第十六章
1
「ここで被告人質問に入ります。被告人は前に出なさい」刑務官に支えられて、梓が証言台に
立った。
裁判員:ご主人の葬儀で被害者に好意を持った、という事ですが、被害者と不倫関係になった
きっかけを話してください
裁判長の隣の席に座っている梓と同じ年頃の女性裁判員が、まず質問を始めた。
梓 :私にはいつも何かを探しているような所がありました。亡くなった主人と駆け落ちし
て千葉に行き、主人の病気が元で山梨に引っ越しましたが、刺激がなくて退屈でした。
そんな時に主人が亡くなり、葬儀の席で川村さんと出会った時、川村さんが私の探し
ていたものだと感じました。労災の手続きを川村さんが担当すると聞いて……シナリ
オを考えました。失声症を装う事にしました。川村さんはそんな私に同情し、仕事を
始めてからはフォローしてくれました。川村さんが私に好意を持っている、という事
を感じて、そして……夏のイベントが終わった後、私は病気を装って会社を一週間お
休みしました。川村さんはそんな私を心配して自宅に様子を見に来てくれました。そ
の時に……私から誘いました
裁判員:被告から仕掛けたという事ですね?
梓 :そうです
裁判員:あなたは、駆け落ちまでしたご主人の葬儀で被害者に好意を持ち、何ヶ月も経たない
間に被害者と不倫関係を結んでいますが、そういう自分の行いについてどう考えてい
ますか?
梓 :不謹慎だと思いましたし、倫理に反している事をしていると承知していました。でも、
気持ちは抑える事が出来ませんでした
裁判員:そうだったとしても、亡くなったご主人の時と同じ事の繰り返しをされた、という事
ですね。同じ事をして、相手のご家族の事を考えなかったのですか?
梓 :結婚指輪もしていましたし、ホテルで単身赴任をしているという事は聞いていて、だ
いたいの事は分かっていました。でも、本人は一言も家族の事を言わなかった事もあ
り、割り切った関係と考えていました。
裁判員:割り切った関係と考えていたのに、こういう結果になった。というのはどうしてです
か?
梓 :言葉で言うのは簡単ですが、好きでしたので気持ちの中で割り切れないものがありま
した。
裁判員:こういう結果になった。というのはどうしてですか?
梓 :愚かだったと思います。相手が何も言わないのだから、それで満足していれば良かっ
た、と後悔しています。でも、同じ職場にいたので、聞かなくていい事を聞いてしま
ったからです
裁判員:偽装妊娠を考えた理由を教えてください。
梓 :職場のホテルで、川村真理さんが雑誌に出ている事を聞きました。本屋でその雑誌を
見てショックを受けました。私が好きな人の奥さんは、私とは全く別次元の世界でこ
んなに輝いている、と思うと悔しくなりました。同じレベルに達する事は絶対に出来
ないと思いましたが、負けたくはありませんでした。私が負けない事、それは川村さ
んを奪う事だと考えて、それには弱点である子供を利用するしかない、と思ったから
です。
裁判員:偽装妊娠という事を考えて、それがどういう結果になるか? という事を考えた事は
ありますか?
梓 :どういう結果になるか? と自分で考えるより、相手の出方を見よう、と思いました。
全て相手に賭けようと思っていました
裁判員:ずいぶん身勝手な考えだと思いますし、被害者の誠意を踏みにじる事になると考えま
せんでしたか?
梓 :今は、心から申し訳ないと思っています。
裁判員:あなたが考えた事が全て成功したのに、横浜のホテルに行って川村真理さんと会った
のどういう理由からですか?
梓 :奥様と離婚の話をしたら、すぐに電話をくれると約束していました。その話をするの
はいつ、という事は知っていました。でも、連絡はありませんでした。連絡があった
のは一週間後です。その間に、とても不安な気持ちになりました。二人が申し合わせ
て何か話をしているかもしれない、疑心暗鬼になった事が原因です。
裁判員:横浜のホテルで川村真理さんと会った事が原因で、あなたは被害者の前から姿を消す
事になってしまったのですが、その事についてはどう思っていますか?
梓 :私が行なった事の全てが今は愚かだったと思っていますが、あの時は、私が敵わない
川村真理さんにダメージを与えたい。という思いしかありませんでした。間違った考
えでした。
裁判員:間違ったと思ったのなら、人間として取る道があったのではありませんか?
梓 :今ならそう考えると思います。でも、あの時は分かりませんでした。
裁判員:突然、川村さんの前から姿を消した理由は何ですか? また、消す必要などなかった
とは思わなかったのですか?
梓 :川村さんが本当に愛しているのは奥さんだと、改めて分かったからです。でも、そう
であっても、川村さんは私を選んでくれた。偽装妊娠を打ち明けるつもりはありませ
んでしたが、私の中で、どうにも許せない感情が沸きました。すみません、言葉では
言えない感情です。私が否定されたような……私にとっては辛い気持です。黙って姿
を消せば、彼の心の中に、私はいつまでも残る事になる、そう思っていました。
裁判員:「どうにも許せない」という事を言う権利はあなたにはないと思います。
梓 :申し訳ありません。
裁判員:そのまま姿を消す。という事で終わらせればよかった、と思いませんでしたか? ど
うして殺人などという罪を犯したのですか?
梓 :彼に憎まれている。と思ったからです。愛していた人から憎まれる事程、辛い事はあ
りません。
裁判員:罪を犯すまでの事を考えたのであれば、本人と話をする勇気が持てたのではありませ
んか?
梓 :仰る通りです。でも、その時はそういう事は考えられませんでした。
裁判員:一緒に死のうと思ったのですか?
梓 :もし、一緒に死ねたら、彼に愛されている。そうでなかったら愛されていない。と考
えました。
裁判員:もう一度質問します。一緒に死のうと思ったのですか?
梓 :思いません……でした。
裁判員:その後、逃走したのはどうしてですか?
梓 :初めからそう計画していました。
裁判員:ホテルから被害者の後をつけて、事故を起こすまでの間の、被告の気持ちを述べてくだ
さい。
梓 :迷いました。止めようと考えたりもしました。でも、中央道に乗って横に並んだ時、目
が合いましたが、川村さんは表情一つ変えなかったので、私の事が気がつかないのか?
と思いました。もう一度並行して走り、また目が合いましたが、やはり表情一つ変えま
せんでした。それがショックでした。私に対しての感情がない……私の全てを否定され
ているような気がしました。
裁判員:一度は止めようかと思いながらも、その事もあって計画通りに行為におよんだという事
ですね。
梓 :そうです。
裁判員:殺意があったという事ですか?
梓 :ありました。
裁判員:被害者の事を本当に愛していたのなら、犯した罪を認め、刑に服そうと思いませんでし
たか?
梓 :自分の気持ちが分かりませんでした。二人が私の事を嘲笑っているような、そんな気が
しました。
裁判員:心神喪失を装った理由を教えてください。
梓 :二人に、特に奥様に負けたくなかったからです。不起訴になったら、さぞかし悔しいだ
ろうと思っていました。そして、釈放されたら、どこかに行って、全ての過去を棄てて
生きていきたいと考えました。
裁判員:心神喪失を装っていて、精神鑑定を受ける可能性があったのに、全て自白した理由を述
べてください。
梓 :最初は簡単な事だと思っていましたが、日が経つにつれて、耐えられなくなった部分も
ありました。そんな時、刑事さんからお話を伺いました。川村さんの気持ちや奥様の気
持ちを知って、自分が愚かだったとハッキリと気がつきました。これ以上騙し続けたら、
本当の悪魔になってしまうと思いました。私は人間に戻りたいと思いました。
裁判員:あなたは、ご自分のお子さんを二度も自身の手で葬っている。命の重さをどう考えてい
ますか?
梓 :……
裁判員:きちんと考えを述べてください。
梓 :何よりも尊いもの……そう思います。その命を奪った私は、生きている価値がないと思
います。極刑に値すると覚悟しています。
裁判員:自分は生きる価値はないと考える事、その事自体が、まだ、あなたは命の尊さを分かっ
ていないと思います。人の命を奪って生きる。そのような生き方を選んだからには、あ
なたは『死んで当然だ」という考えを捨て、奪ってきた『命』の重さを背負い、悔い改
め、あなた自身の人生をかけてきちんと罪を償う事が、あなたの努めだと考えます。
梓 :……
裁判員:絶縁状態になっている、福島にいらっしゃるご両親や妹さん達の事は考えた事がありま
すか?
梓 :私には家族はいません。関係ないので、福島にいる人達の事はそっとしておいてくださ
い。お願いします。
裁判員:昨日、とても悲しい出来事が起きました。川村真理さんに対して仰られる事はあります
か?
梓 :奥様は素敵な方でした。なのに……本当に私は悪魔だったと……ひどい事をして、心か
ら申し訳ないと思います。
裁判員:先程、被害者のご友人の村上さんから「被害者は一度もあなたの悪口を言わなかった」
という証言がありました。あなたと目が合った時、被害者の表情が変わらなかった。と
いうのは、あなたへの思いやりの気持ちだったのではありませんか? 被害者はあなた
だという事に気がついていた。無表情を装う事は、お互いに犯した事を反省して、これ
からは別々の道を歩んで行く。過去のあなたを許そうと思っていたからではないのです
か? その事をもう一度考えてください。
「裁判員からの質問は以上です」
裁判員を代表して、命の尊さを述べた50代半ばの男性裁判員が裁判長に告げた。
2
「では、最終弁論に移ります。検察官は論告求刑を述べてください」
「最終弁論に入る前に、この手紙を読ませて頂きたいと思います。この手紙は、15年前に暴漢
に殺害された佐々木真司さんという方が、被害者宛に書いた手紙です。手紙は被害者の手に渡る
事なく、長い間神奈川県警川崎幸北署に保管されていました。本事件がきっかけとなり、川崎幸
北署元捜査官から川村真理さんの手に渡りました。手紙の内容は本事件とは関連はありませんが、
裁判長、裁判員及び傍聴されている方に、是非聞いて頂きたいと思います」
「弁護人、異議はありますか?」
細野検事が、楢崎弁護士に手紙を見せた。
「異議はありません」
「ありがとうございます。補足説明をさせて頂きますが、差出人の佐々木真司さんという方は、
川村真理さんの実の父親でありましたが、佐々木真司さんはご家庭がありました。川村真理さん
は実の父親を知らずに育ちましたが、母上が亡くなられた時に、実の父親の存在を知り、ご自身
の手で父親探しをしていました。その事を含んでお聞きください」
法廷内がシーンと静まり返った。細野検事は、緊張をほぐす様に咳払いをして、佐々木真司か
ら雄一郎宛の手紙を朗読し始めた。
手紙を読み終えた時、法廷内のあちらこちらですすり泣きの声が響いた。
「ご静聴ありがとうございました。これより、最終弁論に移らせて頂きます」
細野検事は再度、咳払いをした。
「被害者である川村雄一郎氏は、信じていた被告から偽装失声症や偽装妊娠、そして突然の失踪
という仕打ちを受けました。自身も不貞を犯していましたが、川村雄一郎氏の気持ちを思うと、
到底被告の行いは許されるものではありません。また、全てに気がついた後、自身を悔い改め、
奥様に許しを請い、再出発を望んでいた川村雄一郎氏に対しての、余りにも自己中心的で身勝手
な被告の犯行、そして犯行後の逃走及び心神喪失の演技等は、人間が行なえる行為ではありません。
川村雄一郎氏は誠実で多くの方から愛されていました。もし、生きていられたら、精神的に大き
な痛みを味わった事で、また人間としての幅が広がり、男としてりっぱな人生を歩まれた事だと、
私は考えます。本人も無念の気持ちでいっぱいでしょう。昨日、奥様の川村真理さんが心臓病で
急逝されましたが、川村雄一郎氏が生きていたら、奥様のそばにいられたら、奥様の身体の異変
に気がつき、奥様は適切な処置を受けられ、一命を取り留める事が出来たでしょう。被告の罪は、
川村雄一郎氏だけの殺害には留まらず、川村真理さんをも殺しました」
「異議あり!検察官の発言は、何の根拠もない、憶測であります」
「異議を認めます」
「確かに、医学的には因果関係はありません。また、被告が実際に手を下したわけではありませ
んが、心臓病で急逝された川村真理さんの苦しみや辛さ、悲しみを考えると、私は言葉がありま
せん」
細野検事は一旦言葉を切った。
「交通事故を装った殺人の罪で、被告人菅原梓を懲役18年に処するのが相当と考えます。以上
です」
「弁護人の意見を述べてください」
「殺意があった。と認めている被告人の一連の行動には情状酌量の余地はありませんが、被告自
身も精神的に大きなダメージを受けております。また、どういう判決が下されようが、控訴せず
そのまま刑に服す。と自身の行ないを反省し悔い改めている真摯な気持ちをも考慮して頂き、判
決を頂けます事を、弁護人としては望んでおります。以上です」
自席に戻った楢崎弁護士は「やるせない……」と深いため息をついた。
「本裁判はこれで結審をいたしますが、最後に述べておきたい事があれば述べてください」
裁判長が、梓に最終陳述の機会を告げた。
倉田は傍聴席で梓を見ていたが、その時、梓と目が合った。
「似ている」
倉田はそう思った。
目の前にいる被告は取調中に「したたかだ」と感じた菅原梓ではなかった。
「一人の男を愛した」梓の目の奥に、川村真理と同じ「一途さ」を感じた。違うのは「真理は不
貞を働いた夫を信じて許そう」と思っていたが、被告は「信じる事が出来ずに許さなかった」と
いう事だ。被告の愛し方は間違っていた。
真理が捜査本部を訪れた時に「愛する事、信じる事、忘れる事は人生の3つの試練」と言って
いた言葉を思い出した。犯行前にその言葉を被告が聞いていたら、恐らく被告は気付いただろう。
殺人は行われなかっただろう。裁判員も言っていたが、被害者が被告を無視したのは、被害者の
被告への愛情の証だったのだ。被害者は、まだ被告を愛していたのだろう。
遠藤検事にも話した事があるが「相手を思いやる気持ちとか、真に愛する気持ち、私達が忘れ
ている何か大切な事、そういう事を私達に思い起こさせるために、この夫婦が存在している」ま
さしく、川村夫婦はその通りだったのだ。
「いつかはきっと分かり合える事があるかもしれない。立場が違っても二人とも彼を愛した。そ
の思いは一緒だから」と言った真理が、今の被告の姿を見たらどう思うだろうか?
「頂きます判決に素直に従う覚悟でおります。私が悔い改め、詫びても二人は帰って来ません。
罪の重さは承知しております。最後にお二人に言わせてください。本当に申し訳ございませんで
した。改めて心からお詫びいたします」
前を向きハッキリとした声で告げた梓の言葉で、倉田は我に返った。
「判決は一週間後、法廷にて申し渡します。これにて、被告人菅原梓の裁判は終了いたします」
裁判は終了したが、しばらくの間、誰も動けない状態になっていた。
倉田警部補は目を瞑って天井に顔を向けていた。刑務官が梓に退廷を促したが、梓が何か刑務官
に話し、刑務官がうなづいた。
刑務官に付き添われた梓が、ゆっくりと雄一郎と真理の遺影に向かって来るのを見た勲と友美
の表情が険しくなった。
「私が間違っていました。謝って許される事ではありませんが、今の私には謝る事しか出来ませ
ん。きちんと罪を償います。本当にごめんなさい」
二人の遺影の前に立った梓は泣きながら訴えた。
「分かりましたから、どうぞお引取りください」
勲が梓から顔を背けて、小さな声で梓に伝えた。
友美は涙が溜まった目でじっと梓を睨んでいた。
「あなたが謝っても二人とも帰って来ません! 真理ちゃんはとっても辛かったのですよ!」
穏やかな友美が声を荒げた。
「返してください! 雄一郎さんと真理ちゃんを、今、ここで私達の前に返してください!」
「やめなさい。お願いだからお引取りください」
勲が友美を制して、刑務官に梓を退廷させるようにお願いをした。
「ダメです! すぐに二人を返してください! さあ、早く!」
友美が泣き喚いた。
「いい加減にしなさい! そんな事を言ったって、二人は喜ばない!」
勲が厳しい口調で、友美をたしなめた。
「お願いだから、この人を早く連れて行ってください!」
刑務官に促された梓は観念したようにヨロヨロと立ち上がり「申し訳ございませんでした」と、
勲と友美に頭を下げて退廷して行った。
同時に、報道関係者が一斉に立ち上がり法廷を飛び出して行ったが、倉田だけは席を立つ事が
出来なかった。