第十二章
「どうしてる?」
杉山直樹から電話をもらったのは土曜日の夕方だった。
「いい加減に仕事に行きなさい。って叱られそうなの」
「当たり前だよ!チーフはそう言っているさ。明日、俺は公休なんだけど、これからチーフに会
いに行っていいかな?」
杉山が訊いた。
「大歓迎よ。何時頃来れる?」
「もう出れるから、7時過ぎには行けるよ」
「了解! 何が食べたい?」
「真理が食べたい!」
気分で発してしまったが、このジョークは刺激が強すぎるか? と杉山はちょっと後悔した。
「生がいい? それともボイルする?」
「賞味期限が切れそうだから、ボイルして欲しいな」
杉山は笑って言った。
「OK! 脂がのってないから、ソースで誤魔化さないとね。それと、胃腸薬用意して来てね」
真理も言葉のキャッチボールを楽しんだ。
「まったく!」
電話を切って真理は笑いながらひとり言を言った。
育った環境がそうさせたのか、小さい時から一人遊びが好きだった真理は友達が少なかった。
遊ぶ相手は、母が経営していたパブの若い男性従業員だったり、母が仕事に出かけた後、面倒を
見てくれる、真理が住む団地の年配の夫婦だった。
中学からミッション系の女学院に通っていたが、いつも冷めた雰囲気で、自分の事を余り話さ
ない真理には「親友」と呼べるような同級生も出来なかった。その事を「淋しい」と思った事は
なかったが、同じ年頃の女の子に好かれない自分には、何か足りないものがある。とは感じてい
た。いつかそれを見つける事が出来るかもしれない。と期待していたが、結局その答えは見出せ
ないまま、40歳を迎える年齢まで来てしまっていた。
そんな中で、同期の杉山には幼馴染みの様な感情を抱き、数少ない「心から許しあえる友」だ
った。
「杉山君が遊びに来るのよ」
雄一郎の遺影に話しかけながら、真理は杉山を迎える支度を始めた。
杉山は「真理が壊れてしまったのではないか?」と心配だった。しかし、その真理が、自分の
言葉遊びに反応してくれた事は嬉しかった。
到着した杉山を待っていたのは、ダイニングテーブルの上の美味しそうなイタリア料理だった。
「やるじゃない!」驚く杉山に「ふん!」と真理は得意そうなポーズを取り「これもあるのよ!」
とバローロワインを自慢げに見せた。
「オーッ! バローロか!」
杉山は目を細めたが「ハイ、お土産」とモエ・エ・シャンドンを差し出した。
「凄い! モエ! ちょっと負けたかな? ねっ!」
真理はモエのボトルを受取って、雄一郎に見せた。
「会社の沢野井さんから帰国のプレゼントだったんだよ。チーフと三人で飲もうと思ったのだけ
ど……」淋しげな杉山に「大丈夫よ。私が二人分飲んであげるから」真理が笑って答えた。
「酒の事になると元気になるな。」
杉山は声をあげて笑ったが、明るくなった真理にホッとしていた。
「ずっとさ、真理に聞きたかった事があるんだよ」
真鯛のカルパッチョの皿が綺麗に片付けられた頃、杉山が突然そんな事を言い出した。
「どんな事?」
真理は身を乗り出した。
「俺がさ、逃げていたあの一件」
「あの時の高校生の事?」
「もう時効だからいいよな。あの娘が俺にお礼を言いたかった。って確かにそう言っただろう?
お礼を言われる筋合いなんてなかったのに、何故だろう? ずっとそう思っていたんだよ」
「逃げちゃって、ずるかったね」
「卑怯だったよな」
「そうね、卑怯だった」
あの頃……真理と雄一郎の結婚式が近づいて来て、杉山は冷静でいられない状態になった。
「本当に愛するという事は、愛する人が幸せになる事を喜べる気持ち」
そんな綺麗事を考えている自分がバカらしくなった杉山は、仕事帰りに一人で横浜に飲みに出
かけた。
横浜駅西口を出て「何処に行くか?」考えていた時、駅の壁に寄りかかっている不機嫌そうな
若い女の子の姿が目に付いた。茶髪でいかにもヤンキー風だったが、オフショルダーのカットソ
ーから覗いている細い肩が可愛かった。
何かに魅せられるように「誰かを待ってるの?」と声をかけた。
「お兄さんを待ってたのよ」
女の子は、怪しげな目つきで答え、杉山の腕に絡みついてきた。
「何処に行く?」
「ピザが食べたいの」
「ナミエ」と名乗った女の子と、ピザを食べた後、ラブホテルに入った。
「セックスが上手ね」と言われ、有頂天になった。テレビを見て、ゲームをして、お酒を飲み、
お喋りをし、ルームサービスの食事を楽しみ、そして「ナミエ」と抱き合う……ラブホテルで一
日を過ごした。
別れる時、情が沸いた「ナミエ」と別れるのが少し淋しかったが「高校生」という事を知った
杉山は「とんでもない事をしでかした」と顔色を変えた。
そんな様子の杉山を見て「恋愛に年は関係ないでしょう? 杉山君」と言って、何処から見つ
けたのか? 杉山の名刺をチラつかせて「ナミエ」は去って行った。
そして、それから数日後、ロイヤルガーデンに自分を訪ねて来た「ナミエ」から、杉山は逃げ
た。
真理は遠い昔の事を思い出していた。あの頃、自分は雄一郎との結婚を間近に控えて幸せの絶
頂にいた。
「私が彼女から聞いた話は、私が話をする事ではないわ。彼女から直接話を聞いた方がいいと思
うの。もしかしたら近い将来、その機会があるかもしれない。でも、一つだけ言わせてもらうけ
れど、彼女はあの時、杉山君の事が好きになりかけていた、って」
「そんな……だけど、彼女は今、どうしているんだろう?」
「うーん……」
真理は笑っていた。
「どうなっていると思う?」
「知ってるの? だって、もう30歳を過ぎているだろう? 結婚して、頑張って主婦している
のかなあ?」
「うーん……そうね……」
杉山をじらした。
「なんだよ! 知っている! って素振りじゃない」
「去年の12月、ある人が入社して来たの。ホテルでは社員募集がなかったのにね。東洋ビジネ
スで『ゲストサービス部支配人川村真理』の記事を見て、どうしてもこの人の下で働きたい。そ
の人はそう言って応募して来たの。結果、採用になったのね。異例の採用」
そこまで言って、真理は嬉しそうな笑顔を見せた。
「それでね、その人は希望通りゲストサービス部に配属になったの。人事から届いたその人の履
歴書はブラボーだった。国立大学英語学部卒業後、外資系航空会社のキャビンアテンダント。T
OEIC700点以上。航空会社を依願退職して横浜ロイヤルガーデンホテル。どう?」
「なる程、ブラボーだ!」
「私に憧れたから、と自分から売り込みをかけ、しかもあの履歴書で私はちょっと構えた。でも、
初めて会った時、きりっとした綺麗な人だと思ったけれど、懐かしい人に出会ったような気分に
なったの。そうしたら、彼女は私に抱きついてきたのよ。この人はなに? 困る! って私は戸
惑った」
真理は可笑しそうに笑った。
「人懐こいその新人は……りっぱなホテルマン候補生よ!」
「どういう事?」
「横浜ロイヤルガーデンホテル、ゲストサービス部の優秀なスタッフ!」
「まさか……」
「会社から、三ヶ月は試用期間の身元預かりだって言われて、頑張って、無事に試用期間終了で
本採用決定。お正月が過ぎた時にね、遅くなっちゃったけれど、ゲストサービス部で歓迎会をし
たの。その席で、彼女の正体を知ったのよ。杉山君が悪さをした? あの高校生だったって。ご
両親といろいろあって、父方の叔母夫婦と養子縁組をしたから、苗字が違っていたので気がつか
なかったの。外資系航空会社のキャビンアテンドの彼女がどうして転職したかって、判る?」
「……」
杉山は驚きで声が出なかった。
「杉山君と私の事がずっと忘れられなかったのですって。私なんかはただ話を聞いただけなのよ。
でもね、私の眼差しが優しくて、嬉しかったらしいの。私達が彼女の幸せな人生を導いてくれた、
とずっと思っていたから、偶然に私の記事を読んで決心したって。ねえ、これって凄いと思わな
い? 嬉しい! って思うでしょう? その彼女は……大事な私の部下の早瀬奈々子よ」
「早瀬……」
何処かで聞いた名前だ……そうだ、ニュースでチーフの事故の事を聞いて、横浜ロイヤルガー
デンホテルに電話した時、対応したホテルスタッフが、確か「早瀬」と名乗っていた。あの時、
一瞬身構えたと感じたのは「早瀬」というスタッフが、自分の名前を聞いたからなのか?
「そうよ。杉山君は電話で彼女と話しをしているでしょう? 雄一郎さんの葬儀にも来てくれて
いたのよ。彼女は杉山君を見て『りっぱになった』って喜んでいたわよ。「人間の出会い」って
本当に素敵。辛い事になるって事もあるけれどね……」
真理は雄一郎の遺影を見つめた。
「でもね、辛い事になっても無駄じゃないのよね」
「モエを開けようよ」
杉山はモエを開けて、グラスに注ぎ、まず雄一郎の遺影の前にグラスを置いた。
「ほら! 見て! チーフだって喜んでいるでしょう? 乾杯!」
グラスをあげる真理の目から涙がこぼれた。
「悲しくて泣いているのじゃないのよ。ちょっと感動ものだからよ。ねっ! 素敵よね。人間っ
て。出会いって」
「うん、素敵だ」
杉山の中にいろいろな思いが駆け巡った。
「でも、もう一つ素敵なものがあるの。見てくれる?」
そう言って真理は立ち上がったが、その時、またいつものチクチクするような痛みを感じて、
思わず顔をしかめた。
「どうしたんだよ?」
杉山が心配そうに声をかけた。
「最近、胸がチクチク痛む事があるの」
……それだけではなかった。階段の上り下りが辛く、長い階段を上がりきった時には、少し吐
き気も感じる事があった……しかし、その事は杉山には言わなかった。
「若くないんだからさ。お酒と煙草は控えろよ」
「お互いさまでね」
真理は舌を出して、雄一郎の遺影の脇に置いてある「手紙」を取り、杉山に渡した。
「これを読んで」
「何?」
杉山は真理から手紙を受け取って読み始めたが、途中まで読んで真理の顔を見つめた。
「いいから、最後まで読んで」
「これって……娘って……真理? ……エーッ!」
杉山は言葉が出て来なかった。
「15年前に、私の父が雄一郎さんに宛てた手紙よ。でも、父は渡す事が出来なくて、それが実
現したの」
「どういう事?」
「父は殺されたの。父が殺された日は私がプロポーズされた日でもあるのよ。そう、杉山君がセ
ッティングしたあの飲み会の日」
真理は自分の生い立ち、結ばれなかった両親の事、父を探した事、その場面を雄一郎に見られ
ていた事、雄一郎の部屋で父の死を知った事、そして、笹岡が訪ねて来た事を、杉山に話した。
「チーフと真理って……」
真理の話を聞き終えた杉山は、おもむろに椅子から立ち上がり線香を灯して、長い間、雄一郎
の遺影に手を合わせた。
「チーフは俺の思っていた通りの人だって。言ったらさ、そうじゃないよ。自分を取り巻く人が
素敵だから。そう言っていたよ」
杉山の目には涙が溜まっていた。
「人間って美しくて素敵なんだと思う。出会いも。それを見る目を持っていれば、ね」
真理も線香に火を灯しながら話を始めた。
「私はいろんな素敵な人に力をもらって生きて来たのだけれど、見れなかった。手紙を届けに来
てくれた笹岡さんが、父も雄一郎さんも真に優しい人だったのですね。そう言ってくれたけど、
私だけは優しくなかったのだと思うの。それで、雄一郎さんは身を犠牲にして、私にその事を気
付かせてくれたのだと思うの」
「そんな言い方するのはやめろよ! 真理が一番分かっているだろう? そういう事を言ったら
チーフが一番苦しむ事になるんだって!」
杉山は思わず声を荒げた。
「そんな事ないよ」そう言って慰めるのが一番良い方法かもしれない。しかし、言葉だけの慰め
は言えなかった。
「村上さんからの話を聞いた時の真理も今と同じだったよな。自分が悪いって自分を責めて。確
かに真理にも非がある。チーフ、真理、相手の女、責任は三等分なんだよ。そうやって自分の事
を責めて、いい子になっていたら……そうしたらみんな真理に同情するよ。だけど……もういい
加減にしろよ。真理は、これからも生きて行かなくてはならないんだよ。こんな風にしていたら
いつまで経って本当の意味で強くならない」
真理の目から大粒の涙がこぼれた。
「そうしたいのよ。でも、出来ない自分がもどかしかった」
「泣けよ。何も考えずに泣きたい時は泣けばいいんだよ。自分の感情を抑えて生きていく、なん
て出来ないんだよ。でも、真理はずっとそうだった。そうする事が自分の道みたいに思っていて
さ。でも、どこかに俺もそうだったけど、そういう真理に甘えている部分があって。もしかした
らチーフもそうだったのかもしれないって、思ったりもしたんだよね。でもさ、もういいんだよ、
力抜けよ。いい子になんてなる必要はないんだよ」
「力抜いたら、幸せになれるかなあ?」
「なれるよ。時間がかかるかもしれないけれど。もし、なれなかったら……その時は誰かに頼る
んだよ」
……杉山の言う様に、力を抜いたら楽だろう。でも、信頼している雄一郎の前でも力は抜けな
かったのだから、自分には無理かもしれない。と思う……杉山や村上の前では「楽」になれるが、
雄一郎の前では「楽」にはなれない……「楽になる事」と「愛する事」は違う。それが一つにな
る事が、真理には分からない事だった……だから……こうなったのか?……