第四章
1
ホテルマンとしての今の杉山直樹があるのは「川村雄一郎」のお陰だった。
大学を卒業して、横浜ロイヤルガーデンホテルに入社して、フロントチーフであった川村雄
一郎と出会った。学生気分が抜けない杉山から見るチーフはカッコ良かった。
「自分もあんなカッコいいフロントマンになりたい」
杉山は雄一郎に憧れた。
最初は外見だけだったが、部下として雄一郎と接していく間に「ホテルマンとして、人間と
しての川村雄一郎」の姿を見て、目標にして行く事で、杉山は自身を高める事が出来るように
なった。
グランドオリエンタルホテルから引き抜きの話があった時は、真っ先に雄一郎に相談をした。
雄一郎は、赴任先の八ヶ岳ガーデンリゾートホテルのガーデン・レジデンスルームを、杉山の
ために用意してくれていた。メイン棟から独立した、メゾネットタイプのレジデンスルームは、
自然と調和し開放感に溢れ、非日常の遊び心に富み、フロント支配人の雄一郎の人柄を表わす
かのように、この上なく居心地が良かった。久しぶりに会う雄一郎も、横浜ロイヤルガーデン
ホテル時代より、人間的にひと回り大きくなったような気がした。
杉山が「実は……グランドオリエンタルから引き抜きの話が来ています」と告げた時「遂に
そういう時が来たのか」雄一郎は感慨深げに答えた。
「ロイヤルガーデンホテルチェーンを、日本のライバルホテルや、外資系のホテルに負けない
日本一のホテルにしたい。俺はそういう気持ちで仕事をしているんだよ。そう考えた時に、君
の力は必要だから、正直に言うと外に出したくはない。とは思うよ」
杉山を見る雄一郎の目が少し淋しそうだった。
「だが、それは俺の夢だ。君には君の夢がある。君を縛る事は出来ない。『出てみたい』そう
いう気持ちがあるのなら『勉強してこい! 羽ばたいてみろ!』って、その言葉を贈るよ。う
ん、俺は応援する。でも、俺も真理も君に負ける気持ちはない。だから、その事だけは忘れる
なよな」
そう言って、杉山に握手を求めてきた。
「ホテル業は素晴らしい、と思っているよ。世界経済を動かしているのは、政治家だし、経済
界、メーカーだったり、金融関連だったりと、そうだよな? だが、世界中を飛び回る『世界
を動かしている人物』を黒子としてある部分、陰で支えているのは『ホテル』なんだよ。俺は
そう思っている。だから、ホテルの仕事を選んだ。『ホテル』イコール『観光』とはまた別の
部分でさ。世界のトップクラスが世界中を飛び回っていて、滞在するホテルの居心地が悪かっ
たらどうなる? きっと貧しい気持ちになってイライラして、広い視野を持った素晴らしい考
えなんて浮かばないだろうし、世界中の人間は不幸になる。そうさせないように、人間を豊か
な気持ちにさせる事がホテルの役目だ。そう信じているよ。それに添うように、ホテルマンも
自分を磨かなくてはならない。仕事が人間を成長させる。そして、人間が社会を成長させる」
雄一郎の目は輝いていた。
「この人は本当にホテルの仕事が好きなんだ。自分の仕事に誇りを持っているのだ」
杉山はそう感じた。自分もそうなりたいし、人に幸せや、勇気を与える事が出来るようにな
りたい。とその時に決心した。
外交官を目指していた杉山は、上級公務員試験にものの見事に失敗した。
有名私立小学校から、エスカレーター式に大学まで順調に進んだが、挫折を初めて味わった。
「落ち込み」から立ち直って、次に就職先に選んだのはホテルだった。
「別の角度で生の人間を見る事が出来る」
ホテル業を選んだ理由はその事だった。そして、ハンティングをされ、チーフである雄一郎
に相談した時に、自分に贈ってくれた言葉を聞いて「自分の選択肢は間違っていなかった」と
確信した。
ホテルマンも人間だから、理想とは程遠い事も多い。
でも、気持ちの何処かで、雄一郎からの教えをしっかりと受け止めていれば、自身の生き方も
前向きになり、小さい時から夢見ていた「世界を動かす人になる」裏方でも、その事に少しず
つ近づけられるような気がした。
だから……そういう事を教えてくれた「川村雄一郎」は、杉山にとって、かけがえのな大事
な人だった。
そして、それは雄一郎だけではなく、雄一郎のパートナーの真理も同じであった。
杉山と同期入社の矢沢真理も「川村雄一郎」に傾倒していた。
価値観が同じなのだろうか? 「あの二人は似ている」と杉山は感じていた。
川村雄一郎も矢沢真理も外見だけではない、内面からの魅力に溢れていた。一緒にいると「気
持ちが豊かになる」そんな魅力があった。
「人間が好き」なのだ……杉山はそう解釈していた。
真理は、大学時代1年間留学していたので、同期であっても杉山よりは1歳年上であった。
少女がそのまま大人になったような真理には、最初は、年上というより、妹のような感情を抱
いていた。それがいつの間にか恋愛感情に変わっていった。そして、お互いに励まし合いなが
ら「早く一人前のフロントマンになろう」二人で毎日頑張っていた。
「美人が多い」と評判の横浜ロイヤルガーデンホテルで、真理の美しさは際立っていた。杉山
は、そんな真理を複雑な思いで見ていた。
……今でもハッキリ覚えている。自分の中で、真理への感情が変化して行った瞬間の「とき
めきの気持ち」と、その真理が、自分を恋愛対象として考えていない、と感じた時の「辛い気
持ち」を……
カウンター越しの真理への目つきが特別な客も数多くいたし、実際に顧客に口説かれている
シーンを目撃した事もあった。しかし、真理はいつもそういう相手に対し、その気がないのに
煮え切らない態度で接し、相手に誤解を招かれるような素振りを見せていた。
そんな真理に、杉山は「嫌ならはっきりとNOと言わなくてはダメだ」と忠告した事あった。
「だって……むげに断るのは悪い気がして……」と真理はいつも言い訳していた。
相手をその気にさせて美味しい部分だけ頂く。そんな打算や旨いあしらいが出来ない、とい
う事は分かっていたが、杉山はそんな真理が歯がゆかった。
「お前は勘違いしているんだよ。NOと言わないのが、優しさだと思っているだろうけれど、
それは気が小さいだけなんだよ。相手の事を考えたら、はっきりNOと言える勇気を持つ事が、
人間としての優しさなんだよ」
杉山は何度も真理にそう説いた。
サッカーJリーグの花形プレイヤーから、真理は、かなりしつこく言い寄られていた事があ
った。
「杉山君、今晩私と付き合ってくれる?」
入社して約3ヶ月が経ち、夏休みを控えホテルも忙しくなり、少しだけだが、フロントマン
の何たるかも分かり始めた頃、杉山は真理からそんな誘いを受けた。
「今日は特に予定もないから、付き合ってやってもいいけどさ……」
早番のその日は予定もなく、シフトが終わったら、磯子の独身寮に帰るだけだった杉山は、
カッコつけて誘いを受けた。
「良かった! 6時に新山下のアジャンタに来てね」
真理からそう言われて、杉山は、言葉とは裏腹にイソイソとした気持ちで、新山下にある多
国籍パブに向った。
着いた時に、アジャンタの入り口で真理が不安そうな顔をして杉山を待っていた。
「何だよ。店に入って待っていれば良かったのに」と言う杉山に、花柄のクラシックな雰囲気
のリゾートドレスに、Gジャンを羽織ったチャーミングな真理は笑顔を見せた。
モデルのような真理と、ひと時を過ごせる事を幸運に思った杉山は、大人ぶって真理をエス
コートした。若者に人気の「アジャンタ」は、6時というまだ日が暮れない時間帯にも関わら
ず、ほぼ満席状態だった。
店内に入り真理が誰かを探している様子を見た時、杉山は一瞬嫌な予感がした。
その時、横浜港に面した窓側の席にいる男が、真理の姿を見つけ手を上げた。
その男は「真理にご執心」とホテルで噂されていた、Jリーガーの三橋大輔であった。
杉山は真理と一緒にいる自分の姿を見て、三橋の顔が曇るのを見逃さなかった。
「そうか、そういう事だったのか」
三橋と二人きりで会う事に躊躇った真理が自分を誘った。その事に気が付き「自分は邪魔者
かもしれない」そう思ったが、三橋と真理を、二人っきりにさせる事の方が嫌だった。
「待たせちゃったみたいでごめんなさい」
真理は、杉山や三橋の気持ちに気付く様子もなかった。
「ホテルの同期の杉山君です。杉山君は知っているでしょう? Jリーガーの三橋さん。
今日は誘って頂いてありがとうございました」
悪びれる事なく、真理は杉山を三橋に紹介した。
真理に向ける三橋の顔は真の笑顔だったが、杉山に向ける三橋の笑顔は引きつっていた。
そして、杉山は、テーブルに置いていた、おそらく真理へのプレゼントだったのだろう、リ
ボンがかかった小さな箱を、三橋がさりげなくバッグにしまうのを見た。
「真理は世間知らずのバカだ!」
三橋大輔の気持ちを考えて、この場を去るのが懸命だと思ったが、出来なかった。
それは「真理の事が好き」なだけではない「悪気のない真理の気持ち」……それを感じて「真
理を守る」事に決めた。それに、自分が居なかったら、真理は三橋に食われるもしれない……
それだけは絶対に阻止したかった。
3人のデートは杉山にとっては最悪だった。
三橋はさすがにエンタティナーで、その場を盛り上げるのが上手かったが、杉山を見る目だけ
は「普通の男」でしかなかった。
杉山は、結局その日は最後まで三橋と真理に付き合い、三橋の憎まれ役になった。
その後、三橋がホテルに現れる事はなかった。
真理は素直で純粋だったが、その純粋さが時には「残酷」になる事もあった。
それで自分と同じように辛い気持ちを味わったスタッフもいる。
そうだ……村上さんだ……真理の夫の川村雄一郎の親友であり、後に真理の上司となった村
上健司だ。仕事に厳しい村上の真理を見る目だけは優しかった。
杉山は真理が好きだったから、真理の事はよく分かっていた。
同じフロントマンでも、シフトが一緒になる事は少なかったが、真理が出社後、フロントオフ
ィスに入って真っ先に何をするかも分かっていた。
出勤して最初にする事……まず、フロントオフィスかフロントカウンターを見て、上司であ
るチーフの川村雄一郎の姿を探す。そして居なかった時、オフィス内のスタッスケジュール表
で、チーフの出勤スケジュールを確認する。そんな事をしなくても、チーフのシフトは頭に入
っていた筈だ。
そして、チーフの真理への思いにも気付いた。
二人の思いが一緒だったら、それが成就するのは時間の問題で、その過程を、脇でじっと見
ているのは辛かった……だから、飲み会にチーフを誘い、酔ったチーフのエスコート役に真理
を付けた。その事で自分の気持ちに決着をつけ、杉山は決着を付ける事が出来た。
二人は杉山の計らいで急接近し、電撃結婚を遂げた。
その事を知った時、杉山は「辛い」とか「悲しい」という気持ちは沸かず、真理が幸せにな
る事、それが自分の幸せになる。そう思っていた。
「本当に愛するという事は、愛する人が幸せになる事を喜べる気持ち」
青臭いそんな事を思っていた。
それでも、二人の結婚式が近づき、真理から「私の友人としてスピーチをお願いね」と頼ま
れた時には、青臭い夢の世界から現実に戻り、自暴自棄になり「悪さ」をした。
「悪さ」をしたその相手の女子高生がある日、ホテルに乗り込んで来た。逃げる杉山に代わっ
て、真理が内密で対応してくれたお陰で問題にならず、会社に知られる事もなかった。
どうして真理が事を旨く納めてくれたのか、杉山は分からなかった。
「彼女がありがとう。って言っていたのよ」と言うだけで、何も教えてくれなかった。
相手から「ありがとう」と言われる筋合いもなく、深く追求したかったのだが、怖くて出来な
くて、だからそれで終わりにしたが「いつか真理に聞いてみたい」とずっと思っていた。
雄一郎と真理と接し、人間との「心の繋がり」を基本として、ホテルマンの仕事の極意を学
んだ。そして、今の自分が出来上がった。
「川村雄一郎」は自分の手本であった上司であり、ホテルマンとしての自分を作り上げてくれ
た大切な人でもあったが、この世を去った……
「川村真理」はかつて自分が愛した女性であったが、その真理が壊れてしまった……しかも……
自分が日本に9年ぶりに帰って来たその日に。杉山は運命の巡り合わせを呪った。
2
「お客さん、六角橋に着きましたけれど、お目当ての場所は何処ですか?」
タクシー運転手の問いかけで、杉山は過去から現実に引き戻された。
「ここなんですけれど……」
村上から聞いた住所が書かれたメモを運転手に見せた。運転手は住所をナビに入力し「すぐ
近くですよ。店の前までは行かれないから、此処で降りた方がいいですよ」とナビを指差しな
がら親切に教えてくれた。
「日本は凄いな」
浦島太郎が顔を出した。
ホテルを出てから一時間も経っていなかった。運転手が料金を告げたが、一刻も早く、村上
に会いたい事だけを考えていた杉山は、金額も聞いていなかった。札入れから一万円札を2枚
取り出し「ありがとうございました」と言って運転手に渡した。
早く村上がいる漁火に到着したい事で、頭がいっぱいだった杉山は、渡したお金が妥当かど
うか分からなかった。運転手はつり銭を渡す素振りを見せたが、その時にはタクシーを降りて
いた。
「漁火」はすぐに見つかった。はやる気持ちを抑えて店内に入った。
「いらっしゃい!」
カウンターの中にいる、粋な雰囲気のマスターが杉山を迎えた。杉山を見て、マスターは察
したのか、襖が閉まっている奥の部屋を指差して「待ってますよ」と案内した。
杉山は、襖の向こうがどういう状態になっているか不安で、少しの間、襖を開けるのを躊躇
った。マスターが、生ビールのジョッキと数種類の肴をトレイに乗せ「大丈夫ですよ」と促し
た。
「失礼します」
声をかけて恐る恐る襖を開けたが、村上の姿は見えなかった。
「杉山です」と声をかけた時、村上がゆっくりと起き上がった。
「おう!久しぶりだな」
村上は杉山を見て笑顔を向けたが、心なしかその笑顔は悲しげに見えた。
「おやじさん、俺の後輩のワヤンだ。今日、インドネシアから入国したばかりの、バリバリの
バリ人だよ」
村上は、バリ島に多くある名前で、トレイをもったマスターに杉山を紹介した。
「通りでいい色に日焼けしていると思ったけれど、そうですか……インドネシアの方ですか」
漁火のマスターは、村上の話を真に受けていなかったが、本気で杉山をインドネシア人だと
思っているようなフリをした。
…… 今日の村上さんには、逆らわない方がいいだろう……何となくそんな事を感じていた。
「ごゆっくり」
マスターはテーブルにビールと肴を並べ、静かに襖を閉めた。
「村上さんは相変わらずですよね。マスターは本気で、インドネシア人と思っているみたいで
したよ」
そう言っても杉山は、くだらないジョークを言う村上が結構好きだった。
村上と会うのは5年ぶりだった。
バリ島に赴任した翌年の冬に、家族を連れて遊びに来てくれたが「サーフィンをやるために来
た」とカッコつけていた。たった一度だけサーフィンにトライしたが、一度もボードに乗る事
が出来なくて、仏頂面でビーチでビールを飲んでいた姿を、杉山は思い出した。昔からの横柄
な態度は変わらなかったが、人間的に丸味が出てきたように感じた。
「村上さんには勿体ないような奥さんと、村上さんには似ていなくて、幸せなお子さんはお元
気ですか?」
杉山はさっきのお返しをした。
「苦労の人生をそのまま描いたような、俺の哀愁漂った顔を見れば分かるだろう。元気過ぎて
困る」
家族の話題を出されて、言葉とは反比例して村上は笑顔になった。笑うと出来る目尻の皺が
優しそうだった。
「飲んだくれている」と村上は言っていたが、実際は、ビールをジョッキ一杯飲んだ程度で、
ウィスキーのボトルは封を開けていなかった。二人は、マスターが用意してくれた生ビールで
乾杯をした。
「不法入国早々で疲れているのに、よく来てくれたな」
村上の言葉遊びに、杉山は声を出して笑った。
「村上さんこそお元気そうで、いつ出て来たんですか?」
「俺は今回は恩赦だ」
真面目顔の村上を見て、杉山は腹を抱えて笑った。
「5年ぶりの日本で、最初の大笑いと飲み相手が村上さんで、前途多難ですが、思いがけずお
会い出来て嬉しいです」
会えたきっかけは辛い事だったが、先輩である村上との再会は懐かしくもあり、嬉しい事だ
った。
「俺を見て、しっかり学習しろよ」
村上も嬉しそうだった。
「ところで、グランドオリエンタルはどうだ?」
「ソウルもバリも自慢出来ますけれど、東京はそれ以上に見事です。ハード面ですけれどね。
ソフト面は、これからじっくり見る事になります」
「インスペクターは神経を使うな」
「正直言って、職責重くてプレッシャーかかってます」
「感覚が鋭くて、細かい部分に目が届くお前ならではの仕事だな。益々、磨きがかかっただろ
う?」
村上は、杉山の姿に雄一郎を重ねた。
「いやー、どうですかね。バリで結構楽しんじゃいましたから」
「村上さんはどうですか? 横浜ロイヤルガーデンも、世界の名ホテルに名前を連ねて、僕も、
未練心沸いたりしちゃってたんですよね」
「辞めた会社に未練を持つ、という事は悪い事じゃないよ。それはお前が、ロイヤルガーデン
での時間を大事にしていた、という証拠だと俺は思う」
辛い話は後回しにしたいのだろうか。村上はバッグからキャメルの煙草を取り出し、セロハ
ンを剥がした。
「この刺身、最高に美味いですね」
杉山は漁火の刺身に舌鼓をうちながら、村上の動作をじっと見つめた。
神奈川県が4月から施行した、ホテルにとって少なからずも影響がある、受動喫煙防止条例
については、バリ島にいる杉山も知っていたし、ホテル業界誌で「横浜ロイヤルガーデンホテ
ルは、社員に自主的な禁煙指令」という記事も読んでいた。会社からの通達には、いち早く反
応する村上はそれに従ったのだろう。しかし、ここに来て、禁を破らざるを得ない精神状態に
なった。キャメルのセロハンを剥がす事と、火を点ける時に使っている「漁火」とロゴが入っ
た真新しいライターが、その事を物語っているようだ……と杉山は考えていた。
「バリだって、美味い刺身が食えただろう?」
煙草に火を点け、天井に向けて煙を吐き出した村上が訊いた。
「日本料理店もたくさんあったから不自由はしませんでしたが、やっぱり、日本で食べる刺身
が一番美味しいですよ」
お互いの気持ちの中に、引っ掛かっている事があるためか、時間が経つにつれ、会話が擬古
地なくなった。
……村上さんから切り出してくれればいい……自分から切り出す事が出来なかった杉山は、
それを望んでいた。
「水かお湯かソーダで割るか?」
村上はウィスキーのボトルに手をかけて、杉山に尋ねた。
「ハイボールでお願いします」
先輩である村上に酒を作らせる事に恐縮したが、杉山は甘える事にした。
「せっかくお前が帰って来たのに、お前の成長した姿を見れなくて、川村は悔しいだろうな」
ハイボールのグラスを杉山の前に置きながら、やっと村上が口火を切った。
その言葉に杉山の胸に熱いものがこみあげた。「死んだ」というような直接的な言い方より、
何故か、遠まわしの言葉が胸を突いた。
「何処でニュースを見た?」
村上は無表情で尋ねた。
「仕事が終わって、会社が用意してくれたホテルの部屋で、です」
杉山にとっては因縁でしかなかった。
あの時、部屋のテレビを点けていなかったら……もし、一日早くか、一日遅く日本に帰って
来たとしたら……おそらく、大事故だったとしても、起きた事故のニュースに気を留める事は
なかっただろう。
「どうして、こんな事になったのですか?」
「川村は、本部の会議に出席するための道中で事故に巻き込まれたらしい。俺も直接聞いてい
るわけではないから、詳しい事は分からない。夕方、山梨にいるカミサンから連絡があったが、
その時点では警察から詳しい話は聞けていない。事故に合ったのは、あいつの運命だったんだ
よ」
「運命……なんて、そんな簡単な事じゃないですよ!」
「バカヤロー! 誰が簡単だ、って言ったんだよ!俺は運命だ。って言っただけだ」
取り乱したが、すぐに村上は「悪かったな」と杉山に頭を下げた。
「食堂で、昼飯を食べながらテレビを観ていたら事故の速報が入った。川村の予定を知ってい
たから、事故の事を伝えようと思って、あいつの携帯に電話をかけたが、ドライブモードにな
っていて繋がらなかった。心配になって八ヶ岳に電話をしたら、ホテルを出発している事を知
った。何度も携帯に電話を掛けたがドライブモードは変わらなかったし、あいつから連絡はな
かった。警察に確認しようと思っていた時、警察から真理に連絡が入った。真理が携帯を落と
した音を聞いた事までは覚えているが、その後の事は全く覚えていないだよ。さっきホテルか
らの電話で聞いた話だと、俺は、真理が落とした携帯を拾い警察と話をして、八ヶ岳ガーデン
リゾートに電話をした。会社に報告して、それから、真理の叔父さんに連絡をして、俺のカミ
サンにも電話をして、真理を山梨に向わせる手筈を整え、執るべき行動は全て執っていたらし
い。ついでに、俺の息子にも連絡を取って、母さんは出かけるし、父さんも今日は帰れなくな
るかもしれないから頼む。と一応親父の役目も果たしていた。だが、俺が気がついたのは、お
前と電話をしていた時だったんだよ」
村上の表情は悲しげだった。
「チーフの身内はいらっしゃらないのですか?」
「川村も真理も一人っ子で両親は亡くなっているから、近い身内は、真理の叔父さんと叔母さ
んぐらいなんだろう」
「そうなんですか……村上さんは山梨に行かなくて大丈夫なのですか?」
「俺が行ったって何の役にも立たないよ」
態度がデカイ村上……の面影はなかった。
「真理が壊れた……って。真理はどうなったのですか?」
「真理がどうなったか? って俺は全く覚えていない。カミサンの話だと、表向きは気丈に振
る舞っている、と言っていたが……だけど、真理の気持ちを考えたら、壊れたんだろう。そう
思っただけだ」
「僕は日曜日までフリーです。だから、何か出来る事はありませんか?」
その時、村上の携帯が鳴った。
「弓恵」という着信名を確認して「どうした?」開口一番に尋ねた。
「司法解剖が終わったから、これから川村さんを横浜に連れて帰ります」
弓恵の声はしっかりしていた。
「司法解剖? 何だ! 川村に何をしたんだ!」
村上は電話に向って叫んだ。
「お願いだからそんなに興奮しないで。詳しい事は帰ってから話すから。警察が、葬儀社の車
を手配してくれているので、また出る時に連絡するけれど。パパには、真理ちゃんのマンショ
ンに行って、川村さんを迎える準備をしていて欲しいの。真理ちゃんのホテルのデスクの一番
上の引き出しに、マンションの合鍵が付いている鍵の束があるの。レザーの飛行機のキーホル
ダーが付いているからすぐに判ると思うって。パパ、酔っ払っているみたいだけれど大丈夫?」
「バカヤロー。お前は俺を何だと思っているんだよ!」
「パパ、お願いだから落ち着いてね。真理ちゃんもしっかりしているのよ。じゃあ、頼んだ事
お願いね」
電話は弓恵から切られた。
「司法解剖をしたんですか? どうして? 交通事故で……」
「出番だ。これから、ホテルに合鍵を取りに行って川村のマンションに行くぞ」
杉山の問いかけには答えず、村上は腰をあげた。
「おやじさん、急用だから今日はこれで帰るよ。ごっそうさん」
村上は一万円札をカウンターに置き、外に出た。
「ごちそうさまでした」
杉山も慌てて村上の後を追った。
「お前も入れよ」
横浜ロイヤルガーデンホテルの従業員入り口で、村上は杉山に中に入るように促した。
「僕はここで待っています」
9年ぶりに訪れた古巣は懐かしく、中に入れば、懐かしい仲間との再会が待っているだろう
が、今はそういう気分ではなかった。
「そうか」
村上は従業員入り口の重い扉を開いた。
「待たせたな」
そう言って、村上が出て来たのは30分後だった。
「川村が着くのは12時過ぎになるらしい」
歩きながら村上がポツリと言った。
「待ってますよ」
二人はタクシーに乗り込んだ。
雄一郎と真理のマンションに足を踏み入れた村上は「ここに来る時はいつも辛い時だ」
とため息をついた。
初めてこの部屋を訪れたのは一昨年の年末だった。あの時、真理が子宮外妊娠で、子供をダ
メにして、そして、雄一郎を慰めるために訪れた。ホテルで真理は具合いが悪くなり、村上は
救急車で付き添ったのだが、駆けつけた雄一郎にいきなり殴られた。あの時、殴られた唇は切
れて腫れあがりかなり痛かった。それでも、心の痛みはなかった。
部屋の中は蒸し暑かったが綺麗に片付けられていた。
リビングに入って、ダイニングテーブルの上に飾ってある、ピンクのガーベラの花が真理の気
持ちを物語っていた。
「真理は川村が、この部屋に帰って来るのを心待ちにしていたのだ」
村上の胸に熱いものがこみ上げてきた。
辛い気持ちに背を向けて、ベランダに面した掃き出し窓を開けると、運河の方向から涼しい
風が流れ込んだ。
杉山は、雄一郎と真理のマンションに初めて足を踏み入れた時「人の匂いがしない」と感じ
た。リビング・ダイニングルームは、アイアンと籐とガラスを上手く使った、お洒落な丸いダ
イニングテーブルセットが置かれ、籐のコーナーソファーが程良く配置された、いかにも真理
が好きそうなアジアンチックで、お洒落な部屋だったが、二人が営んでいたであろう、幸せな
家庭生活の気配がなかった。
「二人の間に何かあったのか?」
そんな思いが杉山の頭を過ぎった。
カウンターの隅に飾ってある2つのテディベアを見て「雄真と理子って、誰ですか?」
杉山は村上に尋ねた。
「川村と真理の子供だよ」
村上のその一言で全てを察した杉山は、それ以上質問はしなかった。