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第五章

   雄一郎が帰って来た時は、日付が変わっていた。


   真理は杉山の姿を見つけ「帰って来たの!」と懐かしさの余り思わず抱きついた。


  「川村がやきもちを焼くぞ」

   村上が二人を睨んだ。


  「やきもちを焼いているのはパパじゃないの?」

   弓恵の言葉に全員が笑った。


   白い布に包まれて、葬儀社の大きな車に納められているのが「川村雄一郎」とは、誰も思って

  いなかった。「川村雄一郎は生きて其処にいる」そう思っていた。



   新たな悲しみに包まれたのは、和室に寝かされた雄一郎の姿を、改めて確認した時だった。

  

  「チーフ!」

   そう言って杉山が嗚咽を漏らした。真理の叔母の矢沢友美が、ハンカチでそっと目頭を押さえ、

  叔父の矢沢勲は、涙を流しながら雄一郎を見つめ、村上は、声を殺して泣いていた。


  「真理ちゃんは傍に付いていてあげなさい」と言う弓恵に「大丈夫よ」と、真理はキッチンで酒

  の用意を始めた。


  「本当に今日はありがとうございました。みんな疲れていると思うし、遅くなっちゃったけれど、

  雄一郎さんのために献杯をしてくれる? 久しぶりに帰って来た横浜で、大好きなみんなに迎え

  てもらって、喜んでいると思うの」

   雄一郎の枕元にビールを供えて、真理はみんなにビールを奨めた。


  「お帰り!」

   叔父の勲の音頭で、全員が雄一郎に向ってグラスを持ち上げた。


  「紹介が遅れてごめんなさい。私の叔父の矢沢勲と叔母の矢沢友美よ。こちらが、雄一郎さんの

  親友の村上健司さん、雄一郎さんの可愛い部下だった杉山直樹君。ずっと、バリ島に赴任してい

  たの」

   真理はみんなを見回しながら、笑顔でそれぞれを紹介した。


  「杉山です。正確に言うと、来週からお台場のグランドオリエンタル・東京に赴任します。横浜

  ロイヤルガーデンでは、川村さんにお世話になっていました」

   杉山は頭を下げた。


  「でも、本当に良く来てくれて……」

   しばらくの間は杉山中心の話題となった。



  「これからはどういう予定になっていますか?」

   杉山の話が一段落し、沈黙が訪れそうになった時に村上が口を開いた。


  「4日の日曜日が通夜で、5日に葬儀を考えています」

   叔父の矢沢勲がそう答えた。


  「事故の方も、急ブレーキを踏んだ事が引き金になったようですが、一番の原因元ではないよう

  なので、過失を問われる可能性も少ないだろうと考えています」


  「一番の原因元と言うのは、どんな事だったのですか?」

   今度は、杉山が口を開いた。


  「走行車線を走っていた川村君の車の前に、急ハンドルを切って割り込んだ車があったそうです。

  その車は逃走してしまいましたが、目撃者もいるし、高速道路なので、追跡も可能で犯人逮捕は

  時間の問題でしょう」

   

   勲の言葉を受けた村上が「自動車運転過失致死罪か、状況によっては、危険運転過失致罪にな

  るだろうな」と、苦しげに答えた。


   沈黙の時間が流れた。


  「殺人罪……」

   ポツリとつぶやいた真理の言葉に、ハッとなった全員が真理を見た。

   

   真理は震えていた。叔母の友美がハンカチを目頭にあてた。弓恵が泣きながら真理を抱きしめ

  たが、真理だけは泣いてはいなかった。


  「壊れている……」

   杉山は真理を見てそう感じた。


  「真理の言う通りだ」

   言った村上に、弓恵が「刺激しないで」と言う様に首を振った。


  「明日、警察から連絡が入る事になっています。そうすれば詳しい事も分かるでしょう」

   叔父の勲が口を開き、部屋の空気がピンと張り詰めたようになった。


  「真理ちゃん、私達はこれで失礼するけれど、今日は雄一郎さんと二人でゆっくりしてね」  

   真理を一人残す事には心配もあったが「二人っきり」を、雄一郎も真理も望んでいるだろう。

  そう思った叔母の友美が、重苦しい空気を振り払うように真理に言った。


  「そうだな。また、明日午前中に来るよ」

   勲も腰を上げた。


  「私達は明日の午後に来ます。お前はどうする?」

   叔父夫婦の様子を見て、村上も腰を上げながら、杉山に尋ねた。


  「自分の仕事を優先しろよ……これは元チーフの彼の言葉よ」

   弓恵に肩を抱かれたままの真理が、杉山に声をかけた。


  「分かりました。お言葉に甘えてそうさせて頂きます。日曜日の早い時間にまた伺います」

   真理を見ずに……真理の顔が見れなかった杉山は、雄一郎に向って頭を下げた。


  「お前はホテルに帰るのか? 良かったら家に泊まるか?」

   村上が再び杉山に尋ねた。


  「ありがとうございます。初日なのでホテルに帰ります。お気遣いありがとうございます」

   杉山は丁寧に頭を下げた。





   みんなが帰った後の部屋は急に静かになった。


   雄一郎と我が家で「二人っきり」は久しぶりだった。

  

   いつだったのか? そう……あれは3月の始めだった……ダイニングテーブルに向かい合って、

  雄一郎から「別れて欲しい」と突然に離婚を告げられた。あの時も、現実味が沸かなかった。

   そして今も。でも、ずっとそうだったのかもしれない。雄一郎と過ごした時間の全てが現実で

  はなかった……そんな気がした。

   警察で雄一郎と対面した時「雄一郎がいなくなった」その実感は沸かなかったから、真理は泣

  かなかった。じっと黙って夫を見つめている妻を見て、おそらく警察官も、他のみんなも不思議

  に思っただろう。



   横浜ロイヤルガーデンホテルに入社して、社内新人研修も終わり、フロントマネージャーに案

  内されたフロントロビーで、初めて雄一郎と会った。

   カウンター内で数人のフロントマンが接客を行なっていたが、新人の真理の目から見ても、雄

  一郎の接客ぶりが一番スマートであった。その姿に見とれていた真理と、笑顔で客を見送った雄

  一郎の目が合った……その瞬間、真理は雄一郎の虜になった……

 

   初めてフロントカウンターに立った時「立つ位置が後ろ過ぎるよ。もう少し前に出なさい」と、

  軽く背中を押された。背中を押す、チーフである雄一郎の手は優しくて温かった。今、胸の上で

  固く結ばれている手は、二度と真理の背中を押してくれる事はない。

   

   しばらくの間、静かに眠っているような雄一郎を見つめていたが、雄一郎に、伝えたくても伝

  えられなかった言葉が頭に浮かんだ時、胸の中に熱い塊がこみ上げて来た。


   深夜に雄一郎から電話があった。あの時、雄一郎は泣いていた。

  

  「何かあったのだろう。私に救いを求めて来たのかもしれない」

   そう思ったら居ても立ってもいられず、横浜から車を飛ばして、山梨に向った。久しぶりに会

  った雄一郎は憔悴しきっていたが「話せる時が来るまで、時間が欲しい」そう言った。

   別れた後、自分の気持ちを伝えたい、と思ったが出来なかった。

 

  「どうしてあの時、引き返して伝えなかったのだろう」

   最後の最後に、雄一郎に甘える事が出来ず、素直に自分の気持ちが伝えられなかった。という

  後悔の気持ちが身体中を駆け巡り、崩れ落ちそうになった。それでも、胸の中の熱い塊を飲み込

  んで涙を堪えた。


  「ごめんね。あの時伝えたかったのに。バカで意地っ張りな私を許してくれる?」


  「意地っ張りな真理が好きだったよ」

   心の中に、雄一郎の声が聞こえた。


  「あなたの事は許す。真理が愛する人はあなだだけだから」

   そう伝えた時、雄一郎の顔が微笑んだような気がした。



   その時、音が部屋中に響き渡った。その音が自宅の電話の呼び出し音だ、という事に気がつく

  まで少し時間がかかった。

   慌てて電話に駆け寄ろうとした時、左胸がまたチクチク痛みだした。真理は手で胸をさすりな

  がら、ナンバーディスプレイに「非通知」と表示された電話機を見つめ「こんな時間に誰だろう? 

  警察?」そう考えて「はい、川村です」と気丈な声で応えた。


  「……」

   相手からの返事はなかった。


  「どちら様ですか?」

   また、問いかけたが返事はない。


  「無言電話?……もしかして……」

   

   忘れたくても忘れる事が出来ない女性の名前と顔が浮かび、痛みもあって早鐘のように打ち始

  めた心臓が壊れそうになった。相手の気配を読み取ろうと、受話器を耳に押しあて様子を伺った。

  受話器からは何の音も聞こえなかったが、相手も、真理の気配をじっと伺っているような緊張感

  が伝わった。

   少しの間、双方で我慢比べをしていたが、我慢が出来なくなったのか、電話は相手から切られ

  た。


  「彼を奪われてしまう」

   真理は急に不安になり、慌てて雄一郎の所に飛んで行き「もう、何処にも行かないでね」そう

  言って、しばらくの間、布団の上から雄一郎をきつく抱きしめていた。


  「今まで一度も無言電話なんてかかって来た事はなかった。それなのに、こんな時に……」

   恐ろしい考えが頭に浮かんだ。


  「真実を突きとめるからね。だからそれまで……まだ、私は泣かないの。約束するから、分かっ

  てね」

   約束したが、約束はすぐに破られた。


   雄一郎は今度は「分かったよ」とは真理に言ってはくれなかった。急に涙が溢れ、真理は、い

  つまでもいつまでも雄一郎にすがって泣いていた。




 


   菅原梓は公衆電話のフックをゆっくりと指で押した。

  返却口に戻される小銭の音に驚いて思わず辺りを見回した。深夜の住宅地は、人通りもなく静ま

  り返っていたが、自宅近くにある公衆電話ボックスの中から、しばらくの間は出る事が出来なか

  った。

 

   自分が起こした行為が原因で事故が起き、男が死亡した事は知っていた。明日になれば、警察

  が自分を逮捕するために訪れるだろう。全て承知していたが、たった今聞いた、名前も呼びたく

  ない「男の妻」の冷静な声には承知出来なかった。自分が犯した事に悔いはなく、満足していた

  が「男の妻」には満足出来なかった。

  「男の妻」の傍には「永遠の眠りについた男」がいる筈だ。悲しみに打ちひしがれ、深夜の電話

  に取り乱し、涙声の妻を想像して期待していたが「男の妻」は、横浜のホテルで聞いた凛とした

  声と同じだった。


  「あの女はいつもそうだ。私を不安にさせる。でも、幕があがったのよ。これからが勝負」

   梓はひとり言を言って電話ボックスを出た。


  「刑法39条第1項 心神喪失者の行為は罰しない。第2項 心身耗弱者の行為はその刑を減軽

  する」

   同じ言葉を何度も繰り返しながら歩いていた時、コインパーキングに止まっている黒っぽいチ

  ェロキーが目について思わず足を止めた。男のチェロキーと、色もホィールも同じリミテッドだ

  った。

  じっと見つめていた梓の目に涙が溢れた。


  「もう、あの車に乗って彼が私の元を訪れる事は永遠にない」

   そうさせたのは紛れもなく梓自身であったが、悲しみが押し寄せ、手で顔を覆って、声を殺し

  て泣きながら自宅に戻った。


 

   梓が描いたシナリオは「心神喪失者の犯罪」だった。


   事故を仕掛けて、自分も巻き添えになる覚悟はしていた。

  巻き添えになったら「彼は私と一緒に逝きたかった。私を愛してくれていた」というになる。

  でも、巻き添えにならなかったら「彼は私を拒んだ。私を愛してはいない」と、そのどちらかに

  賭けた。

   

   そして結局、巻き添えにはならなかった。


  「彼は連れて行ってはくれなかった。これで私が取る道はただ一つ」



   山梨から幕張に引越しをしたのは5月末だったが、勤め始めた雑貨店には、3日間だけ出勤し

  ただけで無断欠勤をした。怒った店長から電話がかって来たが無視をした。

   その間に精神科の病院にかかり、不眠症と被害妄想を訴えた。病院では「短期精神性障害」と

  診断され、抗うつ剤を処方され「しばらくの間、通院して様子をみましょう」と言われたが、そ

  の後治療には行かなかった。


  「心神喪失とは、やって良いこととやってはいけないことを判断したり、または、やってはいけ

  ない行為を抑えることが『全くできない』状態」と買った本に出ていたので、その事だけを頭に

  入れた。無知な人間が、本を読んで心身喪失者になりすました時に、余りにも基本的行動パター

  ンをとる可能性があると考えて、一通り目を通しただけで、本は処分をした。自分自身で考えた

  「変な行」を取る事にした。


  「なりきれるか?」

   不安もいっぱいあったが、自信もあった。

 

   車を借りたレンタカーの店でも異様な態度を取った。契約に行く時は、化粧もせず素顔で行き、

  何度も車種の変更をした。引き取りに行く時は濃い化粧をして、レンタカー店のスタッフを唖然

  とさせた。

 

   そして、逮捕した警察官の前で、精神障害者の役を演じる。

  取調べでは、警察官や検事との会話は、罪を罪として捉えるのではなく、起こした行動は「天の

  声」という態度を取る。

   上手く演技をすれば簡易精神鑑定が受けられる。簡易精神鑑定で不起訴になった人間はたくさ

  んいる。と本で読んだ。もし、簡易精神鑑定での心神喪失が認められず、男の妻の証言や世論な

  どで、本鑑定に回され、起訴になった場合、国選弁護人が付くだろうから、その前でも、精一杯

  精神障害者になりきる。そうすれば弁護人は助けてくれるだろう。

   そして、不起訴となって精神科の病院に入院して、後は本当の自分に戻って、退院の日を待つ

  ばかり。不起訴で無罪となって病院送りになれば、二度と再審が出来ない。


  「事故で死亡した男……川村雄一郎」と密かな関係を結び、雄一郎の前で、あれだけの演技が出

  来たのだから、心神喪失者の役を演じるのはそれより簡単。だから、大丈夫。

   精神科の病院の通院歴を作ったし、何より、雄一郎との一年半の関係での出来事そのものが

  「心神喪失」を物語っている。

   警察官や検事の前で、その事を全て告白し「殺したい程、男を愛した女」の切ない気持ちを心

  を込めて、うつろな表情で話してあげよう。彼らは「悲しいラブストーリー」に涙を流すだろう。

 

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