宙に描いたお月見の章
ガタ ゴト
雨がざあっと降り込む。何だか気分が下がると、そう思う人がほとんどだろう。
だけど、そんな事が当たり前の世界など、もう、疾うの昔に捨てられてしまった。
放課後。
小さな高校の2階、教室の嬉しそうな喧騒をものともせず、一人の男子が机に突っ伏していた。
彼の名前は影森庄子。本当は、別に眠いわけではない。ある人物の事をさりげなく待っているのだ。
「影森君、おはよう。」
そう言われて、影森は目を開けた。机に寝転んだ頭をあげ、声の相手を見ようと、ぼやけた視界を軽く擦った。
「おはよう、花美。」
視界が晴れて見上げると、高岡花美、彼の幼なじみだ、の顔が見えた。
「最近、よく寝てるけど大丈夫?寝不足?」
「いや、全然大丈夫。ちょっとゲームにはまってて」
「それを寝不足って言うの!」
そう言って高岡は、少し怒った顔を作った。
可愛い、と影森は素直にそう思った。
二人は幼なじみだけれども、中学生までほとんど絡みがなく、お互いを意識したこともなかった。偶然、高校も同じところに入って、そこから仲良くなったのだ。
「ほら、帰ろっ」
高岡はふっと顔を緩めて、影森に笑いかけた。
高岡の事が好きなのかな。と影森が思い始めたのは、2年生になってからだ。高岡がどう思っているのかは知らない。別に知らなくてもいい、と思う。
「うん。…あ、ちょっと待って。トイレ行ってきてもいい?」
「もちろん。待ってるね」
その答えを聞いて、影森は立ち上がった。
騒がしい教室を抜けだけれど、廊下も変わらず喧しさがあった。楽しそうな人込みを抜け、少しの静かな空間に飛び込む。
「はぁ〜…、」
誰もいないことを確認すると、影森は大きく息をついた。
高岡が転校すると聞いたのは、数週間前だ。もちろんショックだったが、あまりそれを悟られないようにした。その日から思いを伝えるか、思いを伝えるかずっと悩んでいた。そうしたら、今日が別れの日だ。
「絶対に伝えたい、のに、」
鏡の前で、影森は頭を掻きむしった。
「どうしよう、どうしよう」
何をしたらいいかは分かっているが、それを口にするのがこんなに難しいとは思っていなかった。
いや、決心をつけよう、と影森は自分の頬を叩いた。
叩いた余韻の残るまま、自己暗示をかけようと試みる。
「頑張れ俺、頑張れ俺、頑張れ俺、頑…」
ガチャッと音がして、トイレの扉が開いた。ハッとして、入ってきた生徒と顔を合わせる。
「えっと、大丈夫か?」
「は、はい!大丈夫でぇす!」
影森は顔を赤くして、逃げるようにトイレから出た。
廊下は少し静かになっていた。
教室に入ると、影森の机のそばで、高岡がつまらなさそうに手をいじっているのが見えた。
こっちの事は見ていなさそうだったから、影森は高岡を驚かせようと教室を大回りして、背後にひっそりと向かっていった。
「…影森君、何してんの」
「あれ、バレてた?」
「驚かせようとしてたの?もう、最初からずっと見えてたのに」
「そうかー…」
残念に思って少し肩をすくめると、高岡はくすっと笑った。
「じゃ、行こう」
高岡は、真っすぐに影森を見つめた。
外に出た。今日もいつも通り雨が降っている。
「傘、だっけ」
高岡は空を見上げ、ポツリとつぶやいた。
「昔の人が使ってたって習ったやつ」
「今日の世界史だっけ。そうだと思う」
影森は何となく答えを返した。傘とは、円錐状に布を開いて、雨を防ぐために使う道具だったという。
不便だったろうな、と影森は感じた。今は、何でも防水が当たり前だ。バックも、教科書も、制服も。髪だって、タオルで拭けば一瞬で乾くのだ。
「相合い傘って知ってる?友達から聞いたんだけどね」
「う〜ん、分からないや。何?相合い傘って」
そう聞くと、高岡は上を見上げたまま、秘密だよっ、と返した。
「なんじゃい、教えてよ」
「えへへ。面白いね、歴史って」
高岡はにっこり笑って、誤魔化すように外へと歩き出した。置いて行かれないように、影森も後へ続いた。
「今日でこの学校も最後かー」
明るく言っているが、寂しそうなのは隠せていなかった。気の利いたことを言おうとしたが、思いつかない。
「忘れ物とか、してない?」
何となくそう聞くと、高岡は少し考えて、こちらを振り向いてきた。
「うーん、特にはないかなぁ。」
「そっか。良かった。」
「あれ?なんか残念そうな響だなぁ」
そう言って高岡は悪戯っぽく笑った。
「うーん。…忘れ物あったら、花美が取りに来た時にまた会えるかなって、思ったのかも」
影森がそうやって返すと、高岡はえっ、と小さくつぶやいて、慌てた様子で前を向いた。流石に気持ち悪かったかなと思って、影森も慌て始めた。
「ご、ごめん。変なこと言った」
「…バカ」
ムスッとした呟きが聞こえてきた。どこかくすぐったそうで、嫌そうで、嬉しそうな声。
そこからしばらく、お互いに喋りづらくて、影森は高岡の背中を見ながら歩き続けた。
二人は電車で高校に来ている。駅はさほど遠くはないので、いつもはすぐに帰れるが、今日は影森に寄りたいところがあった。
「あ、あのさ」
高岡に声をかける。止まってくれたが、こっちを見てはくれない。
「最後に、パン屋寄ってかない?いつものところ」
高岡の髪がなびいた。少し待って、風がおさまった頃、高岡が振り向いてきた。照れくさそうにえへへっと笑って。
「うんっ!行こう!」
あぁ、これが幸せかなぁ、と影森は思った。
そうしてパン屋についた。
駅前にあり、いつも少し混んでいる小さな物だ。けれど、今日は申し合わせたように人が少なかった。
「いらっしゃい、お二人さん。今日もメロンパンにするかい?」
店主のおばさんが声をかけてきた。何度も通ってきたから、もうすっかり覚えられている。
「どうする?」
「そうだなぁー…。じゃあ、今日はメロンパンと、この季節限定の、梨のパンにしようかな」
「分かった。…おばさーん、メロンパンと、この季節限定パン、2つずつちょうだい!」
「はーい。」
影森はちらっと高岡のほうを見ると、もちろん財布を取り出そうとしていた。それを手で静止して、困惑する高岡に軽くグッドポーズを返す。
今日ぐらい、カッコつけさせてよ。と見つめ返すと、伝わったのか、高岡は少し嬉しそうな顔をした。
「はい、メロンパンに梨のパン。焼きたてだからね!」
そう言っておばさんは、ピッピとレジを打ち込んだ。
「あれ、値段…」
表示された金額は、いつものメロンパン2個と変わらないものだった。不思議に思っていると、おばさんがにっこり笑って、ひそひそと声をかけてきた。
「風の噂で聞いたのよ。高岡ちゃん、今日で引っ越しちゃうんでしょ。」
おばさんは耳をトントンと指さした。
「だからいいのよ。2人が美味しく食べてくれるのなら。」
「おばさん…。」
ありがとう、と影森は細い声で呟いた。
高岡はというと、隅の方に移動して、なにやらガサゴソとバックを漁っていた。そして丁度、探し物が見つかったようで、こちらにやってきた。
「あ、あの。」
「どうしたの、高岡ちゃん。」
「これ、お礼です。今までありがとうございました!」
そう言うと、高岡は手紙に、小さなイヌの置物を添えて、おばさんへと差し出した。
一瞬、おばさんは目を丸くしたが、すぐに嬉しそうな顔に変わった。
「なんて…まぁ、ありがとうねえ。」
そう言って少し手を震わせながら、おばさんは贈り物を受け取った。
「こんなもの、貰えるなんて夢にも思わなかったわ。」
少し声が涙ぐんでいる。
「高岡ちゃん、絶対、また来てよね。とびきり美味しいメロンパンを焼いておくから。」
「はい、必ず!」
それを聞くと、おばさんはくるっと振り向いて、奥の方に贈り物を置いた。そうして、包みかけだった2種類のパンを改めて包み直して、2人に差し出した。
「はい、メロンパンに梨のパン。」
袋を受け取る。いつもよりずっしりとした重みがあった。
「またね。2人とも。」
「はい。おばさんも元気で!」
高岡が少し大きい声で返事をした。それに続こうと、影森も口を開けたが、言葉が出なくて、しょうがなく手を振った。
おばさんはどこか寂しそうに、小さく、手を振り返していた。
ピンポーンと放送がなっている。
駅のホームについた2人は、作られてから時間の経っていなさそうな屋根の下、買ったパンを食べていた。
「梨のパン、どう?」
「すっごいおいしいよ!なんかね、やさしくて爽やかな甘さがあるの」
「なるほどー。めっちゃ美味しそう!」
そう返しつつ、影森もメロンパンにかぶりつく。
やっぱり、あそこのパンは美味しい。
高岡と食べるなら、尚更だ。
「あ〜、幸せだなぁ。こんな美味しいものが食べれるって。ありがとう、影森君」
一瞬でパンもなくなり、高森はとても満足そうにそう言った。どういたしまして、と言うと、高森は小さく笑った。そんな横顔も可愛いなぁ、と見ていた。
と、ここで、言ったほうがいい事に気づいた。
「あのさ、春華。」
「へっ?…、う、うん!なに?」
「口にクリームついてるよ」
そう言うと、高岡は顔を真っ赤にして、少し硬直したあと、くるっと振り向いて、慌てた様子でハンカチを取り出した。
影森は、何で振り向いたのかな、と思いつつ待っていた…が、高岡はしばらく後ろを向いたままだ。
「は、春華?大丈夫?鼻血とか出たの?」
「えっ、もう、いや、大丈夫だから!ちょっと待ってて!」
突き放すような早口で返事が返ってきた。また変なこと言っちゃったかなぁと少し申し訳なくなっている影森と、顔を真っ赤にしてそっぽを向く高岡との間に、何とも言えない空気が流れた。
と、ここで電車が駅に入ってきた。
ピンポーンと放送がなる。
「花美、本当に大丈夫?で、電車きたけどさ、」
そうやって影森は声をかけようとしたが、高岡はかき消すように返事をした。
「うん、もう大丈夫、大丈夫だから。電車、のろっ」
まるで自分に言い聞かせるように返して、高岡は振り向いてきた。顔の赤みはなくなったが、まだ目が少し赤かったのは気になった。
ザーーーっと電車がやってきた。雨を押しのけながら進む力強さが、心地よい風となって2人の前を横切る。
「今日でこの電車に乗るのも最後かもなんだよね」
高岡は、そう呟いた。
「本当なら卒業まで乗ってたかったけどなぁ〜」
ガララっと電車の扉が開く。高岡は一瞬、拒むように左足の踵をトントンとしたが、思いは決まったのか、その勢いのまま一歩前に踏み出した。
「またいつか、きっと乗れるよ」
「うん…、うん!そうだよね」
2人はそう言って、電車に乗り込んだ。
微妙な時間帯だったので、電車はほとんど人が乗っていない。おかげで、2人とも座ることができた。いつもならとても嬉しいで済むが、今日の影森は少し緊張していた。
「はぁ、疲れたなぁ。あ、そうだ、影森君、さっきのパンの写真、送っといてくれる?」
「うん、もちろん。…4つ取ったんだけど、どれがいいとかある?」
そう言って影森は写真を見せた。どれもおいしそうに撮れている。
「う〜ん、選べないなぁ」
「それじゃあ、全部送っとくよ」
「いいの?ありがとっ」
そうして影森は、スマホの画面を操作しつつ、ちらっと高岡を見た。さきほどから高岡はどこか上の空で、外を見つめてぼぅっとしている。
その後2駅ほど、影森は話を切り出すことができず、そして高岡が話し出すこともなく、2人で雲だけが広がる空を見つめた。
駅で電車の扉が閉まった頃、影森はそろそろ、高岡に話しかけることにした。
「あ、あのさ、花美。さっきから外をずっと見てるけど、何かあるの?」
「え?あぁ、えっとね」
そう聞くと、高岡はやっと目に光が灯った。
「私ね、夢があるの」
「夢?」
「そう。月を見るって夢」
「月…?月かぁ、あの、地学で習ったやつ?」
高岡は軽く頷いた。
「いつまでも、いつまでも曇り空なこの世界がね、」
高岡は、外から目を離さず、ぼんやりと、ぼんやりと話している。
「いつか晴れたらなって。そう思うの。」
影森には、かける言葉が見つからない。
「誰かが晴らしてくれるのかな。」
そう言って、高岡はうつむいた。
「ずっとこのまま、電車に乗っていたい。いつか晴れて、星が光って、月が見えて、それまで、ずっと。」
影森は黙っている。悲しそうな友達を慰めることも、勇気を出して励ますことも、一心に自分の思いを伝える事もできない、自分の弱さが恨めしくなった。
「それじゃあ、私、行くね」
ピンポーンと音がする。扉が開く。
高岡は、寂しそうに、雨の降る空の下へ、足を伸ばしている。
影森がそれを実感するまで、少し間があった。
「…!花美…!」
ばっと立ち上がった。伝える。伝えるんだ、自分の思いを。それは、今、この世界で、俺しかできない。
遠ざかる背中に追いつこうと、手を伸ばして、外へと足を進めようとした、その時だった。
「影森君!」
その声は、影森の心に、静かに響いた。
ピンポーンと音がする。
扉は、今、閉まろうとしている。
くるっと、高岡はこちらへ振り向いた。
いつも通りの、可愛い、俺が大好きな、あの笑顔が見えた。
扉が閉まる。
高岡の口が、優しく、小さく、楽しそうで、恥ずかしそうで、泣きそうで、どうしようもなさそうに、音を一つ、世界に産み落とした。
《名前の由来》
二人とも秩父鉄道の駅名より拝借。
影森→影森駅 花美→御花畑駅
庄子、高岡は「星がよく見える」からの連想ゲーム。
高岡→高い丘 庄子はちょっとわからん。
こういう作品は初めて考えましたが、書いていると意外と楽しいですね。




