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第十三章

  「菅原さん、今日はあなたに見せたいものがあります。これを読んでください」

   倉田は、佐々木真司が川村雄一郎に宛てた手紙を机の上に置いた。

 

   昨夜、倉田は笹岡元警部から手紙にまつわる詳しい話を聞いていた。そして、その笹岡からも

  「手紙を被疑者に見せた方がよい」とのアドバイスを受けていた。

 

   今日で勾留も9日目に入る。

  「情」で一気に梓の気持ちに迫るという手法で取調べにあたる予定でいた。

 

   何かを警戒しているのか、梓はなかなか手を出さなかった。

  倉田は手紙を広げて「読んでください」と手でずらした。


  「川村雄一郎様」という文字が目に入っている筈だが、それでも、まだ梓は表情一つ変えず、手

  紙を読もうとはしなかった。

   倉田は何も言わず、手紙を少し梓の方にずらした。それで観念したのか、梓は少し身を乗り出

  したが、手には取らず手紙を読み始めた。

 

   倉田と、聴取に同席している柳田と、調書を作成している深沢の三人はじっと梓の様子を観察

  していた。


   取調室が重い空気に包まれた。

 

   しばらくして、読み終えた梓が「堪らない」というような表情をして顔を背けた。


  「素敵な手紙ですよね」

   倉田の言葉に、梓はうつろな表情をして倉田を見上げた。


  「この手紙は15年前に、ベーブルースという人から川村雄一郎さんに宛てた手紙です。

  手紙に出てくる娘とは、川村真理さんの事です」


   梓の表情が強張った。


  「川村真理さんは父親を知らずに育ちましたが、ある時父親の素性を知り、父親探しを始めまし

  た。父親探しは大変だったそうですよ。そして探している最中に、川村雄一郎さんに、その姿を

  見られてしまったのです。真理さんは父親と会っていたのですが、父親であるベーブルースは名

  乗り出る事が出来なかった。それで、真理さんの事を心配してくれている川村さんに、目で自分

  の気持ちを訴えたのですね。川村さんもベーブルースの気持ちを読み取る事が出来た。その事が

  きっかけにもなり、お二人は結婚されたのです」


   倉田は一息いれ、梓の様子を探った。強張った表情は変わらなかった。


  「実は、このベーブルースという真理さんの父親は、15年前に暴漢に襲われて亡くなりました。

  この手紙はご遺族が受取らなかったため、警察に保管されていた物ですが、当時の担当者が今回

  の交通事故のニュースを聞き、もしやと思いこちらに出向いた事で、川村さんの元に15年ぶり

  にお届けする事が出来ました」


  「私には関係ない事です!」

   それまでじっと話を聞いていた梓が急に声を荒げた。


  「そうですか? 関係なくはないでしょう。あなたが引き起こした事故がきっかけになったので

  すよ」


  「だから何なのですか!」

   梓はそう言って、怒ったような表情でそっぽを向いた。


  「菅原さん、あなたは幸せな方ですね」

   梓の表情が一瞬輝いたが、すぐに元の怒ったような表情に戻った。


  「この手紙を読むと、川村雄一郎さんがどんなに優しく男らしい方だったかが、手に取るように

  分かります。あなたは、そんなりっぱな方に愛されていたのですね」


  「この手紙と私は何の関係もありません」


  「そして、あなたもそういうりっぱな方を愛した」

   倉田は梓の言葉を無視した。


  「川村さんは部下思いの優しい方だった。八ヶ岳のホテルの方のお話でも、その事は充分に分か

  ります」


   倉田はじっと梓を見つめていた。少し変化している……先週までは川村雄一郎の話をすると、

  ウットリとした表情になっていたが、目の前の梓にはその表情は見られない。


  「川村さんの奥さんは今日からお仕事に出られるそうです。川村さんはお仕事に厳しい方だった

  ので、いつまでもメソメソしていると叱られる。そう話していました」


   やはり、昨夜、倉田は真理からも電話をもらっていた。


  「少しずつですが、お元気になられているようですよ」


  「関係ありません!」

   真理の名前を出されて、梓は益々不機嫌そうな顔をした。


  「そうそう、先日、片岡さんにお会いした時、あなたの事を心配していると伝えましたが、伝言

  を頼まれていました。片岡さんは菅原さんが好きだから、きちんと罪を償って出て来られて行く

  場所がなかったら、自分の傍に戻って来て欲しい。そう仰っていました。片岡さんも県外出身で、

  同じよそ者同士、また仲良くしましょう。そうも仰っていましたよ」

  

   片岡ふみ子の名前を聞いた梓の表情が少し和らいだ。


  「幕張の雑貨屋のオーナーの都築さんを覚えていますか?」


   倉田は今まで伝えなかった事を小出しに話し始めた。


  「たった3日間の勤務だったそうですが、都築さんはあなたの勤務態度が良くなかった、とご立

  腹していました」


   その事を言われて、梓が少しホッとしたような顔つきに変わった。


  「でも、面接時のあなたと随分違っていたのは、その間に何かがあったのだろう、と仰っていま

  した」


  「だって、彼に憎まれているという事が分かったから……」

   梓がうつむきながらポツリと言った。


   しかし、倉田はその言葉をまた無視した。


  「採用が決まった時に連絡しているのに、あなたからの返事が遅くて気になりましたが、何人か

  の応募者の中で、あなたが一番気に入ったのであなたに決めたそうです。あなたが辞めた後、6

  月30日に都築さんが未払いの給料を届けに行った時に、玄関前を綺麗に掃除しているあなたを

  見たそうですが、都築さんはその時のあなたが本当の姿だ。と思ったと仰っていました。何かが

  あったのだろうが、そうではなくて、自分の店とあなたとの相性が悪いのが原因だったら、申し

  訳なかった。とそうも仰っていましたよ」


  「相性なんて悪くなかった……精神的に辛い事があったからです」


  「リゾートイン小淵沢で伺った話ですが、ご利用された部屋はきちんと片付けられていた。クレ

  ームを付ける位に嫌な思いをさせたのに、あなたの『たしなみ』を褒めていました。もう一つ、

  ここにいる深沢も関心しているのですが、あなたは取調べが終わると、いつもきちんと椅子を納

  めて部屋を出るそうですね。なかなかそこまで気を配るという事は出来ません。そういう細かい

  心配りが出来るあなたを、川村さんは愛したでしょうね」

   

   一瞬、梓がハッとしたような気配を見せ、その身体が揺れた。


  「この辺で少し休憩しましょう。深沢君、自慢のコーヒーを煎れてくれないかな?」


   倉田の要望に「かしこまりました」そう言って深沢は部屋を出て行った。


  「トイレは大丈夫ですか?」と訊く倉田に、梓は「大丈夫です」と小さな声で答えた。


   倉田は、柳田に目配せをして二人は廊下に出た。


  「崩れるぞ。最後の決め球は、ガイシャの親友から聞いた話だ」

   自信満々の様子で言って、倉田は取調室に戻った。


   じっと何かに耐えるようにうつむいている梓の様子は、確かに変化していた。


  「お待たせしました」

   コーヒーの良い香りと一緒に、深沢が取調室に入って来た。


  「私は部類のコーヒー好きで、そんな私にこの深沢は、自前で美味いコーヒーを煎れてくれるの

  ですよ。無味乾燥に思える警察署ですが、ちょっとした心配りで、それが温かい場所に変わる。

  お砂糖とミルクは入れますか?」

   梓の前にコーヒーカップを差し出しながら倉田が尋ねた。


   梓は首を横に降った。


  「美味い!」

   

  「遠慮しないで飲んでください。美味しいコーヒーは心を豊かにしますよ。これは私がいつも言

  う事ですが」

   倉田は笑顔を梓に向けた。


   取り調べ室の小さな窓から大陽の光がコーヒーカップに注がれていた。


  「美味しい……」

   遠慮がちにコーヒーを飲んだ梓はそう言って、小さくため息をついた。



   北杜市の団地の居間で、毎朝、出勤する幸一のためにコーヒーを煎れた情景を思い出した。

  リビングに漂うコーヒーの香りに誘われて、幸一は起き出してきた。



   倉田は梓のため息を見逃さなかった。


  「川村さんはコーヒーがお好きでしたか?」


  「彼は、お酒が好きでした。来ると真っ先に『ビール』そう言いました」


  「八ヶ岳ガーデンリゾートの相馬さんでしたか、あなたの上司だった。相馬さんもそんな事を言

  っていましたね。川村さんはお酒が好きでよく飲みに行ったと」


  「お酒が強かったのです」

   梓の目が遠くを見る目つきになった。


  「川村さんはお酒も強くて、仕事も出来た。しかも優しくて男らしい。そんな川村さんに愛され

  て、あなたは本当に幸せでしたね」

   倉田はさっきと同じ言葉を繰り返した。


   梓は少し笑みを浮かべてうつむいている。


  「幸せでした」

   

   突然、梓が顔をあげた。


  「綺麗だ」

   倉田は梓の顔を見てそう思った。


   川村真理のハッとする程の透き通るような美しさとは違う、地味な美しさとでも言うのか、じ

  っと見つめられると引き込まれてしまいそうだった。しかし、二人とも何かに耐えているような

  強さがある。それは同じだ。その「強さ」がまた「美しさ」になって表れている。


  「川村雄一郎という人は、内面に秘めた強さを持っている女性が好みだったのだろう」

   倉田はそんな事を思った。


   じっと自分を見つめる梓には、以前感じた「嫌悪感」を抱かなかった。


  「いよいよだ」

   倉田は気を引き締めた。


  「でも、その幸せをあなたは自らの手で排除したのですよ。どうしてなのでしょうね」


  「天の声が……」

   やはり、梓の声は小さかった。


  「先程、川村さんの奥さんは、今日から仕事に復帰すると言いましたが、あの奥さんも素敵な方

  です。菅原さんの行為は許せないが、菅原さんの事は憎んではいない。そう仰っています。二人

  で同じ人を愛したのだから、いつか菅原さんの本当の気持ちを聞きたいと仰ってもいました」


   また梓は下を向いたが、コーヒーは一口飲んだだけで、手をつけていなかった。


  「これからお話する事は、お友達に伝えた川村さんの真実です」

   倉田は自分のコーヒーを一気に飲み干した。


   同席している柳田と深沢も息を殺して、倉田の話に耳を傾けていた。


  「川村さんの事情を知っているあなたは違ったでしょうが、奥さんの真理さんは、川村さんの不

  倫には全く気がついていなかった。どうしてだか分かりますか? ある部分、男気があったので

  しょうね。川村さんはあなたと奥さんの二人を本当に愛していました。でも、二人に対する愛の

  種類は違っていた。だから、本当に幸せだった。二人とも失いたくないから、二人にはお互いの

  事を話さず、それぞれと過ごす時間を大切にしていた……そうだったのですよ。そして、ずっと

  このままで居たかった。それでも、倫理に反している事をしていると、自分を責めて、何度かあ

  なたと別れようか、そう思った事もあるそうです。でも、出来なかった。あなたへの気持ちも本

  物だったのでしょうね。そんな時、あなたから子供が出来たと聞かされた。ショックだったそう

  ですが、あなたとの間に出来た子供を、自分の手で葬り去る事は出来ない。いろいろな方法があ

  ったでしょうが、悩んだ末に、川村さんはあなたと歩む道を選んだ。どんなに非難されようが、

  生まれて来る子供を自分の手でりっぱに育て上げたい、と決意しました。以前、お子さんを二人

  亡くしているから、新しく生まれてくる子供は、その亡くした子供の兄弟でもありますから。川

  村さんは一人っ子で、ご両親を早くに亡くされているので、家族に対する強い思いがあったのだ

  と思います。そして、当然の事ながら、生まれて来る子供の事をとても楽しみにしていたのです。

  それが、突然にあなたには姿を消され、そして、妊娠がウソだと知った。川村さんは死ぬ程苦し

  かったそうです。でも、現実を見つめて、自身を反省し、そして、新たに歩む道を見つけ出して

  いた。奥さんに全てを話して、許しを請うてやり直したいと。そう伝えるつもりでしたが、それ

  は永遠に叶いませんでした。ですが、奥さんに話をする前に、親友の方に全てを話していました」


   梓はうつむいたまま、身動きもせず倉田の話を聞いていた。


  「いきなり絶望の淵に突き落とされた川村さんの気持ちがどれ程辛かったか? あなたは考えた

  事がありますか? 事実を知った日、慎重で冷静だった川村さんはかなり取り乱して、そして、

  どうしようもなくなって、奥さんに救いを求めました。一方的に離婚を突きつけた奥さんに救い

  を求める、決して男のする事ではありません……と私は思いますが、それだけ気が動転して、自

  分を見失っていたのでしょう。救いを求められた奥さんは、心配になって深夜に車を飛ばして、

  横浜から山梨まで川村さんの様子を見に行きました。しかし、川村さんは奥さんには何も話をし

  ませんでした。気持ちが整理出来たら話をすると言われて、奥さんは横浜に帰りました。いいで

  すか? 川村さんは奥さんには、子供の事もあなたの事も一切話をしていませんでした。全てが

  大事だったからですよ。私は何となく、そんな川村さんの気持ちが分かる気がします。奥さんが

  子供の事を知ったのは、あなたが横浜のホテルに現れたからです。いつか分かる事だとしても、

  あなたの妊娠を話さなかったのは、せめてもの誠意だった、と奥さんはお話していました。だか

  ら、奥さんは、川村さんを許そう、という気持ちになっていました。私はその事を聞いて切なく

  なりました」


   倉田は少し自分が感情的になっているのを感じ、椅子から立ち上がって、自分でコーヒーポッ

  トからコーヒーを注いだ。


  「あなたは、横浜のホテルに行った事を川村さんに責められたから姿を消した。そうお話されて

  いましたが、あなたの川村さんへの気持ちはそんなに軽いものだったのですか? 菅原さん、川

  村さんはきっと悲しく思っていると思いますよ」

   

   ゆっくりコーヒーを飲みながら、梓の様子を観察した。


  「最後にお話する川村さんの真実です……お話を聞いたお友達が、川村さんの前であなたの事を

  責めた時、川村さんは悲しい顔をされて、お友達を制したそうです。『彼女の事を悪く言わない

  でくれ』と。川村さんは、お友達にあなたの事を憎いとか恨んでいる、とかそんな事や、悪口は

  一切言いませんでした。ただ『あなたの気持ちが悲しい』と、それだけ言ったそうです」


   その瞬間、梓の身体がガクッと揺れて椅子から崩れ落ちた。梓は気を失っていた。




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