第十四章
1
真理は、横浜ロイヤルガーデンホテル・ゲストサービス部支配人として、また多忙な一日を送
る生活に戻っていた。
出勤初日は、真理の気持ちを思い計って、少し腫れ物に触るように接していたスタッフも、真
理の勤務態度を見て、今までと変わらない態度で接していた。
7月15日金曜日、勤務中の真理の元に、山梨県警捜査一課の倉田警部補が訪れた。
電話で済ませる事も出来たが、倉田は直接会って伝えたい、という思いもあり一人で横浜まで
出向いてきた。
「お仕事中に突然お邪魔して申し訳ありません」
倉田は穏やかな笑顔を浮かべて頭を下げ、ホテル最上階にあるプレミアム・クラブのラウンジ
の座り心地の良いソファーに腰をかけた。
「しかし、素晴らしいお部屋ですね。こんな椅子に座るのも初めてだ」
部屋の内部を見回して、倉田は感嘆の声をあげた。
「ありがとうございます。お客様にも居心地が良い、と喜んで頂いています。ご挨拶が遅くなり
ましたが、その節はいろいろお世話になりありがとうございました」
真理の顔がすっかり「ゲストサービス部支配人の顔」になっているのを見て、倉田は少しホッ
とした。
「お元気になられたご様子で、安心しました」
「仕事があって有り難い。という事を実感しています。私がこうして元気で仕事をする事が、主
人の供養にもなるかと思っています。出勤してまだ5日ですが、いろいろ考える事が出て来て、
家に帰って主人に話をするのが楽しみになっています」
「それは良かった。ご主人もきっと喜ばれているでしょう。今日は、もう一つご主人が喜ばれる
事のご報告があります」
「菅原梓が殺人罪で起訴されました」
穏やかな倉田にふさわしくない言葉を聞いて、真理は身構えた。
倉田から雄一郎の気持ちを聞いた後、気を失った梓は、その日、出された食事も手に付ける事
が出来なかった。「申し訳ありませんでした」そう言って、全てを話だしたのは、翌日の午後に
なってからだった。
「月曜日の夕方から、菅原梓は本当の事を話し始めました。実は……」
倉田は躊躇したため、一旦言葉を切った。しかし、伝える必要がある、と考えた。
「逮捕当時から、菅原梓には心神喪失の可能性がありました。事故を起こす前に、精神科への通
院履歴もありましたし、それを裏付ける証言も得ていました。実際、担当検事は簡易精神鑑定の
必要有り、との結論を出すつもりでいました。ただ、正直申し上げますと、私達担当捜査官は心
神喪失も偽装と疑っていました。ですが、取調べで、本人も心神喪失を思わせる態度を取ってい
ましたし、何より通院履歴は有力な証拠です。簡易精神鑑定を受けた後、不起訴になる可能性は
大でした。そうなると刑法39条の心神喪失者の行為は罰しない。が適用される事になり、精神
病院に送られた後、釈放される事になったでしょう」
突然、真理が手で顔を覆ったため、倉田はここでまた、話を止めた。
「そんな事……」
真理が苦しそうな声を発した。
「そうだったのです。先程も申し上げましたが、私達は疑いを持っていましたので、それだけは
避けたい、そう思って取調べを行なっておりました」
「でも、それがどうして?」
「ご主人が力を貸してくださいました。ご主人だけではありません。奥さんのお気持ちや、村上
さん、県営団地の隣人、そういう方達の気持ちが、菅原梓の心を動かしました。具体的な内容は
申し上げられませんが、ただ一つだけ申し上げますと、あなたのお父様がご主人に宛てた手紙を
使わせて頂きました。そうして、菅原梓は全てを話しました。交通事故を装ってご主人を亡きも
のにする事。それには自分も巻き込まれる事を覚悟していましたが、万が一巻き込まれなかった
時、心神喪失を装うつもりだったと。そのために精神科に通院した事も」
「心神喪失なんて、簡単に装えるものなのですか? それに、巻き込まれなかったら、という事
は、主人と心中するつもりだった……という事ですか?」
「最近は、誰でもいいから殺したかった。そんな動機で殺人が行なわれています。ストレスが溜
まる事が多い今の時代、心神喪失で罪を逃れるような事が増えてきてもいます。ですが、そんな
動機で起こす犯罪に対して、刑法39条を乱発する事はとんでもない事ですし、そんなに簡単な
事ではありません。人の命を奪うという行為は卑劣でとても重いものです。また、奥さんが仰る
ような『心中』という言葉が当てはまるとは思いません。車が絡んでの事ですから、それなりの
覚悟をしていたという事です」
「でも、私には心中するつもりだった。としか思えません。だとしたら……」
真理は声を詰まらせたが、職業意識が働いたのか、ラウンジの中を見回した。ラウンジには自
分達の他には誰もいない、という事を確認した真理が口を開いた。
「だとしたら、私は許せません。そして、彼女が生き残って本当に良かったと思います。主人と
一緒に逝っては欲しくなかった」
「菅原梓は心中という事は考えていませんでした。ただ、賭けたと言っていました。巻き込まれ
たら愛されている。巻き込まれなかったら愛されていない。結果、愛されていない事が証明され
た。と言っていました。ご主人が本当に愛していたのは奥さんだった。そして、永遠にご主人の
心の中から奥さんの思いが消える事はない。その事に気がついたので、突然姿を消した。そう証
言しています。ご主人や奥さんの真の気持ちを感じて、菅原梓は自分を取り戻した、と私は思っ
ています。起訴が決定しましたから、2ヶ月以内には裁判が開かれる事になるでしょう。裁判員
裁判にかけられる事になりますが、菅原梓は素直に自分の罪を全て認めて、このまま刑に服すと
言っていますので、一回での裁判後、早い時期に判決が下りると思います。公判の期日が決まり
ましたらご連絡をいたしますので、お気持ちがあれば傍聴も可能です」
「いろいろとご丁寧にありがとうございます。倉田さんをはじめ、山梨北署の皆さんには心から
お礼申し上げます」
真理が自宅に戻ったのは夜の9時を過ぎていた。
「ただいま、ごめんね、遅くなっちゃって。こんなに暑い部屋で喉が渇いたでしょう?」
最上階なので、ベランダの窓は開けて出かけるが、涼しい海風が入って来るとは言え、さすが
にこの時期、エアコンもかかっていない部屋は蒸し暑かった。
真理は窓を閉め、エアコンのスイッチを入れ、冷蔵庫から缶ビールを2つ取り出してプルタブ
を開け、一つを雄一郎に供えた。
「お疲れ様」
そう言って、グッと缶ビールを飲み干した。
「今日はね、嬉しい報告よ」
缶ビールを手に持ったまま、早速、雄一郎に倉田から聞いた報告を伝えた。
倉田の「ご主人が力を貸してくださいました」という言葉を思い出し、雄一郎への思いを込め
て夢中で伝え終わり、雄一郎の遺影をしみじみと眺めた時、突然、真理は心の中に「虚しさ」と
「淋しさ」を感じた。
あの事故から約2週間余り、仕事にも復帰したがまだ悲しみは消えない。葬儀の後、警察に出
向き、そして加害者である菅原梓の事を考えたりしながら夢中で過ごしてきた。菅原梓が自分の
罪を認め、刑に服す事を望んでいたが、今、それは叶った。
しかし、雄一郎は帰って来ない。その悲しみが新たに押し寄せてきた。
真理は雄一郎の骨壷を抱きしめた。
耳をすませたが「頑張ったな」と言う声は聞こえなかった。雄一郎は、何も言ってはくれなか
った。
「ねえ、迎えに来て。もう、疲れちゃった……」
真理はどっしりと思い骨壷を畳に下ろし、しっかりと抱きかかえて横たわった。
2
「公判の日程が8月25日に決まりました」と連絡があったのは、8月に入ってからだった。
偶然にも公判日は、雄一郎の納骨日の翌日であった。
真理は「傍聴させて頂きます」と倉田に伝え、場所と時間を確認していた。
村上の懸念通り、事件はマスコミにも取り上げられた。
関係者は口を噤んでいたが、何処で調べ上げたのか、悲劇のドラマ仕立ての報道や「エリートホ
テルマン夫婦の愛憎」などと書き立てる週刊誌もあった。真理は何も言わないが、村上は心を痛
めていた。
納骨が行なわれた8月24日は酷暑だった。
親しい身内だけで済ますという事で、叔父の矢沢夫婦と、村上健司夫婦、そして杉山の6人で納
骨式はささやかに執り行われた。
海と富士山が望める、横須賀市にある霊園の法事室で僧侶の読経が行なわれ、焼香が済み、法
話を聞いた後、納骨後の食事の手配確認を叔父夫婦に頼み、真理は杉山と一足先に、川村家の墓
所に向った。村上は仕事が忙しいのか、先程から何度も携帯に電話がかかってきていた。
海から吹く風は心地良かったが、霊園は坂になっていて、上の位置にある墓所に向う真理の息
切れが激しくなっていた。
川村家の墓石の前に立った時に、吐き気を催すような咳をした真理は、持参したペットボトル
のお茶を飲んで吐き気を抑えた。
二人は、水で墓石を綺麗に掃除して手を合わせた。
動悸が激しくなった真理は不安な気持ちになった。軽く当てた手にも激しい動悸が伝わってく
る。雄一郎の前で辛い顔は出来ない、と思い笑顔を作ろうとしたが、笑顔にはならなかった。
「淋しくなって誰かに拠りかかりたくなったら、俺を呼んでよ」
長い間、手を合わせていた杉山は笑顔で真理を見た。
「ありがとう」
そう言って杉山と向かい合った時、真理は今まで感じた事がないような、心臓をかきむしられ
るような激しい痛みを感じた。
夏用の薄地の喪服の上からも、心臓が激しく動いているのが分かった。
「助けて……」と杉山にすがりたいが、声が出なかった。杉山が心配そうな表情をしているのは
分かるが、自分が自分でないような気がして……地面に足が着いていないような気がして……苦
しかった。
真理の額から脂汗がドッと噴出した。
「ずっと、淋しい思いをさせて悪かったな」
雄一郎の声が聞こえた。
「そうよ。一人ぼっちで淋しかったの……」
「それに……」
「もう、いいのよ。あなたの気持ちは分かってる。でも、あなただって淋しかったんでしょう?
ごめんね」
「よく頑張ったな。でも、もう充分だよ」
「充分って……?」
「真理の気持ちは分かった。それに俺は淋しくない」
「私を一人にしない?」
「しないよ。約束する」
「迎えに来てくれたの?」
「うん、こっちにおいで……」
雄一郎が笑顔で、手を差し伸べていた。
フワッと浮かび上がったような気分になって、気持ちが良かった。激しい痛みも消え、苦しか
った胸が、急に楽になった。
真理も笑顔になり「ありがとう」と言って、雄一郎の胸に飛び込んで行った……
「あいつら、全く何なんだよ! 川村の前で何やっているんだよ!」
村上が怒ったように吠えて足を止めた。
雄一郎の墓の前で、真理が杉山の胸に顔をうずめて甘えている……ように二人には見えた。
「川村さんが杉山さんに『真理を頼む』って言ったのよ、きっと。だから、真理ちゃんは安心し
て杉山さんに甘えているのじゃないの? でも、パパは、また失恋しちゃったみたいね」
弓恵は村上の顔を覗き込んで、可笑しそうに笑った。
「お前、何言っているんだ? 女房が亭主に言う言葉かよ!」
憮然とした表情で、村上は弓恵を睨みつけた。
「でも、私はそんなパパが大好きよ」
弓恵は村上の腕にしがみついた。
弓恵にしがみつかれた勢いで、村上が手に持っていた桶から水がこぼれた。
「お前はバカか?」
そう言いながら村上は、弓恵の腕をほどいて肩を抱き「俺もお前が一番好きだよ」そう囁こう
とした時……「真理!」と叫ぶ杉山の声が聞こえ、杉山が真理を抱えながら倒れ込んだ。
異様な二人の様子に、村上と弓恵が顔を見合わせた。
……真理は知らなかった……左房粘液腫という病に冒されている事を……
突然、心臓内の血栓が剥がれ落ち、脳血管を閉塞して生ずる脳動脈塞栓を起こした。
……真理は「ありがとう」の言葉を残して、笑顔で雄一郎の元に旅立って行った……