第十五章
1
8月25日、山梨県甲府地裁で開かれる法廷に向っていた村上は涙を堪えていた。
「真理は死んだのではない……川村が最後の最後に守った」
そう思っていた。
「真理を裁判に引っ張り出すのが辛かったのだろう。俺は、お前達の真実を伝える……
だから、二人でしっかりと見てろよ!」
一方、法廷に向かう梓は、穏やかな気持ちになっていた。
いかなる審判が下されようが覚悟は出来ていた。法廷内で川村真理に会ったら「お詫びをしよ
う」とも考えていた。決して自分は許される事はないだろうが、心からお詫びの言葉を伝えたか
った。
罪を認め、正直に話をするようになってから、何故か夢の中に亡くなった夫の菅原幸一が現れ
るようになった。
「きちんと償いなさい」
幸一はいつも同じ事を言っていた。言葉は厳しかったが表情は優しくて、梓は穏やかな気持ち
になれた。
取調べの時に倉田から「川村雄一郎さんは絶望の淵に落とされた時、妻の川村真理さんに救い
を求めた」という事を聞いたが、何故かその気持ちが分かるような気もした。殺人という罪を犯
した自分を、幸一は決して許す事はないだろうし、受け入れてくれる事もないだろうが、心の中
で幸一にすがっていると、素直な気持ちにもなれた。
「彼を愛し、一緒に過ごした日々は確かに幸せだったが、それはひと時の夢の世界で、自分の現
実の世界に存在するのは幸一だけだったのだ。幸一に傍にいて欲しくて、代わりを彼に求めた。
幸一なしでは、私は正しく生きていけなかった」
その事に気付いたが遅かった。
法廷に入廷した時、梓は傍聴席を見る事が出来なかった。
うつむいたまま被告席に着き、一度目を瞑って覚悟を決め傍聴席を見たが、川村真理の姿は確認
出来なかった。
もう一度、目で探した時、異様な光景が飛び込んできた。
傍聴席の真ん中の席に座り、じっと自分を見つめている初老の男性は、川村雄一郎の遺影を抱
いていたが、その隣に座っている、やはり初老の上品そうな女性も胸に小さな写真を抱いていた。
……その写真には、黒いリボンがかかっていた……
「真理さん!」
叫んだつもりだったが、声にはならなかった。
……どうしたの?……
「教えてください」という表情で弁護人を見たが、弁護人は首を横に振っているだけで、何も教
えてくれなかった。
真理の写真を抱いている友美の視線が痛かった。
「最初にご報告申し上げます。被害者である川村雄一郎さんの奥様の川村真理さんは、昨日、脳
動脈塞栓症にて急逝されました。以上です」
息を飲む気配が法廷内を包んだ。
裁判長の言葉を聞いた梓が驚いた顔をして思わず立ち上がり、声をあげて泣き出し「そんな……
どうして……」うわごとのような言葉を漏らした。
傍聴席からもすすり泣きが聞こえた。
「被告人は静粛に!」
裁判長が梓に注意を促した。
「真理さん……ごめんなさい……ごめんなさい……」
梓の泣き声が激しくなった。
「もう一度申し上げます。被告人は静粛に!」
裁判長が木槌を打った。
それでも、梓は泣くのを止めなかった。
「いいですか、もう一度申し上げます。被告人は静粛に! これ以上、被告人が警鐘を無視した場
合、本法廷は休廷せざるを得ない状況になります。被告人が、川村真理さんに心から申し訳ないと
思う気持ちがあるなら、静粛にしてきちんと裁判を受けてください!」
裁判長の言葉は重かった。
梓は観念したかのように腰を下ろした。
「それでは、これより菅原梓の裁判を開廷いたします」
梓が大人しくなったのを確認した裁判長は開廷を告げた。
「被告人菅原梓は前に出なさい」
梓はゆっくりと進み出た。
傍聴席では、矢沢勲と友美の他に、杉山直樹、笹岡崇がじっと梓を見つめていた。
「真理ちゃん、そろそろ裁判が始まる時間よ」
村上の妻の弓恵は横浜のマンションで、物言わぬ真理に話しかけていた。
「川村雄一郎殺害について、本裁判の被告である事は間違いありませんか?」
「間違いありません」
梓は前を向いてハッキリと答えた。
「始まるぞ、しっかり見ろよ」
勲は声を出さずに雄一郎に語りかけ、友美は真理の写真を胸元に引き寄せた。
「氏名、生年月日、本籍地、住所、職業を答えなさい。」
「はい、菅原梓、生年月日は昭和43年10月24日、本籍地……」
ここでも梓の声はハッキリとしていた。
「それでは、細野検事、起訴状の朗読をお願いいたします」
裁判は開始された。
公判検事である細野靖は裁判員に分かりやすい言葉を使って、ゆっくりと起訴状の朗読を行
なった。
「罪条刑法第199条、罪名殺人罪」の言葉が法廷に響いた、
起訴状朗読後、梓への黙秘権の告知と罪状認否が行なわれたが、そこでも梓は「間違いあり
ません」と答え、細野検事の冒頭陳述が始まった。
「被告菅原梓は、福島県で4人姉妹の長女として生まれ育ちましたが、昭和63年県立高校2
年生の時に、中学生時代の恩師である菅原幸一氏と不倫関係を結び、一時期、関係を絶ってい
た時期もありましたが、平成8年二人の関係が復活し、平成10年には駆け落ち同然で、福島
県から千葉県に移り住みました。その間、平成3年には椎名達郎氏と結婚をしており、7年間
の婚姻生活を送っておりました。尚、被告人は県立高校卒業後、地元の信用金庫に勤務し、結
婚後、夫の転勤を契機に、福島市内の紳士服専門店にて勤務経験がありますが、犯罪歴などは
ございません。現在福島県内には、被告の両親と姉妹が在住していますが、菅原幸一氏と駆け
落ち後、被告とは没交渉になっております。椎名氏との離婚成立後は、菅原幸一氏と再婚いた
しましたが、平成16年菅原幸一氏が肺結核を患い、半年間の療養生活を送った事から、山梨
県北杜市に移り住み、菅原幸一氏は、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルの送迎バス運転手として
勤務しておりました。しかし、平成20年4月、夫である菅原幸一氏は勤務中に、交通事故で
死亡しております。その夫の葬儀の席上で、被告人は、被害者川村雄一郎氏に心を奪われ好意
を抱くようになりました。当時被告人は失声症を装っており、夫の事故後の諸手続きのために
何度か被告と接していた被害者は同情心から、被害者自身が勤めるホテルの仕事を斡旋しまし
た。その後、同年8月末頃から二人は不倫関係となりました。平成21年11月末、被害者の
妻である川村真理さんが掲載されている雑誌を読んだ事で、激しく被害者に対して独占欲が沸
き、偽装妊娠という手段を使いました。偽装妊娠とは知らない被害者は、生まれて来る子供の
ために本年3月、妻に離婚要求をいたしております。離婚は成立してはおりませんが、妻は別
居に同意しておりました。被告人は、被害者と妻が別れた後、時期を見て流産したと、被害者
には告げるつもりでおりました。本年4月、被告人が妻の勤務するホテルに現れ、妻と直接会
った事で被害者に責められました。また、その場で、被害者の妻への愛情の深さを知った事で、
計画の変更を余儀なくされた被告人は、5月30日に、被害者には内緒で千葉県幕張に移り住
みました。その後も、被害者には引越しをした事は告げず、被害者には自宅を訪れるよう連絡
をし、約束もしておりました。6月15日、何も知らず被告人宅を訪れた被害者は、たまたま
帰宅した被告人の隣家の主婦との話しの中で、被告人の突然の引越しと、失声症と偽装妊娠を
知らされる事になりました。被告人はその翌日、探り目的で自ら、隣家の主婦に電話をした事
で、被害者が全てを知った事を知り、大きなショックを受けました。被害者が自分を憎んでい
る、という気持ちが膨らみ、このまま自分を憎み続けるであろう被害者が、どこかで生きてい
るという事が我慢出来ず、被害者のスケジュールを把握していた事で、交通事故を装った殺人
計画を考えました。交通事故の場合、自分も巻き込まれる可能性がある。万が一巻き込まれた
ら自分は愛されている、巻き込まれなかったら自分は愛されていない。という事に賭け、巻き
込まれなかった場合、心神喪失を装う。という計画も立てておりました。実際に就職が決まっ
た「きりり」という雑貨店では3日間しか勤務せず、異常な勤務態度で、雑貨店が解雇という
形を取らざるを得ない状況を作り上げ、その後、不眠症と被害妄想を訴え、精神科にて1度だ
け診療を受け、短期精神障害と診断をされております。犯行にはレンタカーを使用しておりま
すが、レンタカーの店でもやはり異常な行動を取りました。また、犯行前日から小淵沢のホテ
ルに宿泊しておりましたが、そのホテルでも、クレームを付ける等の異常行動を取っておりま
した。犯行当日は、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルの従業員用駐車場で、被害者を待ち伏せ、
後をつけました。小淵沢ICから中央自動車道に乗り、笹子トンネル手前で、追い越し車線か
ら急ハンドルを切り、被害者の車の直前に割り込み、被害者を死に至らしめました。そのまま
逃走したのは、巻き込まれなかった事で、予め考えておいた次の計画、心神喪失を装うという
事を実行する事が目的でありました。目撃者の証言と高速道路の入退場記録により、レンタカ
ーを割り出し、レンタカー会社の記録から被告が特定されました。翌、7月3日土曜日、午後
3時半に千葉県千葉市美浜区の自宅で、救護義務違反により、被告人を逮捕いたしました」
裁判員も傍聴者も、菅原梓の凄まじい過去や事故に至る経緯については、息を飲んで聞き入
っていた。
冒頭陳述の後は各証拠の取調べが行なわれた。検察側からの証言者は、橋本章二、吉野裕之、
片岡ふみ子、村上健司の4名が申請され、弁護人からは吉野裕之、片岡ふみ子の2名が申請さ
れた。福島に住む、梓の両親と姉妹からは「梓とは縁を切っていますので、一切関わりたくは
ありません」と情状酌量の証人としての出廷を拒否されていた。
2
「お断り申し上げますが、検察側証人として申請しておりました橋本章二さんでありますが、
三日前に、勤務先で右大腿部骨折の怪我を負われてしまいました。一昨日、無事に手術も済み
ましたが、本日の出廷は不可能という事で、担当医の診断書を提出させて頂くと共に、昨日、
病院に出向きまして得た証言の録音テープをもちまして、証言に代えさせて頂きたいと考えて
おります。尚、録音テープを文書に起こし、本人の署名及び実印を押印した書類も併せて提出
させて頂きます」
「弁護人いかがですか?」
「異議はありません」
橋本章二証言の録音テープが公開された。事故当日の生々しい様子を証言した橋本は「長い
距離、チェロキーの後ろに連いていました。エスティマの運転ぶりが気になったので、自分は
常に速度計を確認しながら運転をしていましたが、チェロキーは規定速度内での走行であり、
運転していた被害者である川村さんには、全く非がないと思います。エスティマは悪魔の車だ
と思いました」と証言を終えていた。
次に証言台に立ったのは、八ヶ岳ガーデンリゾートホテル宿泊部支配人の吉野裕之であった。
「亡くなられた川村雄一郎さんとのご関係をお話ください」
吉野裕之は慎重な面持ちで証人宣誓を行なった後、検事の尋問にはっきりとした口調で証言
を始めた。
「総支配人……すみません、そう呼ばせてください」
「分かりました」
細野検事は答えた。
「私が6年前に、北海道にある富良野ガーデンリゾートから八ヶ岳ガーデンリゾートに転勤し
た時に、総支配人は、宿泊部支配人で私の直属の上司でした。それからずっと私は部下として、
総支配人の下で仕事をして来ました」
「お仕事を離れての個人的なお付き合いはありましたか?」
「当時、私は結婚したばかりで、妻も一緒に山梨に連れて来ましたが、単身赴任の総支配人と
は、私の妻と一緒に飲みに行ったり、横浜にいらっしゃった奥様が見えた時はご同伴で飲んだ
り、食事をしたりと頻繁ではありませんでしたが、家族ぐるみの付き合いをさせて頂いていま
した」
「比較的個人のお付き合いがあったご様子ですが、川村さんと被告との関係に気がついた事は
ありませんでしたか?」
「全く気がつきませんでした」
「どうして気がつかなかったのですか?」
「総支配人は長い間単身赴任でしたが、社内で浮いた話を聞いた事もありませんでした。総支
配人の愛妻家ぶりは有名だった事もあり、全く考えた事がなかったからだと思います」
「被害者の愛妻家ぶり、というのは具体的にどういう部分で感じられましたか?」
「横浜にいらっしゃる奥様をとても大切にしていていました。特にオノロケを言ったりとか、
ご自分から奥様の話をしたりとかそういう事はありませんでした。今、考えると菅原さんと付
き合っている時期にも、奥様ともご一緒させて頂いた事がありますが、奥様を思う気持ちが自
然に伝わってきて、ほのぼのとしたそんな気分になりました」
「お仕事での様子も含めて、被害者の川村雄一郎さんはどんな方でしたか?」
「総支配人は仕事に厳しい人だ、とガーデンリゾート内で評判で、私は富良野から転勤の際、
覚悟してきました。その評判の通りでしたが仕事が好きで、部下思いで、誠実で優しくりっぱ
な方でした。進んで悪者になる様な部分もありました。仕事一筋の仕事人間の部分もありまし
たが、面白く仕事をしよう、みたいな遊び心もありました。勿論、そうであっても聖人君子で
はありませんから、完璧だとは思っていません。仕事の事で、総支配人の考えが間違っていた
事もあったり、ぶつかる事も多々ありました。それに、酔って乱れた姿を何度も見た事もあり
ます。それでも、私は総支配人の仕事に向う姿勢や奥様を思う気持ち、生き方そのものを尊敬
していました。そういう総支配人を手本に生きて行きたい、そう思っていました」
「他の方には分からない部分で、悩まれていたようでしたが、その事を感じた事はありあます
か?」
「そうですね……余り、ご自分のプライベートに関する事での喜怒哀楽は出されない方でした。
以前、奥様がご病気で子供をダメにされた時の事ですが、自分の事で、周りに心配や迷惑をか
けてはいけない、と毅然とされていました。私はかなり辛そうだと思いましたし、みんなも心
配していましたが、それは事情を知っているからで、知らなかったら、恐らく総支配人の様子
だけでは、誰も気がつかなかったと思います。今回の事もそうです。こういう事があって、総
支配人もかなり辛く、苦しかったと思いますが、事故が起きて話を聞いたから分かった事です。
そういう周りへの気配りとかには、非常に神経を使われていました。でも、後悔しています。
自分達が毅然とした総支配人を求めていたから、余計に辛かったのではないかと。申し訳ない
と思っています。先程も申し上げましたが、ご自分のプライベートな姿を表わさなかったので、
生活臭を感じませんでした。でも、今、思いますが……その……不倫の事も含めて、とっても
人間臭い人だったのかってそう思います」
「事故当日の川村さんの様子はどうでしたか?」
「月に一度の本部での定例会議の日で、朝、通常に出社して、私達に指示をして出かけました。
ただ、一つだけいつもと違うと思う事がありました。週末にかかる場合は変更されますが、本
部の定例会議は毎月2日と決まっています。平日の場合、総支配人は会議の翌日は公休を取ら
れていました。会議の後、横浜に帰るからだと思います。今月は会議が金曜日でしたが、そう
いう場合は、日帰りで帰って来る事が多かったのですが、今回は都合で土曜日に休ませてもら
う。と申し訳なさそうに言っていました。フロントの女性スタッフには、奥様が珍しく土曜日
が公休なので、自分も公休を合わせた。と嬉しそうに話していたそうです。普段、ご自分から
そういう事を話す事がなかったので、聞いたスタッフはよっぽど嬉しかったのだろう。と言っ
ていました」
「次に被告の事について教えてください。ホテルでの被告はどんな様子でしたか?」
「ご主人が亡くなられて、労災等の手続き行なった総支配人が、菅原さんに仕事を紹介したと
聞いています。入社してから声が出なかったので……私も全く疑っていませんでしたが……余
りスタッフと積極的に交わる、とかそういう部分はありませんでした。真面目で、きちんとさ
れていた方だという印象は残っています。リネン室もいつも綺麗に片付いていたし、備品の補
充なども不足なく行なってくれていたので、清掃スタッフなどからは評判は良かったと思いま
す。バックヤードの清掃や制服のクリーニング手配等、スタッフのサポートもしてくれていた
ので、助かっていました。ご主人の事があったからだと思っていましたが、自分を積極的にア
ピールする事もなく、出来るだけ目立たないように、分別をわきまえた人だと思っていました」
「被害者と被告との関係について、何か気がついた事はありますか?」
「総支配人は、誰に対しても分け隔てなく接していました。それに、ツーショット場面も見た
事がなかったので、二人の事は驚き以外の何物でもありません」
「最後になりますが、吉野さんの今のお気持ちを聞かせてください」
「私もそうですが、会社のスタッフ全員は大きな悲しみでいっぱいです。総支配人がいなくな
って、また改めて、総支配人の存在の大きさを感じています。そんな総支配人に、もっとそば
にいていろいろ教えてもらいたかった、だからとても残念で悲しい思いでいっぱいです。私は、
奥様の事は今日裁判が始まる前に聞きました。総支配人同様、とても素晴らしい方でした……」
吉野は声を詰らせた。
「こんな……こんな事がなかったら、お二人で……今頃は奥様も……」
吉野は次の言葉が言えなかった。
「菅原さんには……犯した罪の大きさをしっかりと受け止めてもらい、きちんと罪を償ってく
ださい!」
そう言って、吉野は梓を睨み涙を拭った。
「ありがとうございました。以上です」
「続いて弁護人、反対尋問をお願いします」
梓の国選弁護人である、楢橋雪子が立ち上がった。梓からは「全てを認めて、素直に刑に服
すつもりでいるので、自分に有利になるような、情状酌量を求めるような証人喚問などは行な
わないで欲しい」と言われていた。
「証人は、被告人と被害者が付き合っている間も、奥様を大事にしている気持ちが伝わって来
た。と証言されましたが、二股をかけていた時でも、他人にそういう気持ちを抱かせるという
事は、遊び上手な遊び人、という事ではありませんか?」
「異議あり! 弁護人の発言は、一方的な解釈であり誘導尋問と考えます」
「異議を認めます」
「質問を変えます。被告人以外に、単身赴任暦が長い被害者が、他で遊んでいるという事はあ
りませんでしたか?」
「ないと思います」
「被害者はプライベートな事を余りお話しなかったようですが、それでもないと思いますか?」
「ないと思います」
「証人が、そうお答えになる根拠を述べてください」
「もし、誰にも内緒で浮気などして遊んでいた場合ですが、気付かれないようにカモフラージ
ュで、反対に奥様のお話をされると思います。四年程前、私が引越しをしたい、と話をした時、
総支配人から、自分のマンションはホテルにも近いし環境も良い。空き部屋があった筈だから、
引っ越してくればいいじゃないか。と誘われました。今、私は総支配人と同じマンションの同
じフロアーに住んでいます。遊んでいるような人だったら、会社の部下に同じマンションに住
め、と誘わなかったと思います。総支配人は誠実な方です」
「証人は、被告を真面目できちんとしており、分別をわきまえた人と評していますが、会社で
の評判はどうでしたか?」
「評判は良かったと思います。細かい部分まで気を使って仕事をしているような所がありまし
た。多分、亡くなられたご主人の事や、仕事を斡旋した会社への恩義と言うか、そういう気持
ちがあったのだと思っていました。ただ、これは事情を知った今だから考える事ですが、総支
配人との事があったから、余計に仕事をきちんとされていたのか、と思います」
「大きなホテルで従業員数も多いかと思いますが、被告の悪口などを聞いた事がありますか?」
「菅原さんの業務は、コスモサービスという外注清掃会社のスタッフと関わる事が多く、そこ
は女性が多い職場です。それでも、菅原さんの悪口などは、私は聞いた事がありません。余計
な事には関わらず、人間関係も上手に出来ていた人だと思います」
「会社にとっては、必要な人材でしたか?」
「どうしても菅原さんが居ないと困る、という事はありませんが、菅原さんが携わっていてく
れるので、他のスタッフの仕事がスムーズに運ぶ、という部分はありました。そういう意味で
は必要な人材だと思っていました」
「先程、証人は、被害者は愛妻家で誠実な方だと証言されましたが、その様な人が何故、被告
と不倫関係になったと思いますか?」
「……よく分かりませんが、長い間、奥様とは別居生活でしたので、気持ちの中に淋しい、と
いう部分があったのだと思います」
「被害者に心の隙間があったという事ですね」
「異議あり! 今の弁護人の発言は誘導尋問です」
「異議を認めます」
「どうして、相手が被告だった。と思いますか?」
「私には分からない魅力があったのだと思います」
「被告は、被害者を誘惑する様なタイプの女性ですか?」
「菅原さんが、ホテルに在籍していた時はそういう女性だとは思っていませんでした。でも、
今はそう思います」
「被害者が、被告にホテルの仕事を斡旋したのはどうしてですか?」
「菅原さんのご主人が事故で亡くなった事は、スタッフにとって大きなショックでした。菅原
さんのご主人は、スタッフから慕われていましたし、送迎バスの運転手として、お客様の評判
も良く、ホテルのために尽くされていましたので、その菅原さんに応える、という意味もあっ
たと思います」
「被害者から被告に仕事の話をもちかけ、人件費を増やしてまでも採用する事を会社に頼み込
んだ。と、当時の人事担当者からの証言を得ていますが、その頃から、被害者の気持ちの中に、
被告に対する特別な気持ちがあったのではないですか?」
「異議あり! 弁護人の発言は憶測発言です」
「異議を却下します」
「私はその事は分かりません。もし、仮にあったとしても、会社は、そんな個人的な理由で採
用を認めないと思います。事実、菅原さんが入社してから、改善され、スタッフの仕事がやり
やすくなりました。総支配人は、個人的な気持ちより、亡くなった菅原さんの事や、業務的な
事を考えていたのだと思います」
「もう一つ伺います。被告は、被害者と関係があった事で、それを糧に一生懸命に会社に尽く
していた。その事はどう思いますか?」
「……」
「答えてください」
「そういう気持ちは分かります。でも、結果、総支配人をあんな目に合わせて……何をもって
一生懸命に尽くすと言うのですか? しかも、奥様までをもあんな目に遭わせて……そんな尽
くし方は間違っている。そうじゃないのですか?」
吉野は震えていた。
「証人は聞かれた事だけを答えてください」
裁判長が吉野を制した。
「ありがとうございます。以上です。」
弁護人が尋問を終えた。
3
次に証人席に立ったのは、梓の住んでいた団地の隣家の主婦の片岡ふみ子だった。
証人席に立った片岡ふみ子は、最初に梓に目を向けた。
梓は下を向き、手を握り締めて震えていた。梓を見る片岡ふみ子の目から涙が溢れた。
「被告人とは、お隣同士でどんなお付き合いをされていましたか?」
細野検事が質問に入った。
「家に入り浸るとかそういう事はありませんでしたし、それ程、深いお付き合いではありませ
んでしたが、適度に距離を置いてとても楽でした。お互いによそ者同士だった事もあり、そん
な連帯感のような気持ちもありました。いつ会っても気持ちよく挨拶をしてくれました。例え
ば私が風邪を引いたりして干し物が出来なかったりすると、ベランダの様子で分かってくれる
のでしょうが、具合が悪いのか? と様子を見に来てくれたりするような事もありました」
「良いお付き合いをされていたのに、それが、どうして急に引越しをする事になったのか、と
思いますか?」
「いつまでも一人で山梨にいて多分淋しかったのだろう、だから、福島の田舎にでも帰ったの
だろうと、最初はそう思いました」
「最初は、と言うのはどういう事ですか?」
「菅原さんから電話をもらう前まではずっとそう思っていました」
「被告から電話があったのはいつですか?」
「川村さんが訪ねてみえた翌日です」
「その時の、被告の様子はどうでしたか?」
「転居先も告げずに引っ越しをした事を謝っていました。それと、私と離れて淋しいとも言っ
ていました」
「被害者の川村さんが訪ねて来た時の事を詳しく話してください。」
「仕事を終えて帰って来たら、菅原さんのドアの前に立っていたので、引越しした事を伝えま
した。とても驚いた様子で、どんなご用ですか? と尋ねたら、名刺をくれて、菅原さんは結
婚して子供が生まれるので、そのお祝いの手続きに来た。とそう言いました。そんな菅原さん
の個人的な事情を、会社の人が簡単に私に話をする事に驚きました。でも、一生懸命な様子で、
だから少し可哀相になったので家に入ってもらいました。私も言ってはいけない、と思ったの
ですが、誰にも言わないから自分を信用してください。そう言うので、つい、菅原さんが子供
を生めない身体だという事を話してしまいました。以前ご主人が亡くなった時に、そういう話
を本人から聞いた事がありました。そして、川村さんから声が出ない事も聞きました。だから、
有り得ません、と本当の事を言いました。だって、私とはベランダ越しに会話していましたし、
鼻歌を歌う声も聞いていましたから」
「被害者はどうされましたか?」
「本当に驚いていました。少し変だと思ったのですが、肩書きもちゃんとしていて、信用出来
そうな人なので気の毒に思いました。それでも、私が言う事は間違いないと何度も言いました。
納得しないまま、会社に帰ってもう一度考えます。そう言ってお礼を言って帰って行きました。
帰った後、何かあるのか? と考えたのですが、隣に住んでいて、男の人が訪ねて来る気配を
感じた事もなかったし、だから、疑いは持ちませんでした」
「翌日の被告からの電話の最中に気がついた、と言うのは具体的にどういう事ですか?」
「川村さんの事を伝えたら、電話口の菅原さんの様子が急に変わりました。菅原さんは何でも
ないようにしていましたが、そういう事は分かります。私が菅原さんの事情を話した事を言っ
たら、驚いた様子で声が出ませんでした」
「どうして川村さんの事を、被告に話したのですか?」
「連絡先も告げず引っ越して、迷惑をかけていませんか? みたいな事を聞いてきたしし、川
村さんが訪ね来たのは昨夜の事だったので、覚えていたからです。電話をもらって、ちょうど
良かったと思いました」
「何かある、という事は電話での被告の様子で気がつかれたのですか?」
「さっきも言いましたが、菅原さんの驚き方が尋常ではなかったからです。少し責め口調にな
ったから、私も腹がたって、ちゃんとしない菅原さんが悪い、と文句を言いました。菅原さん
は自分が悪いと謝っていましたが、動揺していた様子がハッキリと伝わってきました。それで
分かったのです。川村さんが言った事は本当の事で、川村さんとただならない関係だと。この
電話も私を懐かしがって掛けて来たのではなく、様子を探りたかった、と思いました。タイミ
ングも良すぎましたし」
「分かりました。ありがとうございます。以上です」
細野検事は自席に戻った。
「被告とは適度な距離のお付き合いをされていた、という事でしたが、あなたは被告をどんな
人だと思っていますか?」
「……」
弁護人に問われ、梓をチラッと見たふみ子は声を詰まらせた。
「今は……こういう事を犯した菅原さんは間違っていると思いますよ。だから、いい人でした。
とは言えません……」
「引越しをする前までの被告人について、どういう人だったか、と思う事をお答えください」
「いい人だと思っていました。優しかったし、私に良くしてくれた事は確かですし、私は菅原
さんが好きです」
「こういう犯罪を犯す様な人に思えましたか?」
「全く思っていませんでした。ご主人の供養も欠かさず、けなげに生きていると思っていまし
た」
「どうして、不倫などしたのだと思いますか?」
「私も、早くに主人を亡くしたから、何となく気持ちは分かります。私の場合は、こんなだし、
そういう機会も無かったけれど。誰かに頼りたいという気持ちは良く分かります」
「被告の部屋を訪れる被害者を目撃などした事はありましたか?」
「あんなに長い間出入りしていたのに、一度もありません」
「その間、被告の様子が変わった事はありますか?」
「特に変わった様子は見られませんでした」
「被告に何か言いたい事はありますか?」
「ちゃんと罪を償って欲しいと思います。それで、前に刑事さんにもお話しましたが、刑務所
から出て来て行く所がなかったら、私の所に戻って来てもいいんですよ。私は一人だから、ま
た菅原さんと仲良くしたい……そう思っています」
ふみ子はハンカチで目頭を押さえた。
梓は肩を震わせて泣いていた。
「ありがとうございます。以上です」
弁護人は自席に戻った。
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「最後になりますが、検察側の証人として、被害者の友人である村上健司さんの証人申請をい
たします」
細野検事が立ち上がった。
付添人と共に法廷に足を踏み入れた村上は、真っ先に被告人席にいる菅原梓に目を向けた。
じっと下を向いている梓の表情は読み取れないが「この女か!」村上は梓を睨みつけた。
「川村は自身も不貞を犯したが、真理には罪はない。真理は心臓に病がある事を知らず、あん
なにも呆気なく逝ってしまった。川村が生きていれば、真理の身体の異変に気がつき、適正な
治療を受けていられたかもしれない。この女は川村だけではなく、真理も殺した」
そう思うと、初めて見る梓に怒りが込み上げて来たが、拳を握り締めて怒りを抑えた。
「被害者の川村雄一郎さんとのご関係をお話ください」
細野検事の村上への質問が始まった。
「横浜ロイヤルガーデンホテルの同期入社組です。川村はフロント、私は営業と部署は違いま
したが、入社した時から何故か気が合い、親しい付き合いをしていました。20年来の親友で
す。川村が結婚後は奥さんである真理が私の部下になり、家族ぐるみで付き合いもしています。
川村が八ヶ岳ガーデンリゾートに単身赴任後も、友人関係は続いていましたので、二人の事は
ずっと見てきました」
「20年来の親友という事ですが、被害者はあなたに、被告人との関係を話していましたか?」
「全く話をしていませんでした。」
「個人的な事をお話するような方ではなかったのですか?」
「そうでもありません。でも、言えなかったのだと思います」
「では、どういう事で関係を知ったのですか?」
「3月の半ば過ぎだったと思います。川村から電話がありました。会って直接話をしたいが、
仕事の都合もあり出向く事は出来ないから、電話で申し訳ないと言っていました。自分には一
年半程前から付き合っている女性がいる。その女性と再婚を考えているので、だから、真理と
は別れる事にし、既に別れ話をしている。そう切り出されました。突然の話で驚いて、言って
いる意味が分からず、何を言っているのか? というような事を聞いた記憶があります。子供
が生まれる、という話はありませんでした。その時川村は、私の言いたい事や聞きたい事は分
かっているが、何も聞かないでくれ。そう言いました。真理はまだ納得していないが、二人の
間できちんと話がついたら、詳しい事を正直に話すからそれまでは勘弁して欲しい、とも言わ
れました。相手の事は勿論話をしませんでした。話の内容はそれだけで、最後に真理も辛いだ
ろうから、相談相手になってやって欲しい。と言われたので、私は地獄に堕ちろ。と言って電
話を切りました」
村上は込み上げてきたものを飲み込んだ。
「その後、被害者から連絡はありましたか?」
「真理と話が付いていなかったのでしょう、川村からは連絡はありませんでした」
「奥様の真理さんからご相談などはされましたか?」
「真理からは何も言って来ませんでしたが、私が川村から話を聞いた後、問いただしました。
自分から、川村の不名誉な事を喋るのは嫌だったのだと思います。真理はそういう女性です」
そう言って、また梓を睨みつけた。
「それから、川村さんとはどうだったのですか?」
「川村とは全く会っていませんし、連絡も取っていませんでした」
「真理さんとはどうでしたか?」
「真理とは何度か飲みに行ったりしましたが、そういう時でも仕事の話が主で、離婚関連の話
はしませんでした。川村の話題が出たのは、4月になって相手が真理の前に現れた時です。真
理もショックだったようで、呼び出されて一緒に飲みました」
「真理さんはどんなお話をされましたか?」
「相手が直接名乗り出たのではないが、真理は相手の言動や、YKというイニシャルが付いた
携帯電話をこれ見よがしに自分の前に置いた事などで、目の前の相手の正体と妊娠に気がつい
たと言っていました。辛かったようです。でも、その時、川村が可哀相だ、と言いました。い
つかは分かったとしても、その時点では、まだ妊娠の事を真理には伝えてはいない川村の気持
ちを考えた、のだと思います。川村が選んだ相手がその気持ちを踏みにじった
と、そう思っていたようです」
「奥様は被告の事をどう話しましたか?」
「嫉妬心は沸かないけれど『嫌な女』と思った、と言いました。川村が妊娠を告げないのは自
分への思いやりであり、その思いやりの気持ちを相手が踏みにじった。そうも言いました。た
だ……『嫌な女』という表現は、自分に向かう被告に対して感じた事ではなく、川村の気持ち
を考えて言った言葉だと私は解釈しました。その時は言いませんでしたが、川村の葬儀の後、
一度だけ被告の話を真理がした事があります」
「どうお話していましたか?」
「自分では分からない相手の真実に向かい合って全て突き止めたい。そう言っていました。相
手と面と向い合いたい。その相手とも、いつかはきっと分かり合える事があるかもしれない。
立場が違っても二人とも彼を愛した。その思いは一緒だから。そう言いました」
「被告を非難した事はありますか?」
「犯した罪は許せない、と言った事はあります。でも、真理は……人を憎むとか、人を非難す
るとか、そういう事は出来ない人間でした……」
真理を思う村上は、今にも崩れ落ちそうになった。
「話が前後しますが、どうして真理さんは、被告がホテルに現れた日に、村上さんを呼び出し
たのだと思いますか?」
「あの時、私を呼び出したのはショックを癒す事と、ホテルでの極度の緊張感に耐えられなか
ったからで、川村や相手の悪口を言うためではありませんでした」
「被告がホテルに現れた事を被害者にはお話しましたか?」
「私はしていません。ただ、真理には、辛いのだったらその気持ちを川村にぶつけろ、相手の
女性がホテルに来た。と言ってやれ、と言いました」
「真理さんは、その事を被害者にお話しましたか?」
「話はしていません。私は、自分の気持ちをぶつけない真理にイライラしたので、その場で川
村の携帯に電話をして、話をさせるようにしましたが、二人は、忙しいの? とかそんな会話
しかしませんでした」
「では、最後に被害者とお話をしたのはいつですか?」
「最後に会って話をしたのは、6月30日です。ですが、その前に一度電話で話をしています。
相手の偽装妊娠を知った日の深夜です。あの日の夜、真理から電話がありました。川村が真理
に電話を掛けてきたが、泣いている様子なのに本人は何も話をしないまま電話を切った。心配
なので電話をしてくれないか? そう言って来たのですぐに携帯に電話をかけました。確かに
様子が変でしたが、仕事でミスった、と言い訳をしていました。ウソだと分かったので、話を
させるように導きましたが、気持ちの整理がつかないから待ってくれと言われました。それか
ら10日後位に川村から電話があり、話をしたいと言ってきて、お互いの公休日が重なった3
0日に私が山梨に出向き、八ヶ岳ガーデンリゾートに用意してくれた部屋で話を聞きました」
「被害者は奥様に話をする前に、どうして証人に話をしたのだと思いますか?」
「真理より先に話を聞く事には、私も躊躇しました。川村はその理由については何も言いませ
んでしたが、多分、相当苦しくて辛かったのだと思います。まず私に話をして、私の考えを聞
いて楽になって、真理と話をしたかったのだろうと思います」
「そこで、被害者はどういうお話をされましたか?」
「出会ったきっかけ、いつからそういう関係になったか、相手や真理への気持ち。生まれて来
ると楽しみにしていた子供への思い、知った現実、これから自分はどうしたら良いのか? 全
て話しました」
「具体的な内容を述べてください」
「川村は二人の事を本当に愛していましたが、二人に対する愛の種類が違うと言っていました。
二人の女性と一緒にいて、本当に幸せだったようです。いつまでもこの状態が続けば良いと思
っていたのですが、それでも心の何処かに、真理を裏切っているという気持ちはあったと言っ
ていました。別れなくてはいけないと葛藤していたようで、そんな時に妊娠を知り、悩んで悩
んだ挙句、真理と別れて、相手の女性と一緒に子供を育てる道を選択しました。以前、子供を
亡くしているので、子供に対する気持ちは人一倍強いものがありました。それが、突然の失踪
と偽装が分かり混乱しました。その辛く苦しい気持ちが、その日の真理への救いの電話だった
のです。その時は非常識で最低な男だと思いましたし、実際非難もしました。でも、私達にど
う思われようが、それ位あいつは、川村は苦しかったと言っていました。その辛い時期から散
々悩んで、考えて、真理とやり直す事を望みました。真理には詫びてやり直して欲しい、そう
言うつもりだと言っていました。それにはこのまま山梨で仕事は出来ないので、退職も視野に
入れて異動願いを出し、横浜に帰りたい。と言っていました。もし、真理が受け入れてくれな
かったら、受け入れてくれる日が来るまで待つ。それも叶わなかったら覚悟は出来ている。と
も言いました。川村は最後まで知る事が出来ませんでしたが、真理は川村を許すつもりでいま
した。二人ともお互いなしでは生きていけなかったのです」
「証人は被害者にどういうお話をされましたか?」
「とにかくショックだったので、気の効いた事は言えませんでした。私は、川村を信じている、
真理を幸せにしてやってくれ。とだけ言いました」
「被告の事は何か話をしましたか?」
「名前や年齢など、細かい話はしませんでした」
「それはどうしてだと思いますか?」
「多分……あんな酷い目にあっても、相手の事が好きだったからだと思いました。私が相手を
責める言い方をした時に、言わないでくれ! と止められました。自分も悪いのだから、彼女
の事は悪く言うなと。川村は相手の事を憎んでいる、とか恨んでいるとか、悪口は一切言いま
せんでした。ただ、彼女の気持ちが悲しい。とだけ言いました。その時の川村の顔は、今まで
見た中で一番悲しそうでした。バカな奴です……相手の事も好きだったのでしょう。本当にあ
いつは……でも、そういう川村を私は信じます」
ついに……村上は堪えきれず男泣きを始めた。真理が亡くなった昨日から、ずっと堪えてい
た涙が一気に溢れ出た。
傍聴席のあちこちですすり泣きがまた大きくなった。
梓は何かに耐えるようにずっと下を向いていたが、肩が震えていた。
「ありがとうございました。以上です」