第十一章
山梨北署の捜査本部には捜査担当者全員が揃っていた。
千葉県幕張にあるレンタカー店、勤め先の「きりり」という雑貨店と、短期精神障害と診断さ
れた「なぎさクリニック」への聞き込みも終了していた。また、被害者の親友である村上健司の
話は、真理から聞いた内容と一致していた。
「一つ、気になる事を聞いてきました」
そう言ったのは、元八ヶ岳ガーデンリゾートホテル総務部長を勤めていた渥美繁に、話を聞き
に行った山梨北署の宮野邦之だった。
「ガイシャが被疑者の採用話を持ちかけた、被疑者の夫であった菅原幸一の労災手続きの最後の
日に、突然、ガイシャから被疑者の採用話をされたのですが、その時のガイシャの様子が変だな
と思ったそうです。いつもは被疑者の自宅から戻ると、手続きの進捗具合の報告をするのですが、
その日に限って、真っ先に採用の話をもちかけて、しかも熱っぽく語ったそうです。一生懸命な
様子に、渥美さんは、被疑者からお願いをされて困っているのかなと思い『昼食を食べながらゆ
っくり話をしよう』と言ったら『食事は済ませて来た』とガイシャは断りました。団地の敷地で、
水溜りに足をとられて転んでしまいコートを汚したので、被疑者が洗ってくれたが乾くのに時間
がかかり、それを待つのに、昼食をご馳走になった。と言っていたようです。その時のガイシャ
の様子が普段と違い、いかにも言い訳をしているように聞こえたと言っていました。だから、も
しかしたら、その時点で、ガイシャは被疑者に好意を持っていたのかもしれない。もしくは、す
でに深い関係になっていたかもしれない。そう言っていました」
「うーん……その時点で相思相愛だったという事か……おい! 被疑者は付き合ったきっかけを
どう話しているんだ」
倉田が柳田に訊いた。
「夏のイベントの後、具合が悪くなって休んだ時にガイシャが自宅を訪れたのがきっかけだった。
自分から誘ったと供述しています」
柳田は調書を見ながら答えた。
「ただ、渥美さんは今だから思う事で、推測にしか過ぎない。と弁明していましたが」
「ガイシャが亡くなった今となっては、本当の気持ちは分からないが、恐らく、被疑者は、ガイ
シャが自分に好意を持っている事を感じていたのだろうな」
「知っていて、計画した。という事ですか?」
「だろうな」
「何かその事が、被疑者に有利に働く。そういう事はありますか?」
「うーん……有利に働く……か……そうではなくて、反対に被疑者は正常な魅力的な女性だった、
という事だ。その事をガイシャは分かっていたんだよ。魅力的だったから軽率な事をした」
「自らの行いがこういう事態を招いた。という事ですか?」
今まで黙っていた米山が口を開いた。
「総務部長が感じた事が本当だったらな。でも、もう、それは分からない……」
「でも、それが本当だとしたら、奥さんの事を思うと悲しくなります」
深沢が言った。
「それは分からんよ。総務部部長の話は、感じた推測で置いておこう。それ以外、レンタカー店
や、雑貨屋のオーナーの聞き込みを検証するぞ」
重い空気が漂った捜査本部だったが、宮野と一緒に聞き込みに行った山梨北署の三枝信一郎が、
報告を始めた。
レンタカー店での梓の行動は確かに異様であった。
最初にコンパクトカーを選び、契約書を記入し終わった時点で、ハイブリッドカーに変更をした。
優柔不断そうで、車種を決めかねている様子の梓に、店員が「目的とご利用人数は?」と訊くと
「失礼よ! プラベートな事だから、そんな事あなたに言う必要ないでしょう!」と怒った。そ
の剣幕に店員は肝を潰した。
ハイブリッドカーと決めて契約が済み、梓はレンタカー店を後にしたが、30分もしない間に
再来店して、エスティマに車種変更し、おまけに「白は嫌だ」とボディカラーの指定もして来た。
用意出来る車が「シルキー・ゴールド」だと伝えると満足した様子で帰って行った。
契約時はノーメイクだったのだが、引き取り当日は、しっかりとメークを施し派手なチュニッ
ク姿で現れた。横柄な態度に契約時に対応した店員は「閉口した」と言っていた。返却時には特
に変わった様子はなかったと言う。
「情緒的に不安定な様子でしたか?」と問う捜査員に、店員は「そうではなくて、性格が悪いと
思いました」と言い切った。
「あんな変な人だったら、採用なんかしていませんよ」
迷惑そうに言う「きりり」という雑貨店での都築久美子という、お洒落な雰囲気のオーナーの話
も興味を引いた。
「面接に来たのは、6月15日の午前中です。履歴書に、紳士服店での接客経験有りという事と、
ホテル勤務の経験が明記されていたし、身なりもきちんとして、綺麗だったし、感じの良い人だ
ったので採用を決めました。採用の連絡をしたのは、その日の夕方です。間違いありません。携
帯が留守電になっていたのでメッセージを入れました。本人から連絡があったのは、3日後ぐら
いだったと思います。レスポンスが遅かったのが気になったのですが、何人かの応募者の中で一
番印象が良かったので、翌々日からの勤務という事で話をしました。ところが、いざ出勤すると
態度が全く違っていました。初出勤の日は私が不在だったので、店長に教育係を頼みましたが、
話も聞かずソワソワした様子で、やたらに店の商品をいじくり回していたそうで、店長が呆れて
いました。翌日は私が付いていましたが、いきなり店長が意地悪だとか愚痴を言われました。次
の日はもっと酷い状態だったので、様子見で接客はさせなかったのですが、客が悪口を言ってい
るとか、やはり店長に嫌みを言われて虐められている等と、被害妄想的な事を言っていました。
実際には、そういう事は全くありませんでした。店長とも相談して、もう無理だったので辞めて
もらう事を伝えようとしましたが、携帯電話が繋がらず、そのまま連絡が取れない状態になりま
した。辞めてもらう事は直接伝えた方が良いと思ったため、数日間携帯に電話しつづけましたが、
一度も連絡がなかったので、堪忍袋の緒が切れて、店には向いていないようなので出社には及ば
ない、という事を留守電のメッセージに入れました。面接時と、勤務時と余りにも違う態度に驚
いたのですが、その期間に何かあったとしか思えません。私も長い間、お店をやっていていろん
な人と会っていますから、それなりに人の事は見れます。勤務態度が本当の姿だったとしたら、
面接時に感じた筈です」
嫌な事を思い出し不快な気分になったのか、都築久美子はそこまで話した後、眉根に皺を寄せ
た。
「その後連絡がありませんでした。私は何となく気になったので、三日間の未払い分の給料を、
直接渡しながら話を聞きたいと思い、マンションを訪ねたのですが、あの三日間は何だったのか?
と感じた事がありました。訪ねたのは6月30日です。マンションの駐車場に車を止めたら、菅
原さんが自分の部屋の前を掃除していました。2階だったのでよく見えました。玄関のドアを雑
巾で拭いていた姿は、勤務時の菅原さんではなく、面接時のきちんとした菅原さんでした。私は
少しの間、車の中からその様子を見ていました。拭き掃除を終えた後、今度は箒で玄関回りを掃
き始めました。これは会っても大丈夫だ。と思ったので車から出ましたが、車のドアを閉める音
に気がつかれたのか、菅原さんは私の姿を見ると、慌てて部屋の中に入りました。菅原さんの部
屋の前は綺麗になっていましたよ。チャイムを押しましたが、居留守を使われて出て来ませんで
した。仕方ないので、メモを添えてドアの郵便受けに給料が入った封筒を投げ入れて帰りました。
マンションの玄関を掃除している菅原さんの姿は、本当の菅原さんだったと思います。何かあっ
たのだと思いますが、そうではなかったら、私の店との相性が悪くて、菅原さんはあんな態度を
取ったのかな? って。何だが辛い気持になりました。それで、今回の事件を聞いて……菅原さ
んは覚悟をして、部屋の前を掃除していたのではないか? そう思いました。たった3日間でし
たが、菅原さんと接していて、何か力になってあげる事は出来なかったのか? とこれは、私の
偽善ではありません。そう思いました」
話を終えた都築久美子は、大きなため息をついた。
精神内科のなぎさクリニックでの菅原梓の印象は薄かった。院長の栗原肇は、カルテを見なが
ら、カルテ通りの話をする事しか出来なかった。しかし、このカルテは菅原梓にとっては、最大
の武器になる。
「少しずつ出て来ますね。しかし、このコーヒーは美味いね」
倉田は少し得意げな気持ちで、深沢真知子が煎れた美味しいコーヒーを味わいながら言った。
「トミーの無農薬有機栽培のコーヒーですよ」
コーヒー好きな倉田のために、深沢真知子が自費で購入した地元で有名なコーヒー豆販売店の
名前をあげた。
「後で請求しろよ」
何も言わない深沢の好意が倉田は嬉しかった。
「じゃあ、整理しよう。心神喪失を疑う点だ」
柳田がホワイトボードの前に立ち、倉田の言葉を待った。
「俺はずっと引っかかっている事があるんだよ。車の事だ。レンタカー店で被疑者が三回も車種
変更をしたのは、情緒不安定を装うための工作だと思っていたが、それだけではない。そう考え
ている。最初は、確かビッツを選び、次がプリウス、そして最後がエスティマ。段々に大型車に
なってきている。エスティマは頑丈な車だ。ガイシャの車はチェロキーだよな。そのチェロキー
に対等に対抗出来る。ガイシャが、被疑者の身の安全を考えて大きな車にしなさい。と供述して
いたよな? ガイシャの愛情をほのめかしていたが、あれは被疑者が『うっかり喋ってしまった
本心』だと考えている。死ぬ気はなかったのかもしれない」
「確かに、その可能性はあります」
柳田が言葉を継いだ。
「(1)エスティマを選んだ理由→計算している?(2)自首をする気持ちがあった(3)犯行
動機の中での感情→カッとなった(4)千葉県幕張「きりり」店長の証言→覚悟したかの様な部
屋の前の清掃(5)片岡ふみ子に対する認識→「ウソつき」と言った時の庇う言動(6)リゾー
トイン小淵沢のチェックアウト後の部屋の様子(7)取調べ終了後の椅子の片付け」
正常と思われる菅原梓の様子を一つ一つ、柳田は書き足していった。
「調書を受ける度に、自分の中でチェックしている様子ですね。それで、マズイと思う部分に関
しては、意味不明の事を付け加える。このまま続けて行くと、菅原梓の思うような方向に流れる
ような気がします」
柳田が発言をした。
「確かに柳田君の言う通りだ。そろそろ駒を出すか?」
「駒……ですか?」
「この15年前の手紙さ」
笹岡が提出した、手紙のコピーを見せながら倉田はみんなを見回した。
「菅原梓の気持ちに賭ける。という事ですか?」
米山が口を開いた。
「私も手紙を見せて、そして、川村さんの気持ち、奥さんの気持ちをぶつけて、心の闇を取り払
ってあげれば、彼女も気付くと思います。痴情絡みの殺人事件ですが、とても切なく思っていま
す。菅原梓を怖い、と感じていますが、誠実な川村さんが愛した彼女の本当の姿は違うかもしれ
ません」
深沢が言った。
「僕も同感です」
手を上げて米山が同意した。
「よし、分かった。勝負に出よう! 勾留期限も迫ってきている、時間もないからな」