表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/17

第十章

   真理は、神奈川県警川崎幸北署元警部の笹岡崇の訪問を受けた。

  

   昨日、山梨県警から「笹岡という元警部が訪問する」という連絡を受けていた真理は、70歳

  位だろうか、白髪頭の実直そうだが、いかにも元警部という雰囲気を持つ笹岡の訪問に身構えて

  いた。

 

   笹岡は、まず突然の訪問の無礼を丁寧に詫び、雄一郎の仏前に線香を供えた。

  そして、ダイニングテーブルで向かい合った真理に、簡単な自己紹介をした後、透明なビニール

  袋を差し出した。


   ビニール袋には「川村雄一郎 2丁目 プラザ石川」と書かれたメモと「川村雄一郎様」と書

  かれた古そうな封筒が入っていた。真理はメモと古びた封筒の「川村雄一郎」という文字を驚い

  た表情で見つめた。


  「この封筒とメモは、平成7年に起きたある事件の被害者が持っていたものです。」

   そう言って笹岡は、真理が用意した冷たい麦茶を美味しそうに飲み干した。


  「事件は犯人も逮捕され解決されておりましたが、被害者の持ち物をご家族にお返しする際、ご

  家族から、見覚えのない方へのお手紙だという事で、受け取りを拒否されておりました。その後、

  署で保管しておりましたが、宛名の方にお渡ししたい。とメモの住所を訪ねましたが探し出す事

  が出来ず、分からないまま現在に至った次第です。個人的に私は気になっておりましたが退官し

  てしまいました。それが、先日、中央自動車道での事故のニュースで同じお名前を拝見して、も

  しや? と思いまして伺わせて頂きました。まず初めに『川村雄一郎さん』という事ですが、該

  当されず間違っていましたら、お詫びさせて頂きますので、その際はご容赦頂けます様お願いい

  たします」

   笹岡の話し方は丁寧だった。


  「平成7年、川崎、雄一郎」という、その3点の関連について思い当たる事があった真理の心臓

  が少し波打ち始めた。


  「差し支えなかったら教えて頂きたいのですが、その事件は、9月の出来事ではありませんか? 

  ホームレスが殴打されて殺害されたという」

   真理は恐る恐る尋ねた。


  「そうです。今、仰られた事件ですが、お心当たりがあるのですか?」

   笹岡は身を乗り出して真理に尋ねた。


  「被害者は……当時ベーブルースそう呼ばれていた、元プロ野球選手の佐々木真司……私の父で

  す」


  「エッ! なんですって! 被害者の佐々木真司さんがあなたのお父上?」

   笹岡は真理の突然の話に驚いた。


  「正確に言うと、私は父の隠し子です。父と……母は正式に婚姻関係はありませんでしたから……」

   忘れる事がなかった父と母の事を思い、急に胸が熱くなり言葉が詰まった。


  「申し訳ありません……ちょっと辛い事があったものですから。でも、どうして亡くなった父が、

  主人宛の手紙を持っていたのでしょうか?」


  「手紙を読ませて頂きました。短いお手紙でしたが、私は文面を全部覚えています。あなたのお

  父上の手紙は、川村雄一郎さんへのお礼とお願いでした。辛い事を思い出させて申し訳ないので

  すが、当時の事をお話頂けますか?」

   涙を堪える真理に、笹岡は優しい口調で話しかけた。


  「分かりました。お話いたします」

   真理は話を始めた。


  「私は生まれた時から父を知りませんでした。母から父は船員で、遠い南の島で船が遭難して、

  父の全てを大きな魚が持っていってしまった。そう聞いていました。でも、母が亡くなって遺品

  の整理をしていた時、母の過去を知る事になりました。母は未婚の母で、父はプロ野球の選手で

  したが、他に家庭を持っていました。私は父の事を知りたくていろいろ伝を頼って調べて、プロ

  野球を引退した父が、横浜の寿町で生活している事を知りました。寿町を探し回りましたが、中

  々見つからなく途方に暮れていた時、父が「ベーブルース」という名前を名乗っている事を教え

  てくれた方がいて、今度はその名前を頼りに探し回りました。その姿を偶然に主人に、結婚する

  前でしたが、見られてしまったのです。そして、主人と一緒にいる時に、父が殺害されたという

  ニュースを聞きました。私はショックでしたが、主人がその気持ちを救ってくれました。身元不

  明という事で扱われていたようでしたが、私に父の事を教えてくださった方の先輩が、父の事を

  知っている方で、警察に出向くという事を伺って、私は安心したので黙っていました。申し訳ご

  ざいません」


  「いや、あなたが謝る事はありませんよ。そうです。今でもハッキリ覚えています。お父上の友

  人の元プロ野球選手の方のご協力で身元が分かり、ご家族に無事引き取られました。そうだった

  のですか……そういう事があったのですか……ご主人を亡くされて、更に辛い事を思い出させて

  しまって、本当に申し訳ありません」

   笹岡は深々と頭を下げた。


  「でも、どうして父が主人に手紙を書いたのでしょうか?」


  「お父上もご主人も亡くなられてしまった今、細かい事は分かりません。でも、その時の事を覚

  えていらっしゃるあなたでしたら、この手紙を読めばきっと判ると思います。私は亡くなられた

  ご主人の事を存じ上げませんが、ご主人は心の優しい方だったのでしょうね。そして、お父上も

  あなたの事を大事に思っていたのでしょう。その事が私には手に取るように分かりますよ……」

   そう言って笹岡は慌ててハンカチを取り出し、涙を拭ぐい「すみません。年を取ると涙もろく

  なって」と詫びた。


  「手紙を読ませて頂いてよろしいですか?」


  「是非、読んでください」


   笹岡はビニール袋から手紙を取り出し真理に手渡した。

  真理は震える手で手紙を開いた。ボールペンで書かれ、誤字を消した後が残る、たどたどしい文

  字が飛び込んできた。



   「川村雄一郎様

     この手紙が貴兄に読まれる時が来るかは分かりませんが、もしその時が来たら、貴兄のそ

    ばには娘が一緒にいると信じています。

     私は伊勢佐木町のお祭りの夜、話をしてくれたお礼として、貴兄からおみやげを手わたさ

    れた者と一緒にいました。そして、約二十年ぶりに娘の姿を見る事が出来た者です。

     娘は私を探してくれていました。でも娘に「お父さんだよ」とは言えませんでした。私は

    娘を捨て、そして、あの場所で、娘に親探しをさせるようなひどい父親だからです。

     娘は辛かったでしょう。でも、あの時、貴兄は、寿町で私を探している娘を心配してくれ

    ていました。こういう場所で生活していると、言葉のひとつひとつや言い方でその人の心が

    わかります。私は貴兄のやさしさと、娘が、父である私を思ってくれているやさしい気持ち

    を感じました。

     あの時、私は貴兄に「娘を頼みます。幸せにしてください」と目でうったえましたが、そ

    の気持ちは伝わったと、貴兄の目を見て感じました。

    「心やさしくあたたかい男は真の意味で男らしい頼りになる男」だと信じているので、貴兄

    はその通りの男だと思いました。だから、私は安心したので横浜をはなれて、今は川崎に来

    ています。こういう生活ではなかなか、貴兄を探すことは出来ないのですが、いつかこの手

    紙が貴兄の手にとどき、お礼をつたえることが出来ることをのぞんでいます。

     やさしくしてくれて本当にありがとうございました。「私は幸せです」そのことを娘にも

    つたえてほしいのです。そして、娘も幸せになるように。どこにいても祈っています。

                                       ベーブルース」


   読み終えて真理は人目もはばからず声をあげて泣いた。



    ……笹岡は辛かった……


  「佐々木真司の願いは叶えられた。しかし、信じて娘を託した川村雄一郎も、悲しい最期を迎え

  てしまっていた」

   笹岡ももらい泣きをしていた。


  「また、悲しい思いをさせてしまって本当に申し訳ありません。でも、あなたのお父上はきっと

  喜んでいると思います。そして、天国であなたのご主人と再会していると思いますよ」


  「あの時、ニュースで父の事を知った時……私は、父は娘が探している事が辛くて川崎に移って、

  そしてあんな酷い目にあった。と自分を責めました。でも、主人は『それは違っているよ。成長

  した娘を見て安心して川崎に移り住んだ』と慰めてくれました。でも……それは……本当の事だ

  ったのですね。父と主人は心で話をしていたのですね」


  「仰る通りだと思います。お手紙の中で、お父上はご主人の事を『心が優しく温かい男が真に男

  らしい頼れる男』と仰っていましたが、お父上もそういう方だったのでしょう。だから、お二人

  は心で会話が出来たのだと思いますよ」


  「父が殺された日に私は主人にプロポーズされました。当時、私はホテルに入社して半年程で、

  主人は私の上司だったのです。私は入社早々から主人に憧れていたのですが、ずっと片想いだと

  思っていて、誰にもその事を話した事はありませんでした。付き合う事もないままの突然のプロ

  ポーズに、声が出ない位に驚いたのですが、父が……私達を結んでくれたのですね」


  「素敵なお話ですね」


  「笹岡さんのお気持ちには……本当に感謝いたします。ありがとうございます」


  「この手紙をお届けする事が出来て、私は本当に嬉しく思っています。事故の事は山梨県警で伺

  っています。これから大変でお辛い事もあるかと思いますが、もし、私がお力になれる事があっ

  たら、いつでもご連絡ください。今は、隠居の身でおります」


   そう言って笹岡は真理に、連絡先を記したメモを渡し「私はこれで失礼します」と腰を上げた。


  「お伺いしたい事があるのですが、宜しいですか?」

   腰を上げた笹岡を、真理は引き留めた。


  「何でしょう」

   笹岡は椅子に腰を下ろしながら尋ねた。


  「今現在、勾留されている被疑者がどういう自供をしているか? を知る方法を教えて頂きたい

  のと、その被疑者に面会する事は出来ますか?」


  「現在はまだ取調べ中ですから、自供内容などは警察では話をする事は出来ません。面会につい

  ても、被疑者との関係で、規制をされる場合があります。希望されるのでしたら、山梨北署に直

  接申し出をされるのが一番良いと思いますよ。ただ、どういうお気持ちで被疑者に面会したい、

  と考えているのか分かりかねますが、かなりの覚悟が必要になりますよ」

   笹岡は菅原梓については、倉田からある程度の情報は得ていた。


  「そうでしょうね。私は、彼女の本当の気持ちを聞いてみたいのです」


  「気持ちを聞きたいのでしたら、今はまだ早急すぎると思います。刑が決まって落ち着いてから

  の方が、被疑者もきちんとお話出来るのではないでしょうか」


  「分かりました。性急に事を運ばない方がいいのでしょうね」

   少し考えた後、真理は答えた。


  「立ち入った事を伺いますが、ご主人はどちらのご出身ですか?」


  「横浜の根岸です」


  「ご両親は根岸にお住まいですか?」


  「両親はすでに亡くなっています」


  「申し訳ありません。余計な事を聞いてしまって」

   笹岡は自分の不用意な質問を反省した。


  「大丈夫ですよ。主人は高校生の時に母親を亡くして、お義父様は大学を卒業して就職した年に

  亡くなられました。生は受けなかったのですが、私達は子供も二人亡くしています。多分……今

  頃……みんなで仲良くしていると思います。私だけ仲間はずれ」

   真理は、雄一郎の遺影と脇に飾ってあるテディベアを見て、笑いながら笹岡に答えた。


  「仲間はずれですか? やきもち焼きなのですね」

   笹岡は胸が詰まったが、真理の笑顔に笑顔で返した。


  「お義母様はロックが好きで、主人もロックが好きだから、きっと毎晩ロックを聴きながら、お

  酒を飲んで楽しんでいるのでしょうね。ちょっとズルイですよね」


  「ホテルのお仕事をされていると伺いましたが、当分お休みですか?」

   笹岡は話題を変えた。


  「週明けから出勤する予定です。二人ともホテルの仕事が好きな仕事バカですから。それに……

  主人は仕事に厳しかったので、いつまで休んでいるんだ。って叱られそう……」

   声が詰まって最後まで言えなかった。  


  「奥さんが仕事に復帰して元気で過ごされるのを、ご主人も亡くなったご家族も見守っているで

  しょうね」

   笹岡の言葉は温かかった。


  「はい。だから、いつまでもメソメソなんてしていられないですよね」

   真理は涙を指で拭った。


  「長居してしまいまして申し訳ありません。私はこれで失礼します」


  「本当に今日はありがとうございました。ところで、笹岡さんは和食はお好きですよ……ね?」

   また、真理が笹岡を引き留めた。


  「好きどころか、毎日が和食です」


  「良かった! 実は、私が勤めている横浜ロイヤルガーデンホテルに『いつき』という、

  おばんざいの食事処が新しくオープンしました。おばんざいって、京都で日常的な惣菜を言うの

  ですが、ホテルのレストランですけれど、気取らなくて美味しいお食事が楽しめます。よろしか

  ったら、奥様と是非いらしてください。なんて……宣伝しちゃいました」


  「いいですね。お酒もありますか?」


  「もちろん、日本中の銘酒が揃っていますよ。お好きなんですね。私も大好きですけれど」


  「是非、伺わせてください。その時はご一緒しましょう。ただ、家のカミサンも私に負けない酒

  豪ですが、大丈夫ですかね?」


  「益々、大歓迎です。そうだ! 待ってください」

   そう言って、真理はバッグの中の名刺入れから名刺を取り出して笹岡に渡した。


  「ほうーッ! ゲストサービス部支配人ですか!」


  「笹岡さんとご一緒出来るなら、支配人権限発令して、特別サービスさせちゃいます。内緒です

  けれどね」


  「これは楽しみだ」

   笹岡は嬉しそうに目を細めた。


  「ご主人の四十九日が済んで、秋になって少し落ち着かれた頃がいいでしょうね。それまでは我

  慢するかな。ご主人が家に居るのに奥さんを連れ出したら、ご主人にやきもち焼かれそうだな」


  「そうしましょうね。是非、ご連絡をお待ちしています」

   真理も嬉しそうに答えた。


   ……しかし、その約束が果たされる事はなかった……

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ