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第三章


  「当機は、まもなく成田国際空港に到着いたします。成田の天候は雨、気温は摂氏26度……」

   機内アナウンスが流れた。日本航空JL720便はゆっくりと下降を始めていた。


  「遂に日本に帰って来たか……」

   杉山直樹は、窓の下に姿を現した雨に煙る九十九里浜を見ながら呟いた。

 

   大学を卒業して、横浜ロイヤルガーデンホテルに入社6年目に、杉山はハンティングされ、

  外資系の「グランドオリエンタルホテル」に転職した。

   転職と同時にソウルに3年間赴任し、インドネシアのバリ島で6年、そして日本に呼び戻さ

  れ、今度は東京の台場。

   会社の転勤命令に逆らう事は出来ないが、長いようで短かかった、9年の東南アジアでのホ

  テルマン生活にはまだ未練が残っていた。


   飛行機は無事滑走路に着陸し、シートベルト着用のサインも消え、通路に並んだ乗客の列が

  動き始めたが、杉山は降りる事に躊躇っていた。

   しかし、いつまでもこのままでいる事も出来ず降機の覚悟を決めた。

  

   機内からボーディングブリッジに移る時に、一瞬蒸し暑さが身体を包んだ。バリ島での生活

  が長かったので蒸し暑さには慣れていたが、日本の蒸し暑さは何となく不快に感じられ「まだ

  日本に帰って来たくはなかった」という事を改めて感じた。

   

   荷物受け取りでスーツケースを受け取り、税関を通って到着ロビーに向った。

  午前8時半を過ぎた時間だったがロビーは人で溢れかえっていた。

 

  「凄い人込みだなあ」

   成田空港のように綺麗でりっぱではないが、バリ島デンパサールのングラライ空港が懐かし

  くなってため息をついた。

   

   当たり前のようにタクシーに乗ろうと思って、玄関口に向おうとした時「バリではないのだ」

  と我に返った。思案して、電車を利用する事にした。ソウル時代は、何度か日本に帰っていた

  が、バリ島に赴任してからは、5年前、母親の葬儀で帰国してから一度も日本には帰ってはい

  なかった。

  

  「浦島太郎になったみたいだな」

   また、ため息をついた。

 

   バリ島で、日本の事は手に取るように分かっていたが、いざ自身の足で踏み入れた日本に、

  日本人であるのに違和感を覚えた。それ位バリ島での生活は杉山に合っていた。 

   杉山が赴任していた場所は、ビーチリゾートで有名なタンジュンブノアだった。近くにある

  ヌサドゥアやクタに行けば日本食も食べられたが、一度も日本食が恋しいと思った事はなかっ

  た。休みの日、ブラッと出かけたクタで必ず寄る場所は、ビーチに面したシーサイドフードコ

  ートや、欧米人のサーファー等で賑わう裏通りのローカルな食堂で、中華やタイ料理、インド

  ネシア料理を好んで食べた。

   しかし、食べ物や生活スタイルはバリ式だったが、バリ島に赴任して一年目に知り合った、

  バリ人女性との結婚では失敗していた。正式に婚姻届は出していなかったが、肌が綺麗で、チ

  ャーミングな女性との生活は半年と続かなかった。

   理由は分かっていた。でも、それを認める事は嫌で、それからは、女性と付き合う事に慎重

  になっていた杉山に、新しいロマンスは生まれなかった。


   転勤先は、臨海副都心として、アミューズメント施設やショッピング施設が進出し、ファッ

  ショナブルな街に変貌した台場で、新しくオープンした転任先の「グランドオリエンタル・東

  京」は400室余りの客室を擁し、台場地区で一番の高さを誇っていた。

   杉山の新しい職務は、現場の監査役という「インスペクター」であった。

  客室は元より、ホテルにおける各種サービスや、施設の品質が、一定基準を守っているかどう

  かを、客の視点でチェックし、必要であれば改善命令も発動出来る。その事の繰り返しが上質

  のサービスを確立させ、顧客満足度の向上に繋がり更にホテルの質を高める。杉山に課せられ

  た責務は重かった。

   ホテルに到着し、外壁が総鏡張りの外観をまじまじと眺め、気を引き締めて杉山は、新しい

  職場に足を踏み入れた。外国人を意識したのであろうか、日本の伝統的な美と、現代的なモダ

  ンさを取り入れた広大なロビーは、外観と全く別の顔を持っていた。余りの素晴らしさにしば

  し見とれてしまった。


  「帰ってきたか。待っていたぞ」

   そう言って笑顔で握手を求めて来たのは、エグゼクティブ・インスペクターの沢野井克彦だ

  った。

  

  「お久しぶりです。今日からまたお世話になります」

   二人は固い握手を交わした。

  

  「お前も随分と逞しくなったな」

   沢野井は杉山の肩を叩きながら、成長ぶりに目を細めた。

  

  「まだまだ発展途上ですよ」

   杉山は照れながらも笑顔で答えた。

 

   沢野井はグランドオリエンタル・ソウル時代のフロントでの上司であり、杉山を日本に戻し

  た張本人であった。

  

  「迎えにも行けず悪かったな。久しぶりの日本はどうだ?」

   優秀なホテルマンである沢野井は、プライベートでは口数が少なくなる。饒舌さはないが、

  常に部下を思いやり、細かく気遣う沢野井を杉山は尊敬していた。

  

  「すっかり浦島太郎になった気分ですよ」

   杉山は頭を掻いた。

 

  「たまには浦島太郎もいいだろう。当分は浦島太郎に成りきって、別の角度から日本を見てみ

  ろよ」

   昔と変わらない温かい沢野井を感じて、杉山は、日本に足を踏み入れてから初めて、

  安心感を覚えた。

   沢野井から部署のスタッフを紹介され、業務の説明を受けて館内周りをして「週末までお前

  はフリーだから、じっくり日本を自分の目で確かめて来いよ。お袋さんの墓参りも忘れるなよ」

  と言われ、ベルパーソンの案内で、当分の間滞在する事になる、デラックスビュー・ツインの

  部屋に落ち着いた時には、夕刻になっていた。

  

 

   まだ、杉山の正体を知らないベルパーソンの対応は、フロントとも上手く連携を取れている

  ようで、印象が良かった。

   職場であるホテルの部屋に初めて足を踏み入れた時に、肌でどんな空気を感じるのか? 杉

  山は神経を集中した。

   

   ホテルであり、ホテルではないような、自分のくつろぎの空間の雰囲気が、杉山を包み込ん

  だ。そして、その後に感じたのはやはり「高級感」と「満足感」だった。


  「杉山様、ごゆっくりお過ごしください」

   部屋を辞去するベルパーソンに「ありがとう。素晴らしい部屋だね」満足した杉山は、思わ

  ず声をかけた。


  「デラックスビュー・ツインでこの満足感だとしたら、他の部屋も期待出来るだろう」

   

   黒を基調とした70平米程の広さの部屋は、オリエンタルムードに溢れていた。

  大きな窓からはレインボーブリッジが望め、導線的にも無駄がなく、バスルームやドレッサー

  ルームも程良い広さで、落ち着いた雰囲気があった。アメニティグッズは、植物素材を使用し

  た南フランスプロヴァンス製品を使っており、種類も豊富で、女性客に喜ばれそうであった。


   杉山は一通り部屋をチェックした後、真っ先に、壁に据え付けられたプラズマテレビのスィ

  ッチを入れた。バリ島時代にはなかった事だが、日本に帰って来て、当たり前のようにテレビ

  を点けた自分が可笑しくなって、思わず苦笑した。

   

   テレビを点け、仕事モードから抜けた杉山は、黒檀のテーブルに置かれたワインクーラーに

  入ったモエ・エ・シャンドンに目をとめた。

  

  「これは常時のサービスではないだろう。好みを知っている沢野井さんからのプレゼントだ」

   そう思って、沢野井に内線電話をかけた。

  

  「部屋の感想はどうだ?」と問う沢野井に印象を伝え、シャンパンの礼を言った。

  

  「一人で飲むのは勿体ないので、宜しかったらご一緒にいかがですか?」

   杉山は沢野井を誘った。

  

  「招待はありがたいのだが、今日は里香の誕生日で、仕事が終わったら直帰しなくちゃならな

  い。里香もこの春で中学生になったんだよ。たまには父親をしないと、しっぺ返しが怖いから

  な」

   沢野井は嬉しそうに答えた。

  

  「そうですか。里香ちゃんはそんなに大きくなりましたか!」

   ソウル時代によく遊んだ沢野井の一人娘の里香の、おしゃまで可愛い姿が目に浮かんだ。

 

  「僕からも、お誕生日おめでとう。と言っていたと伝えてください」

  

  「ありがとう。伝えておくよ。里香も喜ぶだろうから、落ち着いたら俺の家でゆっくり飲もう。

  今日は残念だけど、帰国一日目をモエでゆっくり味わってくれ」

  

  「早速、頂きます」

   そう言って電話を切ったが、杉山は、上品な赤褐色かかったピンク色のモエ・エ・シャンド

  ンを、ワインクーラーから取り出して冷蔵庫に入れ直した。

   一人で飲むのはやはり勿体なかった。

 

  「後で電話をして、驚かせよう」

   横浜ロイヤルガーデンホテル時代の上司である川村雄一郎、と同期の川村真理の顔を思い浮

  かべ、上手くスケジュールが合えば横浜に行って、モエを三人で飲もう、と決めた。二人には

  話したい事がたくさんある。杉山はひととき昔の思い出に浸った。

 

   少しして過去から現実に戻り、杉山はモエ・エ・シャンドンの代わりに、冷蔵庫の中のハー

  フボトルの赤ワインを手に取った。

  

  「甲州ワインか」

   ホテルのミニバーではフランスワインが主流であったので意外な気がした。

  

  「そうか! 日本の社長が山梨出身か……」

   杉山は納得した。

   

   封を開け、クリアーな香りを味わった。少し酸味に欠ける気もしたが、口当たりが優しく丸

  みのあるワインを味わいながら、窓の外から見えるレインボーブリッジを眺め、週明けから始

  まる新しい仕事に思いを馳せた。


  「死亡が確認されたのは、乗用車を運転していた神奈川県のかわむらゆういちろさん、43歳……」

  

  「何?」

   杉山の思考がそこで止まった。アナウンサーが告げる「かわむらゆういちろう」という言葉

  に敏感に反応した。


   昼間起きた中央自動車道での大きな事故を伝えるテレビの前に立ち、リモコンを操作しよう

  として「生のニュース番組だから巻き戻しは出来ない」という事に気が付き、慌ててチャンネ

  ルを変えた。しかし、切り替えても他のチャンネルでは、事故のニュースは流れていなかった。

   少しの間、テレビのチャンネルを変えたりしていたが、バッグからパソコンを取り出し、電

  源を入れた。パソコンが作動するまで苛立った。やっとgoogleのメイン画面が開き、

  トピックスに事故のニュースを見つけクックしたが、死傷者の名前は載っていなかった。

 

  「かわむらゆういちろうさん、43歳。確かにそう聞いた。チーフ? 年齢は合ってる

  ……まさか?」

   咄嗟の事で何をどうしたらいいか分からなかったが、取り敢えず携帯電話を手にった。

  

  「ダメだ」

   杉山の携帯はまだ日本では使えなかった。

  



   何も確証がないのに、何故か心臓が大きく波打ってきた。

  「冷静に考えろ」と自分を諭し、バッグから手帳を取り出し、客室用の電話の受話器取り、川

  村雄一郎の携帯に電話をかけた。

  

  「もしもし……」

   聞き覚えのない声の男が応えた。携帯を変えたのだ、と思ったが「川村さんですか?」念の

  ために訊いた。

  

  「違いますよ」

   相手は不機嫌そうに応え電話を切った。

   

   次に、杉山は川村真理の携帯に電話をかけた。コール音が響いていたが、そのまま留守電に

  切り替わった。受話器を手に持ちながら考えて、今度は、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルに電

  話をかけてみる事にした。

  

  「ありがとうございます。八ヶ岳ガーデンリゾートホテル中澤でございます」

   女性が可愛い声で応えた。

  

  「杉山と申しますが、川村総支配人をお願いいたします」

   気のせいか、相手が息を呑む気配を感じた。

 

  「少々お待ちくださいませ」

   相手の返答に「ホテルにいるのか。やっぱり人違いか」と少しホッとし、突然の電話にチー

  フは驚くだろうな、と想像して胸が躍った。

  

  「大変お待たせいたしました。総支配人は外出をしておりまして、本日は帰社の予定はござい

  ませんが……」

   

   消えかけた不安感がまた首をもたげてきた。どうしようか?と考え「分かりました。ありが

  とうございます」と電話を切った。

   万が一チーフに何かが起きたとしても、おそらく中澤という可愛い声の女性は、自分には、

  何も教えてくれないだろう。

   思い余った杉山は、今度は横浜ロイヤルガーデンホテルに電話をかけた。ホテルに電話をす

  るのは9年ぶりだったが、指はしっかりと電話番号を覚えていた。


  「お電話ありがとうございます。横浜ロイヤルガーデン早瀬でございます」

  ハキハキとした知らぬ女性の声が応えた。

 

  「杉山と申しますが、ゲストサービス部支配人の矢沢……川村真理さんをお願いしたいのです

  が」

   旧姓を告げた事に思わず苦笑したが、やはりここでも電話の相手が、一瞬身構えたような気

  配が伝わり気になった。

  

  「大変申し訳ございません。川村は席を外しております」

   川村真理はプレミアム・クラブに在籍している筈だが、フロントの電話に出た、早瀬という

  女性が、直ぐに真理の不在を告げた事が意外だった。

   

   どうしようか? 杉山はまた考え「分かりました。恐れ入りますが、村上健司さんをお願い

  いたします」と告げた。

   大陸的だが横柄な村上の顔が浮かんだ。

  

  「かしこまりました。少しお待ちくださいませ」

   懐かしい保留音が流れて来たが、その向こうで何かが起きている……そんな気がした。

  

  「お待たせいたしまして大変申し訳ございません。村上も席を外しております。館内かとは思

  いますが、連絡が取れない様子ですので、宜しければご用件を承ります」

   早瀬というホテルスタッフは、申し訳なさそうに答えた。

 

  「そうですか。至急に確認したい事がありますので、村上さんにご連絡を取って頂き、これか

  ら申し上げます電話番号にご連絡を頂きたい旨、伝えて頂きたいのですが」

   やはり何か起きている。直感した杉山は、何としてでも村上と話をしたかった。

  

  「かしこまりました。早急に村上に連絡を取りますので、恐れ入りますが、ご連絡先をお願い

  いたします」

  

  「ちょっと待ってください。すみません」

   ホテルの電話番号を覚えていなかった杉山は、慌てて、名刺入れから沢野井の名刺を取り出

  した。

  

  「お待たせしました。よろしいですか。電話は03-5550……グランドオリエンタル・東

  京 2310号室に宿泊しています杉山直樹宛にお願いします。」

  

  「確認いたします。グランドオリエンタル・東京、2310号室杉山直樹様、電話は03-5

  500……確かに承りました」

 

  「お手数かけますが、出来るだけ早く連絡を頂けます様、くれぐれもよろしくお願いいたしま

  す」

  

  「かしこまりました。杉山様のご用件は早瀬が承りました」

   杉山は早瀬という女性の声が震えているように感じられた。


   村上からはなかなか連絡がなかった。

  

  「間違いであって欲しい……」

   

   村上からの電話を待っている間に、スーツケースを片付けよう、と思いスーツケースを開い

  たが、不安な気持ちが広がり、思うように片付ける事が出来なかった。

   いつの間にかワインは空になっていた。冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲んだ。日本のビ

  ールはコクがあって美味しかったが、不安な気持ちの分、苦味が強かった。

 

  

   客室の電話が鳴ったのは、7時のNHKのニュースが始まった時間だった。

 

  「杉山です」

   相手は村上だ、と確信して受話器を取って応えた。

 

  「直樹! やっぱりお前か!」

   何年かぶりで聞く村上の声は懐かしく、元気があり、その声を聞いた瞬間「心配は無用だっ

  たかもしれない」という期待をまた抱いた。

 

  「お久しぶりです。お忙しいのにすみません、電話を頂きありがとうございました。実は今日

  バリ島から生還しました。今度はお台場で、インスペクターの仕事です。村上さんはお元気そ

  うですね」

  

  「俺は元気だよ。そうか……今日帰ってきたばかりか……それで俺に帰国の挨拶か? 嬉しい

  よなあ……だが、そうじゃないよな。ニュースを見たんだろう?」

   村上の声の調子が変わり、一度消えかけた不安な気持ちが戻って来た。

 

  「見たって……?」

   杉山はひとり言のように村上の言葉を繰り返した。

 

  「……」

   村上からの返答はなかった。

  

  「見たって、という事はどういう事ですか?」

 

  「……」

   それでも村上からの返答はない。杉山に不安が広がった。

 

  「やっぱり間違いないんですか? チーフが……あの交通事故の被害者は、やっぱりチーフで

  すか……?」

  

  「何を言っているんだ? 俺には分からない。日本語で話せよ」

   村上は泣いているようだった。

  

  「すみません。さっきテレビで大きな交通事故のニュースを見ました。アナウンサーが、亡く

  なったのはかわむらゆういちろうさん、そう言っていました。その人は、横浜ロイヤルガーデ

  ンホテル時代の僕の上司だった、元チーフの川村雄一郎さん、そうなのですか?」

   一言一言をゆっくりと話した。

 

  「そうだ」

   村上は、観念したかのように辛そうに答えた。

 

  「何言っているんですか!」

   信じたくない杉山は、村上を責める口調になった。

 

  「昔みたいに、杉山が先走って余計な事を言って……だから、バカヤローって言ってください

  よ!」

   杉山は声を荒げた。

 

  「……」

   村上からの返事はなかった。

 

  「村上さん! 聞いているんですか?」

 

  「……」

  

  「村上さん! 今何処にいるんですか? 真理はどうしていますか?」

   杉山は必死に訴えた。

 

  「真理は壊れた」

   やっと答えた村上の嗚咽が受話器越しに伝わって来た。

  

  「何がどうなっているんですか? 村上さん教えてください! チーフは僕にとって大事な人

  なのですよ!」

  

  「悪かったな……真理は今、山梨だ。真理の叔父さんと叔母さんと、俺のカミサンが一緒だ。

  俺は六角橋だ。居酒屋で飲んだくれている。以上だ」

   村上は泣いていた。

 

   杉山直樹は部署こそ違っていたが、横浜ロイヤルガーデンホテルで、村上も可愛がっていた

  部下だった。転職し、久しぶりに帰って来た杉山の声を聞いて、伝えたい事がたくさんあった

  が、村上は悲しみが大き過ぎて話が出来なかった。


  「村上さん、しっかりしてくださいよ! 六角橋の何処にいるんですか? 今から行きます」

  

  「本当か? 来てくれるのか……」

   杉山は村上の涙声を初めて聞いた。

 

  「東神奈川からタクシーに乗れ。六角橋商店街入り口の漁火って言えば、タクシーは届けてく

  れるよ。早く来いよ!」

   漁火という居酒屋の住所と電話番号を言い終わって村上は声をあげて泣いた。

  

  「すぐに行きます」

   そう返事はしたが、焦っていて行動が伴わなかった。


   洗面所で顔を洗って「落ち着け」と自分に向って話しかけ「財布、携帯、手帳、カードキー

  ……」と声に出してバッグに納めた。

   部屋を出る時に、ハーフパンツとTシャツに、ホテルのスリッパ姿に気が付き、そんな自分

  に悪態をついた。慌ててスーツケースから、ポロシャツとジーンズとスニーカーを取り出して

  着替えたが、ポロシャツのボタンをはめるのに手間取って、イライラした。

 

   台場から横浜の六角橋まで、どの経路で行ったら一番早く着けるのか? 浦島太郎になった

  杉山には分からなかった。

   部屋を飛び出し、ホテルのロビーを出て、玄関前で待機していたタクシーに乗り込んで「横

  浜の六角橋商店街まで。いくらお金を使っても構わないから、一番早く到着出来るルートを使

  ってください!」

   そう叫んだ。


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