第六章
「まだ泣かないの」と真理が雄一郎に約束した事は、あの夜から、葬儀でも守る事が出来なかった。
通夜と葬儀では気丈に振る舞って喪主を務めあげたが、火葬場で、雄一郎を荼毘に付さねばならな
い、本当の別れの時間が来た時「止めて!」と叫び、棺の前に立ち塞がった。そして、火葬場の係
官や、村上達にすがって「お願いだから止めさせて!私から奪っていかないで!」と必死に訴え、参
列者の涙を誘った。
*****
「逃走した車が判明し、被疑者が逮捕されました」
警察から電話があったのは、土曜日の夕方になってからだった。
「悪質な行為である事から、山梨県警本部の捜査一課で引き続き事故原因の究明を行ます。お預かり
している遺品の返却もありますので、近日中に改めてお伺いさせて頂きますので、その時はご協力を
よろしくお願いいたします」
矢沢勲が電話を受けたが、山梨県警本部の倉田修という警部の対応は丁寧だった。
勲が「被疑者の名前」を真理に伝えたのは、葬儀と合わせて行った初七日の法要が済んだ、日曜日
の夕方であった。他に村上夫婦、会社に事情を説明し、公休を取っていた杉山直樹が顔を揃えていた。
「被疑者は菅原梓」という事を聞いて、真理は絶句した。辛い出来事が浮かんで泣き崩れた。
「酷すぎる……」
叔母の友美が真理を抱きしめた。
*****
「話す事がある」
矢沢夫婦が帰り、真理と村上夫婦、杉山の四人だけになった時、村上が真理に告げた。
「初めに伝えるが、川村は、直接お前に話をしたかったが出来なくなった。だから、俺が川村に代わ
って伝える。それから、川村がお前に話をする前に、俺に話をした事を許してやって欲しい。あいつ
は辛くて不安だったんだ」
「大丈夫よ。でも、彼の前で話せる?」
「話せるよ。これは川村の真実だから」
村上はそう答えた。
雄一郎と真理との間で何かが起きた、という事は感じていたが、その事を聞く事が躊躇われた杉山
は「僕は失礼します」と帰る素振りをみせた。
「杉山君も一緒に村上さんの話を聞いてくれる?」
真理の頼みに少し躊躇したが、黙って雄一郎の遺影の前に座った。
「川村は真理を心から愛していたよ」
村上の最初の言葉に、真理はハッとして雄一郎の遺影を見つめた。見つめる目から思わず涙が溢れ
た。
「だが、川村は別の女も同時に愛していた」
村上は意識して名前は出さなかった。
「二人を愛していた事は事実だが『愛の種類が違う』と川村は言っていた。女は、川村のホテルで働
いていたシャトルバスの運転手の女房だった。その運転手は、事故に巻き込まれ亡くなった。川村は、
手続きでその女と接しているうちに、亭主を亡くしたショックで声を失った女に同情心が沸いた。そ
れで、運転手の女房に、ホテルの仕事を斡旋した。そして同情が愛情に変わり不倫関係が始まった。
川村は幸せだったそうだ。真理がいて、その女がいて。それでも、真理を裏切る事が辛かったから、
何度か『別れろ』と自分自身に言い聞かせていた。だが、自分の気持ちに決着をつけられずにいた時、
女から『子供が出来た』と告げられた。話を聞いて、真っ先に真理の顔が浮かんだ。次に亡くした子
供の事が浮かんだ。そして、新しく生まれる子供に罪はない。そう思ったそうだ。女との子供を育て
あげる決心をした。だから、真理に別れを告げ、その女と歩む事に決めた。何の選択肢もない非力で、
ただ親だけが頼りの子供を育てるためには、どんな非難も受ける覚悟をしていた。真理との間に亡く
した子供の兄弟だから。川村は、そう言っていたよ」
そこまで話して、村上も雄一郎の遺影をじっと見つめた。
「あの時、俺はお前に『地獄に堕ちろ!』と言った。悪かったな」
心の中で雄一郎に詫びた。
「真理には詫びても許される事ではないだろうが、本当に申し訳ない。そう言っていたが、川村は、
生まれて来る子供を心待ちにしていた」
村上は話を止めた。真理を見たが、真理の気持ちは読み取れなかった。
「子供が生まれる事は、真理には絶対に話はしない。夏が終わったら会社を辞めて、別の場所で生活
を始める予定にしていた。真理には勿論だが、女の前でも、一度も真理の話しをした事がなかったそ
うだ。二人が大事だったから、それがせめてもの二人に対する誠意。川村はそう思っていた。だが、
選んだ女がそれを壊した。真理の前に姿を現した。それを知った川村は女を責めた。その事だけは許
せなかった。それが原因だったのだろうが、女は突然に姿を消した。川村は女の隣の家に住む主婦か
ら聞いた。と言っていた。それで川村は全てを知った。女の失声症も妊娠もウソだったんだ」
突然、真理の身体が大きく揺れた。
杉山と弓恵は、じっと村上を見つめていた。部屋の中に、糸をビーンと張り詰めたような緊張感が
走った。
「初めからそんな事は無理だった、と言っていた。度量もないくせに、一人前の男ぶって恥ずかしか
った。あいつは自分を責めていたよ。女の偽装を知って川村は、自分の愚かさと、自分が犯した罪の
深さにやっと気がついた。退職も覚悟して、異動願いを出すつもりだったし、真理に戻って来てほし
い、という話をするつもりだった。もし、真理が許してくれなかったら……って、その覚悟もしてい
たよ」
雄一郎の遺影を見つめる真理の身体が、小刻みに震えていた。
「真理には信じられない話だろうが、これが川村の真実だよ。最後に言いたい真実は……川村は心の
底から真理を愛していた。という事だ。そして、川村は、俺の前で女の悪口も言わなかったし、騙さ
れたとも言わなかった。俺はそんな川村を信じている」
話し終えた村上が真理を見た。
真理は、さっきからずっと雄一郎の遺影を見つめていた。煙草を銜えて、雄一郎が現れるような気
がした。
「でも、愛してくれるのなら……私一人だけを愛していて欲しい、って思うの」
真理がポツリと呟いた。
「誰だってそうでしょう? 弓恵さんだって、村上さんには、弓恵さんだけを愛していて欲しいって。
だって、妻だものね」
真理は弓恵の顔を覗き込んだ。
「私達だけじゃなくて、世の中のほとんどの人はそう思うでしょうね。でもね、川村さんが真理ちゃ
ん以外の人を愛していた間、別れを告げられるまでの間、真理ちゃんは、何も気がつかなくて幸せだ
ったでしょう? 川村さんは自分だけを愛してくれている、って思って幸せだったでしょう? だか
らと言って、川村さんの行為を認めているのではないのよ。でも、それが川村さんに出来る精一杯の
誠意だった、と思うの。だから……」
弓恵は声を詰まらせた。
「そうなの。『許そう』と思っていたの」
真理の言葉に、感極まった弓恵は手で顔を覆って泣きだした。
「異動願いなんて、一人で背負う事なんてなかったのに。彼の方が私よりずっと人間的だった」
そこで真理は遺影から目を離して、村上の顔を見た。
「川村に100%責任がある、と言うのは違うかもしれないが、川村は、自分のやった事に責任を持
ちたかったのだろう。もし、やり直せる事になったら、今度こそ、真理を守りたいと思ったのだろう」
「私は社会的に認められる立場になり、彼と同等だって思ってけれど、そうではなくて、私は、彼を
更に輝かせる。そう、彼の付加価値でいたかった。その事に気がついたのは、別れを告げられてから
よ。別れを告げられて仕事への意欲を失った。でも、それは『離婚』という事で、落ち込んでいたの
ではなくて、私は彼の付加価値ではなくなる、そう感じたからなの。でも、感じただけではダメなの
よね。伝える事はちゃんと伝えないと。私って、いつもそうだった。伝えられない自分をもどかしく
思っていて、自分でちゃんと分かっていたのに。自分が殻を被っているのに、相手に殻を破って欲し
い、なんて都合のいい話よね。愚かでバカなのは私なの。だってね……夜中に、電話がかかって来た
事があったでしょう? 今、思えば、彼が彼女の偽装を知った日だったのよね。私は気になって夜中
に山梨に向って、そして彼と会ったの。私に、SOSを発信しているのかもしれないと思ったから。
でも、私は、自分が傷つくのが怖くて、まだ殻を被っていて、彼のSOSを受けとめる事が出来なか
った。彼はボロボロになっていたのに。救いを求めているって感じていたのに。それでね、私が帰る
時に『バリッとした姿を見せたい』って、シャワーを浴びて出て来た彼は、いつもの川村雄一郎だっ
た。私は、満足して安心したけれど、彼は辛かった、と思う。私は自分中心に彼を見ていたから、ず
っとそうだったから、だから、彼が別の女性を求めるのは仕方ない事だった。と思っているの。それ
にね、彼が別の女性の元に行って、立場が変わっても、傍にいて欲しかったとも思ったの。そんなの
変でしょう? 棄てられた妻が愛人の立場になる、なんて。でも、それでも傍にいて欲しかったの。
だから、彼に伝えようと思ったけれど……やっぱり出来なかったの。勇気がなかったから。彼の本心
が分からなくて、傷つくのが怖かったから。『愛される』より『愛する』その事の方が幸せって思っ
ていたのに」
真理は急に立ち上がって、雄一郎の前に座った。
「ごめんね、私に勇気があれば……あなたは死ななくても済んだかもしれない……私があなたを殺し
た……」
真理はそう言って雄一郎の前で泣き崩れた。
村上は居たたまれなくなってベランダに出た。ベランダに座り込んで誰はばかる事なく、思いっき
り泣いた。
杉山は……村上の話にはショックを受けた。確かに「川村雄一郎の真実」なのだろうが、自分が知
っている川村雄一郎と、川村真理とは程遠かった。いつの間に、二人はきちんと向き合う事をしなく
なったのだろうか? 生き甲斐だった仕事が二人を変えたのか? 真理は夫の不貞を知って苦しんだ
のだろう。その過程で悩み、考えたのだろうが、それでも、夫である雄一郎を庇い、自分だけを責め
る真理の気持ちは、理解出来ないものがあった。
「私、明日、警察に行こうと思ってるの」
地の底からから発しているように感じられる真理の声に、みんなが真理を見た。
「警察に行く?」
ベランダからリビングに戻った村上が訊いた。
「雄一郎さんがこの家に帰って来た日の夜、みんなが帰った後、無言電話があったの。
今まで一度もなかったのに。その時にもしかして、と思ったのよ」
「無言電話?」
また村上が訊いた。
「そう。多分相手は……」
誰も何も言わなかった。
「電話口から激しい敵意を感じたの。雄一郎さんを取られちゃう心配になったの。その時初めて彼女
が怖い。と思ったの。でも、村上さんから話を聞いて……私は、私が判らない彼女の真実に向かい合
って全て突き止めたい、そう思ったの。彼女と面と向い合いたい。その彼女の気持ちを突きとめて、
彼女の気持ちを知った時、私が、見れなくて見過ごしていた彼の気持ちを知る事が出来るかもしれな
い。彼女とも、いつかはきっと分かり合える事があるかもしれない。立場が違っても二人とも彼を愛
した。その思いは一緒だから」
「それは無理だろう。犯人と会えないだろうし」
村上が口を開いた。
……村上は、真理が分からなくなった……
「でも、警察に行って話をしたいの。私達の事を、自分の口から話をしたいの」
「向こうから出向くまで待っていればいいじゃないか」
「待つ事はしないの。私は待っていたからこういう事になった。だから、もう待たない。自分から行
くの。私は進んで話をしなくちゃいけないのよ。警察に起きた事の全てを話して、警察でも事実を掴
んでもらって、一日も早く雄一郎さんに伝えなくちゃいけないの。だって、彼は何も分からないまま
に死んじゃったのよ」
「真理がそう決心したのなら、そうすればいい。と僕は思うよ。ただ、犯人に対しては期待しない方
がいいと思う。世の中の人が皆、自分と同じ価値観を持っている、と思うのは間違いなんだと僕は思
う。人を信じたい、分かり合えたい。そういう気持ちは大事だけれど。その真理の純粋さや素直さが、
他人には受け入れられなくて、それで結果、自分が傷つく事があるよ」
初めて杉山が口を開いた。
「もう、これ以上傷つく事なんてないのよ」
真理の目から涙は消えていた。
「そうか……だけど、一人で背負い込むなよな。俺たちも杉山がいる、という事は忘れるな」
村上は杉山の肩を叩いた。
「そうだよ。余り頼りにならないけれど喜んで協力するよ。僕にとっても、チーフは本当に大事な人
なんだから」……真理も大事だよ……という言葉を呑み込んで、今度は、杉山が真理の肩を叩いた。
「もう、昔からそうなんだから。いい加減に『頼りになるよ』って言ってみて。ねえ、そう思うでし
ょう?」
真理は口を尖らせて、雄一郎に同意を求めるような仕草をした。
自ら警察に出向き「自分達に起きた事を話す」という真理の決意に、尋常ではない事を感じた杉山
は心配だった。気持ちの奥底には、自分達が分からない程の大きな悲しみを抱いているのであろうが、
涙を流していても、気丈に振る舞っている真理の後ろ姿を見て「こういうのを強い、と言うのだろう
か?……」杉山も真理が分からなかった。
その時、振り向いた真理と目が合った。真理の焦点は定まらず泳いでいた。
「本当に一人で大丈夫なのか?」
心配になって声をかけようとした時「お腹空いたでしょう? お寿司でも取る?」突然真理の表情
が変わった。
真理の言葉でその場の張り詰めた雰囲気も消えた。真理は立ち上がって、カウンターから出前専門
の寿司屋のメニューを取り出して「これでいい?」と訊いて受話器を取った。
「川村の分も忘れるなよ!」
「勿論よ!」
真理の元気な声が合図で、弓恵がキッチンに立って準備を始めた。
「僕も手伝います」
何故か、真理の傍にいるのが辛くなった杉山もキッチンに入った。