第一章
「STAY WITH ME」の続編です
「この度はご迷惑をおかけいたしまして、誠に申し訳ございませんでした。またのご来館をお
待ちしております」
丁寧に頭を下げ、笑顔で挨拶をする若い女性フロントマンに背を向け、菅原梓はホテル玄関
に向った。
玄関を出る時、突然、フロントを振り返った。
カウンター内にいた別の男性フロントマンとコソコソ話を始めようとしていた、女性フロント
マンが慌てて梓に笑顔を返した。
二人のフロントマンをじっと見つめた梓は、深々と礼をして玄関を出た。
7月2日金曜日、昨日から降っていた雨はまだ残っていたが、梅雨空の合間から八ヶ岳連邦
が少しだけ顔を出し始めた。
ホテルの庭に咲き乱れるバラは見事だったが、山梨県にあるリゾートイン小淵沢という小さ
なホテルは、綺麗な外観と違って居心地は悪かった。
……居心地を悪くさせたのは梓自身であったのだが……
自分で直接「一泊」とホテルに予約したにも関わらず、チェックインの時から「予約は二泊
で入っているはず」とクレームをつけた。
「申し訳ございません。お部屋は二泊でご用意出来ます」と、一瞬、慌てたが、詫び言葉と笑
顔で対応するフロントマンに「部屋が用意出来るとかそういう問題ではなく、二泊の予約を取
り間違える、と言うのはどういう事? あなたでは話にならないから、上の人を呼んでくださ
い」クレーム客の常套句を言って、フロントマンを困らせた。
対応した総支配人は丁寧な対応を心がけていて、その対応に問題はなかったが「私をバカに
しているの? どうしてこういう事になったのか? 確認して報告しなさい」と横柄で納得し
ない態度をとった。
その後は、何度もフロント前をウロウロしたり、挙動不審な行動で、ホテルに悪い印象を残
してもおいた。
二泊の予約とごねたにも関わらず、一泊でチェックアウトをして「やっぱり嫌な気分だから
帰るわ」と、ついでに嫌味も言った。
バラ園の前でホテルスタッフとすれ違った時、ピンクのバラの花を一つもぎ取り「お世話に
なりました」とスタッフに手渡した。スタッフは唖然とした様子で梓を見た。
「後で役に立つ」
梓はスタッフに満面の笑みを返した。
一時間後、梓は、同じ山梨県にある八ヶ岳ガーデンリゾートホテルの従業員駐車場の端に車
を停め、運転席から後部座席に移って「そろそろ出てくる頃……」と、じっと従業員出入り口
を見つめた。
後部座席はスモークガラスになっているので、外からは自分の姿は確認出来ないだろう。
エンジンを切り、締め切った車内は蒸し暑かったが、流れる汗を拭おうともせず「STAF
F ONLY」と書かれ、塗装の剥げかかった薄いグレーの、従業員出入り口の鉄の扉を見つ
めていた。
昨年暮れまで、重い扉を開けて出社する度に感じた「ときめき」を思い出し、胸が疼いた。
10時を過ぎた時「男」が姿を現した。
少し痩せたように思える長身のスポーツマンタイプのその男は、ホテルの制服である濃紺の
ブレザーと、薄いグレンチェックのズボンが似合っていた。
梓は久しぶりに見た愛しい姿に、また胸のときめきを覚えたが、その気持ちを抑えて男をじ
っと見つめた。
男は、ドアから出て空を仰ぎ雨の降り具合を確かめ、一瞬考えるような仕草をしてから、出
入り口に用意されている透明のビニール傘を手に取った。
傘をさしながら従業員駐車場を見回した時、シルキーゴールドのエスティマに目を止めた。
「千葉ナンバーのレンタカーが、この場所に停めてある事に警戒感を抱かせてしまうか?」
梓は不安になったが、男は何のリアクションも起こさず、真っ直ぐに男の愛車である黒のチ
ェロキーに向った。
ブレザーを脱ぎ丁寧にたたみ、ドアを開けて車に乗り込む瞬間、今度は右腕にはめてある腕
時計を確認した。
「利き腕に時計をはめる男は、水商売の男が多い」
ウソか本当かは分からなかったが、以前そんな事を聞いた事がある梓は、その事でいつも男
をからかった。
男のたくましい腕と長い指を持つ手は魅力的で、何故か「利き腕に時計をはめる」その事を
色っぽく感じた事もあった。
「14時から東京港区芝公園にある、ガーデンリゾートホテル本部で定例会議」
男のスケジュールは分かっていた。
そして、その後……男は妻が待っている横浜に向うのだろう……
男から漂う一途な雰囲気で、梓はそう確信した。
……男は妻に何を告げるのだろうか?……
チェロキーはゆっくりと発進した。
純正のメッシュのホィールをはいた、オーソドックスな黒のチェロキーリミテッドだったが、
直線的なスタイリングが、その男の魅力をそのまま表現しているようで、梓はその男が乗るチ
ェロキーが好きだった。
駐車場からチェロキーが消えるのを確認して、運転席に乗り移りエンジンをかけエスティマ
を発進させた。
チェロキーは真っ直ぐ小淵沢ICに向う。ルートも分かっているので焦る事はなかった。ド
ライブテクニックには自信がある。ただ、気付かれさえしなければいい……そして、タイミン
グと運命。
梓はハンドルを握りながら、助手席に置いてあったサングラスをかけた。
駐車場を出て、ICに続く県道11号線に入ろうとした時、信号待ちをしているチェロキーを
確認した。すぐ後ろに着くのを避けて2台車を見過ごした。
片側一車線の県道はオンシーズンに入っていたが、雨の平日のせいか車も少なかった。梓の
運転するエスティマはチェロキーの三台後に続いた。
IC近くの信号で前の2台の車が車列を外れたため、ウィンカーを出して車を止め、ICに
向うチェロキーを見ていた。チェロキーがICに入ったのを確認して、一分程してからICに
向った。
中央自動車道に乗った時には、チェロキーの姿はなかった。
スピードを上げて追い越し車線に入り、チェロキーを探した。しばらくして、走行車線にいる
チェロキーを確認する事が出来たので、車線変更をしてチェロキーの二台後に続いた。
カーステレオもカーラジオもかかっていないエスティマの車内は静かで、タイヤが拾う道路
の振動音だけが響いていた。
「川村雄一郎……」
梓は二台前のチェロキーに向って呟いた。
声に出して名前を呟いた時、また胸が疼き「恋しい」気持ちが沸きあがり、涙が溢れそうにな
った。
男は、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルの総支配人で、交通事故で亡くなった梓の夫の菅原幸
一の上司であり、その後、自分の上司にもなった。
そして……一年半程、秘密の関係を持っていた「愛する人」であった。
男とは一度も一緒に外を歩いた事もなく、梓が住む県営団地の小さな部屋が、いつも逢瀬の
場所だったが、一週間に一度が二度、仕事帰りに訪れる男が待ち遠しく、その僅かな時間のた
めだけに梓は生きていた。
男が結婚している事は承知であったが、自分の前で、単身赴任で別居している妻の話を全く
しなかった事もあり、何の約束もなく不安定な関係であったが、その男と自分が過ごす時間が
幸せだった。
同じ職場にいたので「男の現実」を見る事があり、その時は辛かったが、それでも職場を変
えようとは思わなかった。会社で将来を嘱望され、トップに立っている「男の愛人」という秘
密の関係は蜜の味で、その事は自分自身が生きている証でもあった。
……だから、ずっとこのままで良かった。何も望まなかった……しかし、そうであっても、
無理があった。知らなくていい事を知る事になった。
……知らなくてもいい事……
その事は、梓と男の関係では大事な事であった筈なのに……あの時、耳を塞ぎ、目を瞑って
いれば良かった……でも、そんな事は誰だって出来ないだろう……
男を妻から奪うために「偽装妊娠」の罠を仕掛けた。
男は梓と歩む事を決意してくれたが、罠の成功に酔った梓は、自身が原因で、男の真実に気が
ついてしまった。だから、男には何も告げず姿を消した。
「自分を探して欲しい」とは考えなかったが「男の中に、自分の存在だけは残しておいて欲し
い」と思っていた。
チェロキーを見つめる梓の目から涙が溢れた。
「このまま、次のICで下り、そのまま千葉に帰ろう……」
何故か、そんな気持ちになった。
……と、男の妻の顔が浮かんだ。
職場である横浜のホテルで会ったその妻は美しく輝いていた。何より、人を見る眼差しが優し
くスッと引き込まれそうな魅力があった。もし、その妻が自分の「敵」ではなかったら、きっ
とその魅力の虜になり、その女性と出会った事で幸せな気分になっていただろう。
チェロキーは安定走行で、エスティマと一定の車間距離を保っていた。
慎重な男の運転ぶりにも、仕事が済んだ後の行動が表れているように感じた梓に、再び嫉妬心
が沸き起こった。
気がつくと勝沼ICを過ぎていた。
その時、激しいエンジン音を響かせ、白いベンツが追い越し車線を走り抜けた。梓は、一瞬躊
躇したが、白いベンツにつられる様にアクセルを踏み込み、スピードを上げて追い越し車線か
ら、チェロキーを追い抜かした。
横にチェロキーが並んだ時、チェロキーの運転席の「愛しい男」と目が合った。
サングラス越しに男の顔を見たが、男は表情一つ変えなかった。
「私という事に気がつかなかったのか?」
その事が無性に悔しくなった。
バックミラーで追い越し車線に後続車が続いていない事を確認し、少しスピードを緩めチェ
ロキーに並行して走行し、再度運転席の男に顔を向けた。
男は梓を一瞥したが、やはり表情は変えなかった。梓は自分を否定されているような気がし
た。今まで自分が大事にしていた時間、そして自分の人生そのものまでも、否定されているよ
うな気持ちになった。
「そうだとしたら……許さない!」
心を決めた。
軽くアクセルを踏み込みスピードを上げた。時速は100kmを軽く超えていた。
助手席側のドアミラーに写るチェロキーが少し後ろに下がった時、目を瞑って左に急ハンドル
を切った。その事で、チェロキーがどうなるのか、どうでも良かった。
激しくブレーキを踏む音と、運転する男の悲鳴が聞こえた気がした。
アッという間の出来事だった。
急ハンドルを切った事で、エスティマの後部が右に横滑りを始めた。
梓は咄嗟に、横滑りした方向と反対方向にハンドルを切り進路を立て直し、無意識に死から逃
れようとして、自分を安全圏内に置いていた。
梓が運転するエスティマの目の前に笹子トンネルが迫っていた。
バックミラーを見たが、後続車の姿は確認出来なかった。足がガクガク震えたが、そのままハ
ンドルをしっかりと握った。
追い越し車線をシルバーのセダンが焦ったように走り抜けて行った。
追い越される時にセダンのドライバーが、何か喚いているように思えたが、無視して真っ直ぐ
前だけを見つめた。