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第七章

   

   翌日の火曜日、真理は山梨北署内に設置された捜査本部を訪れた。

   

   市町村合併の際に、新しく建て替えられたばかりのモダンな庁舎は、他の警察署とは雰囲気が違っ

  ていたが、真理は緊張した。

 

   受付にいた婦人警官の案内で、小奇麗な小会議室に通され、担当の山梨県警本部捜査一課の倉田修

  警部を紹介された。


   警察官と言うよりは、何処にでもいそうな中年のサラリーマン風情の倉田を見て、少しホッとした

  が、すれ違う所轄の警察官に比べて鋭さを感じたのは「山梨県警察本部捜査一課」という肩書きのせ

  いなのだろうか?

 

   倉田は真理に丁寧にお悔やみを述べ「ご主人の持ち物のご返却や、お話を伺いたい事がありました

  ので、こちらから出向く予定でいました。わざわざお越し頂いてありがとうございます」と優しい笑

  顔を向けた。


  「この度は、いろいろお世話になりありがとうございます。本日は主人と私との間に起きた事をお話

  したいと思いまして伺わせて頂きました。それともう一つ、菅原梓に関して、厳正な捜査と処罰を望

  みたいと思う気持ちもありますので、その事をお伝えしたいと思いました」

   真理は倉田の目を見つめながらハッキリとした声で伝えた。



  「分かりました。これから川村さんにお話を伺う事になります。伺った内容は全て記録させて頂くよ

  うになりますので、予めご了承ください。恐れ入りますが少しお待ち頂けますか」

   そう言って倉田は部屋を出て行った。

 

   一人残されて真理は小さな部屋を見回した。警察署内の部屋というより、何処かの会社のミーティ

  ングルームのような雰囲気を持っている部屋は、就職試験の面接を受けているような気分になった。

   しかし、待っている間にコーヒーを出してくれた女性の制服姿を見て、現実に戻された。


  「菅原梓もこの署内に勾留されているのだ」

   そう思うとどうにも落ち着かない気分になった。


  「落ち着きなさい」

   自分に言い聞かせ目を閉じた。


  

  「お待たせして申し訳ありません」

   しばらくして、倉田が若い刑事と、先程コーヒーを運んで来てくれた婦人警官を伴って現れた。


  「テレビで観る刑事ドラマと同じ」

   真理は少し可笑しくなり、緊張が少しほぐれた。


  「こちらは山梨北署の米山巡査部長です。同じ山梨北署の深沢巡査です」

   同行の二人を真理に紹介して、倉田は真理の向かいに座り、一つ離れた席に米山、筆記係の深沢は

  端の席に座った。


  「今日は少しお時間がかかるかもしれません。途中で具合が悪くなったり、トイレに行きたくなった

  り、喉が渇いたり、そういう時は遠慮なく仰ってください」


  「分かりました」

   答える声が少し震えた。


  「あの……、加害者に会わせて頂く事は出来ませんか?」

   

  「申し訳ありませんが、その事は出来かねます」

   さっきと違った倉田の雰囲気を感じて、真理の中に失望感と緊張感が走った。


  「……」


   顔を伏せた真理を見て、倉田は取り調べ中の菅原梓の様子を思い浮かべた。


  「早速ですが、奥様のお話ししたい事というのを伺わせて頂けますか?」


  「はい……」

   昨日からここに来るまでの間、あれだけ考えて、何度も自分の中で繰り返していたが、いざその時

  が来たのに最初の言葉が出てこなかった。


  「これは取り調べではありませんから、そんなに緊張されなくても大丈夫ですよ。奥さんが思った事

  を素直に、正直にお話してくれれば、それでいいのですからね」

   

   倉田の言葉は優しかったが、それでも真っ先に雄一郎の不名誉な話をしなくてはならない、という

  事に躊躇いがあった。


  「申し訳ありません。いろいろ考えて来たのですが……」


  「誰だってそうですよ。少しずつで結構ですから、気を楽にしてお話してください」


  「分かりました……これは、私にとっては辛い事ですし、主人と私にとっては不名誉な事ですが、そ

  れを話さないと始まりませんから……実は、私達には離婚話が出ていました。3月の初めに主人から

  『他に好きな人がいるから別れたい』そう告げられました」

   そう言って、真理はこみあげて来たものを飲み込んだ。


  「主人の相手は菅原梓さんです。今日、伺ったのは、事故の起きた日の深夜にかかって来た無言電話

  がきっかけでした。今まで一度も無言電話なんてかかって来た事はなかったので不信に思ったのです

  が、その時、もしや……という気持ちが沸きました。勘でしかなかったのですが。そして、私が、叔

  父から被疑者の名前を聞いたのは葬儀が済んだ後でした。その時に私の勘は間違っていない、と確信

  しました。彼女の行なった行為、逃走した事も含めてですが、これは殺人行為以外の何物でもない。

  と思いました。何故、彼女がそんな事をしたのか? 主人は死ななくてはならなかったのか? 一日

  も早く、真相を明らかにして欲しかったからです」


  「奥様のお気持ちは真摯に受け止め、警察としても厳重且つ慎重に捜査を行ないます。これからは、

  こちらから細かい事をお伺いします。お辛いかとは思いますが、ご容赦ください。まず、ご主人に離

  婚を告げられた時の状況から詳しくご説明願います」


  「主人から突然離婚話を切り出されたのは、単身赴任先の山梨から久しぶりに帰って来た3月初めの

  平日です」



   真理は、あの辛い出来事の話を始めた。

  離婚を告げられた時の様子。その後の事。梓がホテルに現れて知った本当の理由。その時の辛い気持

  ちを癒すために、村上と会った事。そして、雄一郎が知った現実。自分に救いを求めていると思って、

  夢中で山梨に行ったが、殻を被っていた自分が最後の最後になっても、雄一郎の気持ちを救ってあげ

  る事が出来なかった、と後悔した事。村上から聞いた「雄一郎の真実」


  

  「分かりました」

   真理からの話を聞き終えた倉田は、ただ一言、そう答えた。


  「遠くまで出向いて頂き、更に辛い事をきちんとお話頂いた事に感謝いたします。菅原梓が、故意に

  事故を起こし、ご主人を亡き者にした事は事実です。今は、取り調べ中ですので奥さんにも詳しいお

  話をする事は出来ませんが、奥さんの真実を突き止めて欲しい。というお気持ちは重々承知しており

  ます。その……すみません。詳しい事をお話出来なくて申し訳ないのですが……私達は、真実を突き

  止めますので、もう少しお時間をください。また、ご主人と菅原梓との事については、直接ご主人と

  お話をされた村上さんにも、話を伺わせて頂く様になります。悪質な行為で、交通犯罪の抑止力から、

  マスコミが取材に伺う事もあるかもしれませんので、その時はご対応をお願いいたします。今日はこ

  のまま横浜にお帰りですか?」


  「主人を一人残していますので、すぐに帰ります」

   真理は一刻も早く横浜に、雄一郎の元に帰りたかった。


   しかし、倉田に笑顔を向けた真理の胸に今度は焼け付くような痛みが襲った。


  「具合いがお悪いのですか?」

   顔をしかめ胸をさする真理の様子を見て、倉田が心配顔で尋ねた。


  「大丈夫です。最近、煙草の本数が増えて……気をつけなくてはと思っています」


  「そうですか。無理をしないで、お身体を大事にしてください。くれぐれも運転には注意をしてくだ

  さいね」

   倉田はそう言って、米山に目配せをした。倉田の目配せに米山が部屋を出て行った。


  「綺麗ごとに聞こえると思いますし、ご理解頂けないかとは思いますが、私は主人を許そうと思って

  いました」

   胸の痛みが去って、真理がポツリと話を始めた。思いつめたような言い方に、倉田と婦人警官の深

  沢は思わず真理を見た。


  「信じていましたが、もし、主人が戻って来なかったとしたら、私は『立場が変わってもいいから傍

  にいたい』そう伝えようと思っていました。主人が、私に相手の方の妊娠を告げなかったのは、気の

  弱さだったのかもしれませんが、私は、せめてもの主人の誠意だと思っています。決して主人を擁護

  しているのではありませんが、そういう人だと信じています。主人は私には非はない、と言っていま

  したが、そうではなくてお互い半分ずつ非があったのです。ある人が「愛する事、信じる事、忘れる

  事は人生の3つの試練」という言葉を教えてくれました。彼女とは一度だけ会っただけで、その時は

  『嫌な女だ』と思いましたが、憎しみは沸きませんでした。それは今でも同じです。もし、許される

  のなら直接会って、同じ人を愛した彼女の本当の気持ちを聞きたい、と思っています。何度も言いま

  すが、彼女の事は憎んではいません。ただ、彼女の犯した行為だけは憎んでいますし、許せません。

  私が言いたいのはその事だけです」


   問わず語りで始めた真理の話を聞いて、深沢がそっと目頭を押さえた。


  「悲しみの上に、また悲しみを重ねる事になるかもしれない」

   

   倉田は、真理の雄一郎への思いを感じていたが、少しずつ自供を始めている梓の様子をまた思い浮

  かべた。

  

   そこに段ボール箱を抱えた米山が戻って来た。


  「遅くなってしまいましたが、捜査上必要ではなくなったご主人の遺品をお返しいたします」

   倉田はそう言って段ボール箱を真理の横に置いた。そして、段ボールから密閉されたビニール袋を

  取り出し、真理に差し出した。


  「中身の瓶が壊れてしまっていたので箱だけになってしまいました」


   真理は倉田からビニール袋を受け取ったが、その袋から懐かしい香りが漂っているのに気がつき

  「エタニティ!」と声をあげた。箱は潰れ汚れていたが、真理が愛用している香水の箱だった。そし

  て、袋の中には香水が沁み込んだメッセージカードも入っていた。袋から取り出さなくても、そのま

  までハッキリと文字が読み取れるカードのメッセージを読んで、堪えきれなくなった真理は泣き崩れ

  た。


   倉田が慌てて真理を抱きかかえた。深沢もすすり泣いていて、米山の目も潤んでいた。


  「これが、ご主人の奥さんへの本当のお気持ちですよ」

   倉田は、真理を椅子に座らせて優しく話しかけた。


   「真理へ

     新たに……二人で一緒に時を刻んで行ってくれる事を願って。

                             雄一郎」

 

   メッセージカードにはそう書かれていた。

  

            



  「辛いな」

   真理を見送った倉田は一人言を言って、深いため息をついた。


   自ら警察署に出向いて話をする、という被害者家族は初めてであった。被害者の事については言い

  たくない事もあっただろうが、自分が知りうる全ての事を、正直に話をしてくれた真理の気持ちに感

  謝し、辛い気持ちを思い図った。


  「こういう結果を招いたのは、『自分に非がある』と責めているのだろう」

   そう思うとやるせなくて切なかった。そして、その気持ちと同じ位、真理が雄一郎を愛していたと

  いう気持ちを感じた。




   倉田は送検が決まった後も、警察署内に勾留されている菅原梓が取り調べられている取調室に向っ

  た。


   逮捕されたのが土曜日の夕方で、翌日の午後から梓は少しずつ自供を始めていた。


   部屋のドアを静かに開けた時、自分に梓が怪しげに微笑んだのを見た倉田は、嫌悪感のようなもの

  を感じた。倉田は梓の取調べをしている、県警捜査一課の柳田淳巡査の肩を叩いて、廊下に出るよう

  に命じた。


  「どんな様子だ」

   倉田は取調室を顎で指して柳田に訊いた。


  「ガイシャとの関係を具体的に話してます。自供にウソはないようですが、描写が具体的で細かいの

  でウンザリですよ。その部分を飛ばして話を進めると、機嫌が悪くなって口を閉ざします」

   柳田はいかにもウンザリといった様に首に手をあてて、首を回した。


  「意図的にそういう風にしている様子か?」

   倉田は眉根に皺を寄せて、柳田に訊いた。


  「意図的ではないようですが、自分達の熱愛話を自慢したいような、そういう雰囲気はあります。自分

  がした事も承知していますが、反省はないですね。相変わらず、事故を起こしたのは『天の声』そう言

  っています。それと、性的な部分への強い執着心、異性や恋愛に対しての強い執着心のようなものを感

  じます」


  「そうか……まあ、余り先入観や固定観念を持つなよ。今日はこれで打ち切りにした方がいいだろう。

  こっちで聞いた話と調書を照らし合わせる必要もあるし」


  「分かりました」

   柳田はそう言って取調室に戻った。


   柳田より一足遅れて取調室に入った倉田は、そこでまた自分に向ける梓の怪しげな視線を感じた。


  「菅原さん、疲れたでしょう? 今日はこれで終わりにして、また明日ゆっくりとお話を聞かせてくだ

  さい。それから、一つだけお願いがあります。こうして菅原さんの話を聞いているのは、いろいろ人生

  経験少ない若い刑事が多いので、事件に直接関係ない事での、その……余り具体的な描写は少し慎んで

  もらえますか? 彼らも恥ずかしいようですよ」

   倉田は敢えてその事を口にして梓の反応を見た。梓の視線が泳いだ。


   梓の真意は読み取れなかったが、何か引っかかるものは感じていた。 


 

   一時間後、倉田は捜査本部のデスクで、甲府地方検察庁からわざわざ出向いて来てくれた、担当検事

  である遠藤浩二朗と、真理の調書と、梓の調書を一つ一つチェックしていた。


   遠藤検事とは何度か捜査を担当した事はあるが、40代後半のいかにも切れ者で「悪は見逃さない」

  という姿勢の遠藤を信頼していた。


   菅原梓は、被害者の川村雄一郎とは不倫関係にあった事と、失声症と妊娠はウソである事は認めてい

  た。

   被害者に亡き夫の面影を見て好きになったのは、夫の菅原幸一の葬儀の席上だった。諸手続きのため

  に被害者が訪問するという事を聞いた時には運命だと思った。失声症を演じたのは、被害者の同情をか

  うためで、その思惑通りに被害者とは深い関係になった。失声症を演じるのは苦しかったが「失声症が

  治った」という事は「被害者へのクリスマスプレゼント」と決めていたので我慢をした。

   偽装妊娠は、被害者を独占するためであった。妊娠を被害者に告げた後、つわりのような症状が起き

  「頑張れ」という声も聞いたので、そのまま演じ続けた。「始末して欲しい」と言われたら、その時に

  次の事を考えるつもりだったが、被害者は「一緒に歩む道」を選択してくれた。そして、離婚が決まっ

  たら「流産した」と報告するつもりだった。しかし、被害者の妻である川村真理が勤めるホテルに行っ

  た事を、被害者に責められた事で、生きる気力を失くしてうつ状態になった。挙げ句、被害者と別れる

  決心をして引越しをした。その後、山梨県北杜市の隣家に住んでいた主婦から、失声症と偽装妊娠が被

  害者にバレてしまった事を聞き、自分が愛している被害者に憎まれている、と思うようになった事でう

  つ状態が酷くなった。就職が決まっていた雑貨屋で仕事を始めたが、店の店長や客が自分の悪口を言っ

  ていて怖くなり、店には出勤したくないと思い、3日だけ仕事をして辞める事にした。その後、不眠症

  にもなったので精神病院で治療を受けた。事故前日から山梨に行ったのは、被害者に会いたかったから

  で、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルの駐車場で被害者を見た時に、感情が高ぶり無意識のうちに後をつ

  けていた。高速道路上で被害者の車を見ていると「一緒に行きなさい」という幻聴が聞こえ始め、咄嗟

  に行動を起こした。殺意は全くなく、聞こえた幻聴は被害者と自分を「幸せの国に導いてくれる」天の

  声だと思った。その後「自分は行けなかった」という事に気がつき、天の声の言う事をきかなかった事

  が怖くなって逃走した。と供述していた。


  「簡易精神鑑定を受けさせる要素は充分に有りですよね。夫を亡くして、その葬儀の席で被害者に好意

  を持ち、そして演技をした。その事から始まった一連の行為。でも、倉田さんは疑問を持っているので

  しょう?」

   どちらかと言うと、女性的な独特な話し方で遠藤は倉田に訊いた。


  「まず、一番に『子供を武器にしている』という事が気に食わんのですよ。世の中には、子供が欲しく

  ても授からなくて、悩んでいる夫婦がたくさんいる。被害者だってそうでしょう。人の弱みにつけ込ん

  で気持ちを弄ぶ。それに、偽装妊娠を図って、欲しい物を手にいれた後、流産したと言う。こんな酷い

  話がありますか? だいたい、自分だって同じ事を経験しているのに」

   倉田は心の底から怒っていた。


   遠藤は黙って、倉田の話を聞いている。


  「菅原梓は故郷の福島でも同じような事をしています。福島では成功して結婚を果たしている。言わば

  常習犯です。そういう恋愛しか出来ない、と言えばそうでしょうが。だから今回の事も全て計算ずくだ

  と考えてしまいます。それに、ガイシャは優秀なホテルマンだった。43歳という若さで総支配人とい

  う事と、ホテルの評判でのガイシャの人間性で、その事は充分は納得出来るものがあります。我々とは

  違った部分でたくさんの人間を見ている、その優秀なホテルマンが『演技』は見抜けなかったとしても、

  菅原梓に潜んでいる『精神的な病』を見抜けなかったのだろうか? という事が正直引っかかるのです。

  まあ、男と女の関係には、私なんかは経験不足で、理解しがたい部分があるとしても、ですけどね」

   唸って倉田は頭を掻いた。

 

  「確かに梓はウソがばれた後、うつ状態になり精神科で診断を受けている。失声症、偽装妊娠、ホテル

  に現れた事、突然姿を消した事、その後の行動の全てを考えると、精神障害も考えられます。ですがね、

  裏を返せばそれなりの演技も出来るという事に繋がる。というのが私の見識なんですよ」


  「倉田さんの怒りの気持ちは分かりますよ。行った行為は許されるものではありません。でも、先入観

  を取り払って考えましょう」

   さっき、倉田が取調官の柳田に言った言葉と同じ事を、遠藤は倉田に言った。


  「分かりました。もう一つ、これからはここだけの話というか、私が一個人として感じている気持ちで

  終わらせてもらいたいのです。実はね、あの二人の様な夫婦が世の中に存在するのか? と言うのが正

  直な感想だったのです。まるで絵に描いたように、旦那はイイ男、奥さんは美人。しかも二人ともそれ

  なりの役職についていて社会的に認められ、高収入も得ている。いろいろ苦労はあったとしても……で

  も、さっき会った川村真理さんを見て『アリ!』なんだ、と思ったんですよ」


   イマ風な表現をした倉田に、遠藤は少し驚いた。


  「本当に綺麗な人でしたよ。言っておきますが、私は、その美貌に惹かれたわけではありませんよ」

   倉田の言葉に、思わず遠藤検事は笑みを浮かべた。


  「何度も言いますが、勤めていたホテルでのガイシャの評判、奥さんである川村真理さんに会って直接

  聞いて感じた事、うーん……例えば、相手を思いやる気持ちとか、真に愛する気持ち、私達が忘れてい

  る何か大切な事、そういう事を私達に思い起こさせるために、この夫婦が存在している。そんな気持ち

  がして来たんです。この年になってそんな事を言うのも恥ずかしいのですが……」

   そう言って倉田は、コーヒーメーカーからコーヒーをカップに注いだ。


   遠藤は倉田の動作を見ながら、次の倉田の言葉を待っていた。


  「そういう川村夫婦を目の辺りにした時の菅原梓の気持ちを思ったのです。おそらく、嫉妬心が沸々と

  沸きあがり、普通の神経でいられなかったと思いますよ。正常な神経では立ち向かえない。ガイシャの

  妻である川村真理さんに向い合うには、正常な生き方では負けてしまう。そうなったら、自分が勝ち残

  れる事、女として生き残る道、やはり現実的ではない演技をして奪うしかない。あれだけの演技をした

  菅原梓だったら、それをする覚悟は出来ると思います。」


  「心神喪失を装う演技だと言うのですか?」

   遠藤は倉田に訊いた。


  「今回の事故は、怨恨絡みの殺人事件です。菅原梓に合わせる相手は、精神科の医師ではなくて、川村

  真理さんだと思っています。彼女と面と向わせて、菅原梓の反応を見る。簡易精神鑑定より真実が見え

  てくると思いますがね。無茶な話ですが……これは、警察官としての考えではなく、私個人の考えなの

  でご容赦ください」


  「そう承知しています。これからは警察官として話をしてください。菅原梓の殺害や心神喪失の可能性

  については、本人からの話、レンタカー、宿泊したホテルなどからの話から受ける、要は第三者が感じ

  た事で状況証拠ではありません。でも、たった一つ、精神科の医師が下した『短期精神障害』という診

  断結果は見逃す事は出来ませんから、私は簡易精神鑑定を申請します。もし、演技であれば鑑定医が見

  逃さないでしょう」


  「うーん……」

   簡易精神鑑定を受けさせる可能性は大きいと考えていたが、そこからの判断は危険だ、という考えも

  あった倉田は、納得出来ないという様に唸った。


  「倉田さんではありませんが、これは検察官としての私の意見ではなく、個人での意見です。倉田さん

  の考えに賛同していますよ」

   二人しか居ない部屋で、遠藤は小声になった。


  「賛同している気持ちを、検事として自分の心の底に置く事は出来ませんが、人間として留めおく事は

  出来ます。ですが、正確な状況判断と公平さできちんと判断させて頂きます」


  「明日からの聴取なんですが、少し変えようかと。細かい部分の確認作業になっているのですが、被疑

  者の世界に引きずり込まれているので、それを立て直す必要があります。どうもね、気になりましてね。

  今日も取調室に入った瞬間、私を見る目が異常なんですがしっくりこないんですよ。これも先入観かも

  しれませんが、なかなかしたたかな部分ありますから」

   倉田は冷めたコーヒーを飲みながら、ため息をついた。


  「倉田さんがため息をつく位に手ごわいですかね?」


  「事故そのものについては本人も認めているし、責任能力と殺意の有無だけと言う事になるのでしょうが、

  有る無しだけで終わらせてはいけない、その裏側に何かがあるような気がして。今時流行らない『刑事の

  勘』でしょうが」


   倉田はずっと感じていた「切ない気持ち」を遠藤に伝えようか迷っていた。一人を死亡させ、怪我はな

  かったとしても、その他にもたくさんの人間を巻き込んだ菅原梓の犯罪は見逃せない。また、心神喪失を

  装っている可能性がある菅原梓の行為は許されない。40歳過ぎの分別がある大人の犯行は、生い立ちや

  育った環境が影響してくる、などの言い訳は通用しない。しかし『罪を憎んで人を憎まず」という言葉が

  ある。だから、菅原梓の中に潜んでいるものを探りだしたい。倉田はそんな思いがあった。今日、川村真

  理に会ったからか?……そこまで考えが巡って、倉田は首を振った。


  「心理合戦になりそうですね」

   黙りこくって考え事をしながら首を振っている倉田を見て、遠藤も覚悟を決めた。


  「それから、八ヶ岳と小淵沢のホテルと、例の隣に住んでいた主婦の聞き取りですが、私も同行したいの

  ですが」


  「分かりました、明日朝9時に迎えに行きます」




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