第二章
「アッ、携帯を忘れた。戻ってくれる?」
橋本章二は、妻の美佐子に言われて舌打ちをした。
「人の事はうるさく言うのに、自分はいつもこうだ!」
章二はコンビニの駐車場から自宅に戻るため、自慢の愛車であるアウディQ5を発進させた。
自宅の駐車場に半分だけ車を入れ、すぐに発進出来る体制で美佐子を待った。
携帯を取りに行っている、というのに美佐子は中々戻って来なかった。
「何やってるんだ!」
イライラしてきた章二は車から降りて煙草に火を点けた。ヘビースモーカーだが、購入した
ばかりのアウディQ5は禁煙車にしている。短距離の時は我慢が出来るが、長距離を運転する
時はSAに寄る回数が増える。
「また、スモーキングタイム?」
その度に、美佐子は呆れたように言う。
「うるさい奴だ」
アウディを買う時もそうだった。章二は、ボディカラーにはオプションで、紺系のディープ
シーブルーパールエフェクトを選んだ。
「標準のホワイトが上品でいいのに……こういう色はすぐに飽きるわよ」
美佐子が異議を唱えて、散々文句を言った。
「俺の退職金で買う車だ。文句は言うな!」
退職金の一言が効いたのか、美佐子はそれで黙った。
「ごめん、ごめん。彩香から電話がかかってきて、シューロールケーキを買って来て、だって」
「なんだ、そうか……」
可愛い一人娘からの電話で手間取っていたのなら仕方ない。娘には甘い父親だった。
「あの時、携帯を取りに戻らなければ良かった」
思わぬ出来事が起きた時、そういう事を言うようになるのか? それとも「あの時、携帯を
取りに戻って良かった」そう言う事になるのか?
「たまには起きてもいいだろう」
そう思いたくなる程、自分達にはそういう言葉が無縁の平々凡々な夫婦だった。
「無事に生まれました」
娘婿である土屋和幸から、初孫誕生の報せをもらったのは、昨夜の11時過ぎだった。女の
子という事が分かっていて、予定日は7月7日の七夕という事もあり、娘の彩香は「織姫の織
を使って、詩織という名前にするの」と言っていたが、予定より一週間程早く生まれてしまっ
たにも関わらず、2890gで無事に生まれた孫の誕生は、章二にとってこの上ない喜びであ
った。
精密機械メーカーを定年退職後、山梨県甲府市のシッピングモールの警備員をしている章二
は、幸いな事に今日は公休日だった。
「おじいちゃん孝行の孫ね」と妻の美佐子に言われて、初孫との対面を章二は楽しみにして自
慢の愛車で出発した。娘夫婦にもアウディQ5が初お披露目になる。それが、美佐子の忘れ物
で少し機勢を削がれた気分がしたが「今日は勘弁してやろう」そう思っていた。
「雨は小降りになったけれどスリップしやすいから、運転には注意してね」
自分で承知している事を美佐子から改めて言われて「うるさいな!」と思ったが、今日は特
別な日だ、と思って「心配しなくて大丈夫だよ」また、グッと我慢の笑顔で返事をした。
甲府昭和ICから入った中央自動車道は、平日という事もあって空いていた。
本線への合流でシルキーゴールドのエスティマの後ろに連いた。
「レンタカーか……」
エスティマを見て章二はつぶやいた。
「お父さん、ハイッ!」
本線の流れに乗り安定走行を始めた所で、美佐子が、缶コーヒーのプルタブを開けて章二に
手渡した。いろいろうるさく言うだけあって、運転時の状況やタイミングを考えながら、運転
している章二を旨くサポートしてくれる。それに、車の中では口数が少なくなるのが有り難い。
その事には満足していた。
カーステレオからは、美佐子が自分で編集したCDの「懐かしのフォークソング特集」から、
イルカの「なごり雪」が流れていた。
美佐子は、窓外に広がる甲府盆地を眺めながら口ずさんでいる。おそらく、孫の事でも考え
ているのだろう。章二もまだ見ぬ初孫を思い浮かべて思わず笑みがこぼれた。
天気が悪い事だけが少し不満だったが、何の問題もなかった。
前のエスティマや、後続の白いトヨタ車のハイブリッドカーとの車間距離は充分だし、まずま
ずのドライブ気分を味わっていた。
カーステレオから流れる曲は「さよならをするために」に変わった。
「誰の曲だっけ?」
切ないメロディを聞いて、年甲斐もなく、甘酸っぱい気持ちになった章二が美佐子に尋ねた。
「ビリーバンバンよ」
美佐子が窓の景色を見ながら教えてくれた。
勝沼ICを過ぎ、数分で笹子トンネルにさしかかろうとしている頃、白いベンツが重いエン
ジン音を響かせ、猛スピードで追い越し車線を走り抜けて行った。
「狭い日本、そんなに急いで何処に行く?」
昔の交通標語が頭に浮かんだ。安全運転を心がけているが「急ぎたい」自分もそんな心境に
なっている事に気がつき、苦笑いをした。
「いつ聴いてもいい曲よね?」
カーステレオのボリュームを少し上げながら、美佐子は章二に同意を求めた。流れる曲は
「22歳の別れ」に変わっていた。
「別れの歌ばっかりだな」
章二がつぶやいた時、前方のエスティマが変な動きを見せた。
白いベンツに刺激されたのか、右にウィンカーを出し、車線変更をする素振りを見せたが、
躊躇したようにウィンカーを消し、そのまま走行車線を走り続けた。
「嫌な運転の仕方だな」
章二は一瞬不安な気持ちに駆られた。
サイドミラーで追い越し車線に車がいないのを確認して、車線変更をしてエスティマを追い
抜こうかと考えた時、エスティマの前を走っていた軽トラックが、追い越し車線に入った。章
二もそれに続こうとウィンカーを出そうとした時、再度エスティマが、右のウィンカーを点滅
させて、追い越し車線に入りスピードを上げた。
「全く下手くそな運転だな!」
章二は思わず声を出した。
「どうしたの?」
その声に美佐子が反応して、章二に顔を向けた。
「あのレンタカーのエスティマ、嫌な運転なんだよ」
「傍に行かない方がいいわよ。気をつけてね」
美佐子も不安げな表情でエスティマを見ていた。
章二は更に嫌な気分になった。
エスティマの動きはやはりおかしかった。追い越し車線に入ったものの、余りスピードをあげ
ず、章二の前を走っている黒の4WD車の横にピッタリつけていた。
章二はバックミラーで後続車がいないのを確認して少しスピードを緩め、4WDとの車間距
離を開けた。万が一……余計な事に巻き込まれる事を警戒した。
「あの車も嫌な気分だろうなあー」
そう言った時、エスティマが少しスピードを上げて4WDを追い抜いた。
そして……急ハンドルを切って走行車線に割り込んできた。
「バカヤロー!」
章二は思わず叫んだ。
「何よ! どうしたの!」
美佐子も叫んだ。
章二の目に、急ブレーキを踏んだためにコントロールが出来なくなくなり、スピンを始めた
黒の4WD車の姿が飛び込んできた。まるで、映画のワンシーンを観ているようで、現実の出
来事とは思えなかった。
そこで章二の記憶が途切れた。
気がついた時は、章二の運転するアウディQ5は路肩に停まり、章二はハンドルにもたれか
かっていた。
一瞬記憶はなくなっていたが、渾身の力を入れてブレーキペダルは踏んでいた。慌ててギア
をパーキングに入れ、サイドブレーキを思いっきり引いた。何が起きたか分からなかったが
「美佐子!大丈夫か?」と、助手席とダッシュボードの間にうずくまっている美佐子に声をかけ
た。
「美佐子!」
返事がない美佐子の肩を掴んで助手席に引き上げた。美佐子は真っ青な顔で震えていた。
「大丈夫か?」
助手席を倒して、黙ってうなづくだけの美佐子を寝かせた。
「怪我はありませんか?」
しばらくして、引きつった顔の若い男が運転席の窓を叩いた。章二は、慌ててパワーウィン
ドウのボタンを押した。
窓が下がって、そこで初めて現実を見た。
高速道路上は悲惨な状況になっていた。
クライスラーのチェロキーだろうか、黒の4WDは中央分離帯に激突して、タイヤ付近から
白い煙が出ていた。
数人が、高速道路上を喚きながら右往左往していているのを見て、章二も慌てて車外に出た。
チェロキーの様子を見た男が「ダメだ」と言うように手を大きく振っていた。
高速道路上には、ハザードランプを点けた車が、あっちこっちを向いて停まっていた。
窓を叩いた男が「大丈夫ですか?」と再び声をかけたが「大丈夫です」かすれた声で答えて、
章二はそのまま車の横に座り込んでしまった。
「エスティマがいない……」
章二のつぶやきに「エスティマ? 何なのですか? 何があったか見てたんですか?」と男
が叫ぶように尋ねた。
言わなくてはいけない事があったが、章二はショックで声が出なかった。