみ子の第一声は、八ヶ
岳ガーデンリゾートホテルのスタッフとは違っていた。
「菅原さんねー、やっぱり、こういう事になっちゃったのですね」
ふみ子がこれから話をする事は、今後の捜査にどういう影響を与える事になるだろう?
「いい人でしたよ」という答えが返ってくるか、と思っていた倉田は興味を持った。
「刑事さん、私は怖いんですよ。だってね、私が話した事がきっかけで、こういう事になっちゃったの
か? って。そう思うと居てもたってもいられない、どうしようかって不安なんですよ」
片岡ふみ子は60代前半の、いかにも「噂話が好きそうなお節介なおばさん」の雰囲気があった。
「片岡さん大丈夫ですか? 気を楽にしてくださいね。初めに伺いますが、自分がきっかけ、と言うの
はどういう事ですか?」
「私が亡くなった川村さんに菅原さんの事を話して、その事をまた、菅原さんに話をしてしまったから。
だから、菅原さんがああいう事をしたって。でも、私が話をしなくてはならなくなったのは、川村さん
が言い出したからなんですよ」
ふみ子は落ち着きがなく、不安そうな顔で話を始めた。
「分かりました。では、菅原梓がお隣に引越しをした時の事から、現在までを順番に話をしてください
ね」
「その前に教えてください。新聞に菅原さんと亡くなった川村さんとは、不倫関係と出てましたけれど、
いつ頃からの関係だったのでしょうか?」
「2年近く前からです」
「2年近く前……という事はご主人が亡くなって半年も経たない頃でしょう。全くねえ……」
ふみ子は「堪らない」という表情をしてため息をついた。
「菅原さんが引越しをして来たのは6年程前だったと思います。それまでは、小淵沢駅の近くのアパー
トに住んでいたが、空き家の抽選に当たったと言っていました。地元の人ではない、という事を知って、
私も県外者だったので嬉しかったですよ。亡くなったご主人とは年が離れていると思っていましたが、
仲が良さそうでした。団地は近所付き合いも薄く気が楽だ、と思われていますが、田舎の団地はうるさ
くてね、私は嫌なんですよ」
ふみ子は眉根に皺を寄せて、いかにも「面倒くさい」という表情をした。
「でも、菅原さん達は付き合い方に節度を持って、だからとても楽でしたよ。お互いの家に上がり込ん
だりとかはなかったですが、ベランダ越しに世間話をしたり、時々は、おかずを持って来てくれたりで、
私も主人を亡くして一人で淋しかったけれど、面倒な近所付き合いは嫌だったから、程よい付き合い方
で、いい人達が越して来てくれた、と思っていました」
最初に感じた印象と違うふみ子を、倉田は黙って見つめていた。
「ご主人が亡くなった時は、可哀相な位に落ち込んでいました。だって、急にあんな事で亡くしちゃっ
て。交通事故の事は知っていますよね?」
「ええ、知っています」
「ご主人が勤めていたホテルで仕事が出来るようになった事も、私はベランダでの会話で知りました。
それから少しずつ元気になって来ましたよ。ベランダで洗濯物を干している時に鼻歌を歌ったりして。
それにしても、菅原さんの部屋に男の人が出入りしている、なんていう事には気がつきませんでした。
でも、夜、ベランダに出た時、隣から煙草の匂いがしていましたが、私は、菅原さんがまた煙草を吸
い始めた、と思っていました。奥さんが煙草を吸うのは知っていて、でも、やっと禁煙出来たのよ。
と聞いていましたが、ご主人が亡くなってから、また煙草を吸い始めたと思っていました」
そこまで話をしたふみ子は、倉田達に出すお茶の葉を入れ替えるためにキッチンに立った。
「菅原梓の少し違う顔が見えそうですね」
遠藤が倉田に耳打ちした。
「普段の生活ぶりはどういう様子でしたか?」
ふみ子が新しくお茶を入れ直してから、倉田は尋ねた。
「私は病院の清掃の仕事をしていますから、朝、8時には仕事に出ちゃうし。菅原さんの方が遅くて、
帰りも私より早かったから……それに、休みも違うし。そうですよねえ、特に目立ってどうのこうの
と言うのは、なかったと思いますよ。男の人が出来てから派手になったとかもなかったし。今朝、ゴ
ミを捨てに行った時に上の階の人とも話をしましたけれど、みんな『まさか!』って驚いていました
よ」
「細かい部分で変わったという事はなかったのですか?」
「私が変に思ったのは、急に引越しをする事になった、と言って来た時です。菅原さんの田舎は福島
で、両親も亡くなったから福島には戻れないけれど、北杜市の田園風景が福島に似ているから、一生
山梨にいる。そう言っていたのにねえ。しかも、私に引越しの話をしたのは引越しの前日でしたよ。
転居先も教えると言っておきながら、何も教えてくれないまま引越しちゃって、淋しかったですよ。
全く……」
そう言って、ふみ子はため息をついた。
「引越しの理由は話していましたか?」
「やっぱりここに居ると亡くなったご主人を思い出すから、と言ってましたよ。どうなんだか……」
「その時の様子はどうでしたか?」
「特に変な様子はなかったですよ。とにかく私は淋しいと思ったから、でも、菅原さんの事情もある
し、私がとやかくいう筋合いはないので黙っていました」
「引越し当日はどうでしたか?」
「運送会社の人だけで、お手伝いの人もいなかったから、手伝いましょうか? って言ったら『大丈
夫』って言って忙しそうにしていましたよ。後も綺麗にしていて、そういう所はねえ、きちんとした
人でしたよ。出発する時に何か言ってくるかなと思っていて、待っていたら、いつの間にか終わって
いて出発しちゃったんですよ」
ふみ子は口を尖らせて言った。
「川村さんが訪れた時の様子はどうでしたか?」
「あの日、私が仕事を終えて帰って来たら、菅原さんの部屋の前に、背の高い男の人が立っていて呼
び鈴を鳴らしているので、私は引っ越しましたよ。って伝えました。名刺をもらって……あの人が亡
くなった川村さんだったのですよね……そう言えば、あの時、この団地に似つかわしくない良い匂い
がして……何処かでこの匂いを嗅いだ、と思っていましたが、ドアの外の階段の踊り場で嗅いだ匂い
だったのですよね。その時に、その人が菅原さんの部屋を訪れていたんでしょうね」
ふみ子は複雑な表情を見せた。
「私が引っ越した、と伝えたら、気の毒になる位に驚いていました。どういうご用ですか、と聞いた
ら向こうから『菅原さんは子供が出来て結婚をするので、お祝い金を渡す手続きに来た』って言い出
しました。その人の話が変だったので、私は部屋に上がってもらったんです。そこで、菅原さんに子
供が生まれるという事と、声が出ない。という事を聞きました。そんな事有り得ないので、私は人違
いじゃないか? と何度も尋ねましたけれど、間違いない。そう言ってましたよ」
「その時の川村さんの様子はどうでしたか?」
「その時は、そういう仲だなんて考えもしなかったので、会社の人が驚いて、困っているとしか思わ
なかったですねえ……だから、菅原さんの事『病気で子供が産めなくなった事と、私とはずっと会話
を交わしていた』と言う事を話したんです。本当の事ですし、それを言わないと納得しないだろう、
と思ったからです。きちんとした人で、帰る時にも丁寧にお礼を言われて、この話は内緒にしてくだ
さい。と釘を刺されましたよ」
「菅原梓から電話があったのはいつでしたか?」
「その次の日です。黙って引っ越してごめんなさい。って謝っていて、私に引越し先の住所を教えて
くれました。『誰か訪ねて来ませんでしたか? 迷惑かけていませんか?』って訊かれたので、ちょ
うど良かった。って私は会社の人が来た事を伝えて、川村さんに菅原さんの事情も話した。と言った
ら菅原さん怒っていましたよ。『そんな事まで話したんですか?』って責められました。余計な事を
話した私も悪いんですけれど、ちゃんとしなかった菅原さんが悪いって、私も文句言っちゃいました。
それで、電話をしながら分かったんですよ。昨夜の人と菅原さんの間で何かあったのではないか?
だから『余計な事に巻き込まないでね』そう言って電話を切りました」
「菅原梓の様子はどうでしたか?」
「自分が悪いって言っていました……口調はそうでもなかったけれど、内心は相当怒っていたと思い
ますよ。私も後味悪かったけれど面倒くさくて、これっきりにして欲しい。と思いました」
「菅原梓は取り乱したりはしていませんでしたか?」
「冷静でしたよ。だから余計に嫌だったんですよ。自分が悪い、みたいなそういう所も……腹が立ち
ましたよ」
その時の感情を思い出したのか、ふみ子は怒った表情になった。
「菅原梓の今までの印象はどうですか?」
「印象……ですか? その事が無ければいい人だと思っていたと思いますよ。貞淑な妻の顔をしてお
きながら、不倫していた……なんて、しかも偽装工作までして……」
「いい人だと思っていた。という印象は、今となってみたら、という事ですか? それを知らない時
の印象はどうでしょうか?」
「言われてみればそうですけれど。でも、その事を抜きになんて考えられないですよ。だって、偽装
妊娠や、会社や自分の家に引き込む男の人には、声が出ない演技をしているなんて、普通じゃ有り得
ないでしょう? 酷い話ですよね」
「精神的に問題がある、という事ですか?」
「そうじゃないですよ。精神異常ではなくて、したたかで計算している、という事ですよ。電話をか
けて来たのだって、タイミングが良すぎると思わないですか? 私が懐かしくなったのではなくて、
様子を探りたいから、そうでしょう? この年まで生きて来て、こんな嫌な思いしたのは初めてです
よ。本当に人との付き合いって難しいと、今更ながら思ってますよ。でも、精神何とか……精神鑑定
でしたかしら、警察ではそれをするのですか?」
「まだそういう事はこれから決める事で、その為にもいろいろお話を伺っているのです」
「私が話した事も大きく影響するって事ですか?」
「そんなに深刻に考えなくて大丈夫ですよ。いろいろな人のお話を伺って、本人からの話を聞きなが
ら判断して行きます。片岡さんは事実と思った事を、そのままお話頂ければそれで結構です」
ふみ子の気持ちをほぐすように、倉田は笑顔で伝えた。
「刑事さんだって、私が話した事が『きっかけ』だって思っているのですよね?」
「片岡さんには責任はないと思いますよ。川村さんが片岡さんに具体的な事をお話したのは、何故、
菅原梓が突然に引越しをしたのか? その理由を川村さんが探るための事だったからでしょう。片岡
さんがお話しなくても、いつか川村さんはその事実を知る事になりましたよ。菅原梓に話をした事だ
って、菅原梓が探ってきたからです。こういう言い方をして失礼かもしれませんが、片岡さんは利用
された、のですよ。それより、その前の菅原梓の行為そのものが問題だったのです。いつまでも隠し
通せる、と思っていたのが間違いだったのですから、ご自分を責める必要はありません」
「本当にそう思ってくれますか? ずっと眠れなくて、仕事も休んでます」
「お気持ちは分かりますよ。嫌な事に巻き込まれちゃいましたね。倉田が言うように、片岡さんが気
に病む事はありません」
遠藤が声をかけた。
「刑事さん達がそう言ってくれて……少しは安心しましたけど。でも、川村さんにもご家族がいるの
ですよね? 菅原さんは、相手の家族や亡くなったご主人のためにも、きちんと罪を認めて謝罪して、
罪を償ってもらいたいと思いますよ」
ふみ子は少し安心したのか、急に泣き始めた。
「片岡さんの仰る通りです」
「もし、菅原さんがまた演技をしているのなら『もういい加減にしなさい』と、私が言っていたと伝
えてください。『したたかで計算している』なんて言っちゃいましたけれど、こんな私に良くしてく
れた菅原さんの事は嫌いじゃないですよ。好きだから、ちゃんとしてもらいたいんですよ。それで、
もし、罪を償って戻って来た時、行く所がなかったら……またここに戻って来てもいいんですよ。よ
そ者同士、仲良く生活しましょう。ってその事も伝えてください」
そう言ってふみ子は本格的に泣き出した。
「片岡さんのお気持ちは菅原梓に伝えます。今日は本当にありがとうございました。何度も言います
が、ご自分を責める事はなさらないでくださいね」
「ありがとうございます。明日から仕事に出ます」
膝を庇うような仕草でふみ子は立ち上がり、玄関口で三人を見送った。
「せんない……ですよね」
次の聞き込み先である、リゾートイン小淵沢というホテルに向う車内で、遠藤がポツリと呟いた。
「それに、やるせない……という思いもプラスしてます」
検事である遠藤と、県警捜査一課の倉田に遠慮てか、今まで口を挟む事がなかった米山が、ハンド
ルを握りながら初めて口を開いた。
「菅原梓は、親子程年が違う片岡さんからの言葉を聞いてどう思うのでしょうか? 僕は、菅原梓に
は、片岡さんや川村さんの奥さんと対峙させたいと思います」
「お前の言いたい気持ちは判るが、そう熱くなるな。片岡さんも言っていただろう? したたかに計
算しているって。こっちが熱くなったら、見えるものも見えなくなるぞ」
倉田は自分にも言い聞かせるように言って、運転している米山の肩をそっとたたいた。
三番目に訪れたリゾートイン小淵沢での菅原梓は、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルや片岡ふみ子の
話とは全く違っていた。
宿泊予約日数が違うとクレームを付け、嫌味を言い、ロビーで挙動不審な行動を取り、最後にはバ
ラの花を折って帰った。しかし、宿泊した部屋は綺麗できちんとしていた。
帰る時にホテルの部屋を片付けて帰る、というのは「たしなみ」だろうし、後で清掃する人への思
いやりでもある。大袈裟に言えば、利用した人間の品格なのだろうが、事故当日、精神的に不安定だ
った菅原梓に、その事が出来るだろうか?